第9話
血みどろの体が、少し痒くなって、羚は服の袖で首を掻く。愛の手は左手で握りしめていた。目の前を歩いて案内するカリンパは、やはり困ったような表情で、二人をちらりと見る。
「……貴方達、えーと、名前は?」
カリンパの問いに、真っ先に羚が笑いかけて、その名をかざす。
「僕は稲荷山羚。こっちの女の子は、僕の幼馴染の、柳沢愛」
崩されない笑みを、羚はカリンパに向けて放つと、彼女はふむ、と唸って、また考える様な仕草で首を傾げた。ふと、何かを思い出すように、彼女は再び口を動かす。
「柳沢というと、先々代の皇后の咲宮媛の外宮名じゃないか。それが日ノ本で名を名乗っているというのは、不思議なことだな」
独り言のように、そんなことを、獣の耳をぴくぴくと動かしながら語る。だが、その意味を解さない二人は、お互いに顔を合わせて、何を言っているのだろうと、解せない感覚を共する。
「……あぁ、そうか、貴方達は何も知らないのか。しょうがない。学校で習うと良い。名を聞いて分かった。貴方達は、自分で思っているよりも、格段に高い地位にいる」
お雪と同じことを、彼女は復唱した。カリンパは微笑みながら、個人的には何かを理解したようで、襖の一つを開ける。
「野営風呂ですまないが、男女には分かれている。時間が無いので、血を流したらすぐに上がってくれ。着る服はその辺から拝借してくる」
簡素なテントのようなものが、中庭に見えた。外は冷える空気を社の内部に吹き付けてくる。テントの隙間から、暖かそうな湯気を見つけ、促されるままにそのテントまでの砂利を歩く。振り向くと、カリンパはいつの間にかいなくなっていた。
羚は愛の方を見て、愛は羚を見る。お互いに、男、女、と区切り分けされた入り口に立って、その様子を見る。
「上がったら、社の中で待ってよう」
約束事を、羚は愛に突き付けて、愛の、静かな、わかったという言葉を取り出す。テントのぶ厚い布を潜った。一気に蒸気が漏れ出して、白く空気を濁らせる。湯の臭いと、それに至るまでの脱衣籠の山を見て、羚は溜息にも似た深呼吸を置く。
薄暗く、辛うじて何処に何があるのかがわかる程度のそこには、複数の籠が設置され、とりあえずは、自分はそこに血濡れの着物を置けばいいのだと、簡単に理解が出来た。一番近くにあった籠に、羚が乾いてパリパリになったシャツを置く。その他諸々を脱ぎ、畳んで籠に放り込むと、ふと、その隣の籠に目が行った。どうやら、自分以外に一人、誰かが風呂の中にいるらしく、几帳面な、四角い畳み方をした、黒い軍服のような服が置かれている。その丁寧さと、清潔さから、自分が如何に不浄な布を着込んでいたのか、比較して取れた。
素肌を晒したまま、もう一枚の垂れ幕に手をかけ、漏れ出る湯気の中に顔を突っ込む。ぴちゃんぴちゃんと水の軽やかな音がする。シャワーのようなものはなく、大量にプールのようなものに入れられた湯と、水、それを流す排水溝のようなものだけがあった。実に簡単に、湯船に浸かって、湯を被って、汚れを流せ、と言っているようなもので、文明的とは比較的言いにくい。
その様子に溜息を吐くと、ぼちゃん、という、何か、大きなものが、水の中で動く音がした。
「あの、すみません」
羚が一言声を上げると、ヒッと、誰かの怯えた悲鳴が聞こえる。その声の先を、効き尋ねようと羚が口を開いた瞬間、その声は走り始めた。
「っすみません、すみません、いや別にね、隠れてたとかそういうことじゃないんですよ! ちょっとね! 返り血を浴びてね! 僕も召喚士ですから! 部隊に女の子多いんで! 臭いがきついとね! 駄目なんで!! すみません! サボってたわけじゃないんです!! 許してください!!!」
ジャブジャブと奥に引き込む音と、羚とそう歳も変わらなさそうな少年の声が、そんなコダマを作る。良く響く声は、羚の耳に響いて、羚は片方の耳だけ、指で栓をするが、その後、すぐに譫言しか聞こえないと知ると、つまらなさそうな顔で湯舟に足を入れた。
「あー、すみません、すみません、サボりは認めるから、怒らないで……」
羚が近づくごとに、そんなことを言って、少年は湯煙で確認できない羚の姿に怯える。ただ、その怯え方に不快感を覚えた羚は、ゆっくりと、怯える時間を増やすように、わざわざ蛇行しながら、湯船の奥に向かって行く。
「……大丈夫ですか?」
一番奥、少年の姿がうすらぼんやりと見えた頃、羚は始めてそこで声を表す。目の前で、え? という声が聞こえて、少年が、自分に気づいたのだとわかった。
「誰?」
少年が問う。彼は少しだけこちらに近づいて、お互いが、その身を見せた。少年の体つきは、羚とそう変わらず、顔つきから、少し上程度の年齢であることが伺える。瞳は羚と同じ、群青であるが、そこに金を見、ラピスラズリのそれを見る。艶のある黒髪は短髪で、前髪をかき上げられて、湿った空気に固められていた。少女のような、整った顔立ちを、ぽかんと羚に見せる。
「僕は稲荷山羚。君は?」
淡々と、羚が言葉にすると、その勢いで、少年もまた、名乗り上げた。
「俺は
混乱と思想を束ねて、出ない言葉を切り分けて、少年、鶫はそう尋ねる。何を聞いているのかが解せずに、羚はうーん、と、唸って、目を開けた。
「説明が僕も難しいんだ。長くなりそうだから、寒いし、湯船に浸かっていいかな?」
羚がそう言うと、鶫は黙って頷いて、自ら肩まで湯につける。羚が合わせて同様に動くと、首から顔にかけての血液が、湯に流れ出した。
「どうしたんだ、怪我したのか!?」
怯える鶫は、ぎょっと羚の肩を掴んで、迫る。だが、羚はきょとんと、首をかしげる。
そのうちに、あぁ、と何処か納得した様子で、口を零した。
「大丈夫だよ。心配しないで。怪我はしたけど、もう治ったんだ。その血を流しに、ここに来たんだ。大丈夫だよ。怖がらないで」
愛に言うように、羚はゆっくりと、鶫の精神を穏やかに撫でる。それと同様に、鶫の頭を、濡れた掌で撫でていた。訝し気な顔で、鶫はその手をはらうと、羚を見て、また口を開いた。
「……なあ、お前、配属は何処だ? 稲荷山家の戦士なんだろ? 何で俺を本部に付き出そうとしない? 何で俺のこと知らないんだ?」
いくつもの何で、を突き出した鶫は、羚のぽかんとした顔に、どんどん言葉をぶつけていく。だが、やはり羚には何のことかがわからず、ぼけーっとそれを聞くばかりであった。
「答えろよ……戦場に引っ張り出すなら出しに行け……俺より弱そうな奴が怪我するまで戦に出て、俺が出ないなんて、阿保らしいんだろ……?」
情緒の収束しない少年の、永遠に続きそうな言葉を、流石に受け取り切れないと、羚はまた頭を撫でる。
「よくわからないけど、僕、別に君を探してなんかいないし、正直、君が戦場に出ようと出まいとどうでも良いから、勝手に出ないなら出なくて良いと思うな。それと、僕のことを何処からかの使者とか思ってるなら、勝手にそう思い込んでここで怯えながらお湯の中に沈んで死んでれば良い」
にこやかな羚の笑みから漏れ出す静かな罵倒に、瞳と同じように、顔を青くして、小さく、すみません、とまた鶫は零す。にこにこと顔を変えぬ羚に、鶫はそのまま黙って、静かに沈んだ。
そんな時、ふと、背から冷えた空気を感じ、羚は鶫に構うのをやめて、振り返る。
「おい! 羚君! 血は流したか! 着替えを用意した! 着替えてテントの外に出てくれ! それと、もしかして誰か一緒にいるのか!」
カリンパの声が高らかに響き、脱衣所の入口に、顔を突っ込んで、こちらにそう言っているのだとわかった。顔だけを出した鶫が、ヒッまた短く悲鳴を上げると、カリンパが続ける。
「丁度良い! 軍服からして幕府の者だろう! すまないが、その少年と、もう一人、少女を蝦夷藩の拠点に連れて行ってあげてくれ!」
その言葉を聞いた鶫は、ざばっと湯船から体を出し、羚を見る。
「…………」
「…………」
お互いに、無言で目を合わせる。しっかりと二人とも立ち上がると、鶫の方が、背丈はあるようだった。
「良かったね、戦場に出てない理由が出来て」
羚がそんなふうに笑うと、鶫はハハッと乾いた笑いで、引きつった口角を宥めた。
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