第10話
鶫の背は細身が目立つ黒服で更に細く見えた。どうも、戦場に立つような獰猛な人材には見えない。
「うちの救護所に着いたら、お願いだから何処かに行こうとしないでくれよ。これ以上に怪我されると困るんだ」
少し困ったように、鶫は言う。羚と愛はそんな鶫の背を追った。目に見える先、うめき声が混じりながらも、楽し気な笑い声も聞こえる。どうやら、三人が向かっている先には、多少の平和が淀み混ざっているようだった。だが、唯一、その中でも妙な狼狽えと不安感を持って、騒ぎ立てている場所がある。
「美香さん!」
唐突に、鶫が一人の女を呼んだ。それは、騒ぎの中で、薄い桃色の髪を振り乱す、白衣の女だった。
「鶫? どうしたの、アンタ、お父さんと一緒じゃなかったの?」
「俺は後ろの配属だったから、途中で別れた。七車の人に、この二人を任されて連れて来たんだけど……何が起きてるの?」
美香という女は、羚達を見ると、ハッとしながらも、足を世話しなく動かす。その後ろでも、騒がしく軍服や白衣の者達が何かを探している。
「実は、
美香がそう言うと、鶫は背を見るだけでもわかるほどに、冷や汗を流して突っ立った。そのまま、羚達の方に顔を向ける。その顔は、今までのへたれた少年の顔ではなく、何かを求める、重々しい決意の顔だった。そのまま、鶫は走り出す。愛も、羚も置いて、来た道を戻る。それを追うように、美香は体重を前に出したが、声を張り上げるだけにとどまった。
「どこ行くの!」
「昨日あれだけ駄々こねたんだ! 戦場にいるかもしれない! 探してくる!」
「大丈夫なの!?」
「大丈夫じゃない! 前線は学徒隊と政府と自軍が入り乱れて交戦中! 個人戦しか知らない朝夜じゃ無理だ!」
その逃げ出した一人はお前だろうと、羚は喉の奥まで出かけたが、愛が自分の手を握る圧で、押し黙ることを決める。羚はうーん、と、喉を鳴らして、美香を見上げた。彼女の四肢や肌、薄桃色の髪は、光に当たれば当たるほど、その強烈な美貌を発散させる。だが、それを楽しんでいるほどの余裕が無い事くらいは、羚もわかっていた。既に、羚達の目線の先には、鶫はいなくなっている。羚は美香の服の裾を引く。
「すみません、何が起きてるんですか?」
丁寧に、冷静に、羚は言った。その様子に、美香はしゃがみ込み、目線を合わせる。
「戦争よ、羚の坊ちゃん」
ハッキリと、彼女はその名を口にした。まるで、初めから知っているようだった。
「大きくなったわね。お母様——輝夜ちゃんはお元気? よく戻って来たわ。こんな戦場じゃなければ、ゆっくりお話する所だけど、ごめんなさいね。今は緊急事態なの。テントの中で待っていて。探さなくちゃいけない子がいるから」
母の名を口にする彼女は、そう言って、鶫を追いかけるように、その場を後にする。テントは黄ばんだ布で出来ていた。愛の手を引いて、喧騒の空間を歩いた。
「騒がしいね」
鈍い羚の感覚が、少しだけ研ぎ澄まされていることを知る。耳の中を回り巡る、朝夜という名を咀嚼した。
「新しい子?」
突然、そんな言葉が聞こえ、羚と愛はそちらを見やる。借りた服が、羚の細い腕を引く。その声は、鈴のような清らかな、静かな声だった。それを発したのだろう少女もまた、無垢を見る様な、厳かな雰囲気の少女だった。光に照らされている白い銀糸は、赤と青を称えた二つの瞳を風と共に、時々隠している。
「おいで、外は騒がしくて煩いでしょう。一緒にお喋りしよう。皆が戻ってくるまで、一緒に」
対話しようという誘いに、多少のトラウマを埋め込まれた愛が、羚の後ろに隠れた。あら、と、銀無垢の少女は首を傾げる。
「君達、幕府の子じゃないでしょう。私もよ。来たばかりだと、わからないことばかりでしょう。不安にもなるだろうし、ね、一緒に居よう」
どうやら、話す以外に、何も出来ることはないらしい。羚はまた愛の手を引いて、銀の少女に近寄った。愛は一度は拒否するように立ち止まったが、羚が笑いかけると、不服そうな表情ながらも、羚と少女の間に陣取る。
「私、
少女は、朝伏は、銀糸を緩く束ねた黒い帯を揺らして、愛に問う。
「柳沢愛」
「稲荷山羚です。ついさっき、ここに来たばっかりです」
愛と羚がそう言うと、朝伏が笑う。妙な冷静さと、姉のような大人らしさを兼ね備えた穏やかな彼女は、唐突に言葉を落とした。
「二人は付き合っているの?」
何故それを今尋ねたのかと、羚と愛は顔を合わせる。
「キョトンとしないでよう。聞いてみただけじゃない。否定ならいいえ、肯定ならはいと言えばいいだけ」
朝伏はそう言って、にんまりと愛を見た。その視線を嫌がるように、愛は羚に擦り寄る。
「付き合うとか、そういう前に、一緒に住んでいました。僕は家族がいなかったから、愛と一緒に暮らしていました」
羚がそう言うと、朝伏は、あら、と口を零す。どうやら、想定外だったようで、朝伏は言葉を選んでいるのか、口を押えて黙りこくる。暫くして、彼女はまた口を開く。
「君って、本当に稲荷山羚君だよね? 羚君、政府側でお母さんと暮らしているって皆言ってたから、少し驚いちゃって」
朝伏の言葉に、羚は首を傾げた。
「ねえ、お母さんはどうしたの? 輝夜さんだっけ。あ、
つらつらと並べたてられる朝伏の言の葉は、羚を揺らす。愛が繋いだ手を握りしめていることが分かった。手の中は汗で濡れている。羚は口を一文字に閉じて、朝伏が言葉を置き終わるのを待った。
「……じゃあ何で、鶫君と一緒にここまで来たの? ずっと他人だと思ってた?」
朝伏の問いに、羚は目を丸くした。
「それは……貴女と似た、篤宮お雪さんっていう、お姫様に、幕府のことを少しだけ教えてもらって……その部下のお姉さんに、お風呂まで連れて行ってもらって……お風呂で、たまたま、鶫さんと会って……本当に、偶然に、鶫さんがここまで案内してくれて……」
少しずつ垂れる羚の言葉は、朝伏の微笑みを崩すことは出来なかった。彼女はただ黙って、ずっと、羚の言葉に、適当な相槌を打ちながら、その様子を眺めるようである。
「駄目だねえ、鶫君。逃げたのは自分だったわけだ。あーあ、後で朝治さんに折檻されるわ」
羚の声を聴き終わった後、朝伏は独り言のように、そんな事を言った。
「まあ、朝夜ちゃんを連れて帰ってくれば、まだ誉かもしれないけど。あぁ、ごめんなさいね。鶫君はね、羚君、君の二つ上の、異母兄なんだけどね、君と違って、度胸が無いの。もしも君と同じ状況に置かれてたら、きっと彼なら、パニックになって、逃げだしてるわ」
朝伏がそう語ると、羚はそれを言葉で遮る。
「どうだろう、それは————」
「あら、まだ出会って数分なのに、モノ申せる?」
「いや、そうじゃなくて。そうじゃないんです」
羚は少しだけ考えるふりをして、朝伏との間に挟まった愛を自分の方に寄せた。すると、息を貯めて、また語り出す。
「もし
少ない語彙で、羚は頭の中のことを吐く。そのうちに、羚は、何かに気づいたように、あ、と小さく声を上げた。
「もしかして」
羚の言葉に合わせて、朝伏は首を傾げた。その雰囲気が、優し気なものから、一握りの殺意と、それと同量の愉悦を含んだ、膨大で真っ黒なものに感じられた。
「朝伏さんですよね? 朝夜ちゃんって子を戦場に隠して行かせたの」
名を刺された朝伏は、にんまりと、愛と羚を見つめていた。赤い目と青い目の両方が、二人をそれぞれで捉えていた。
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