本編


 退職願を書いたのは初めてのことで、正しい形式になっている自信はなかった。ボールペンで、母が出所したために家業に専念することになった、という旨を書いた。

 ママはカウンターの柔らかい椅子に腰かけながら、それを受け取ると半ば疑いの目で眺めた。

 一通り目を通すと、ママは言葉の感触を確かめるように、いつになくゆっくりと口を開いた。

「本当にいいのかい?」

 わたしは兼ねてから準備しておいた通り、何気ない風を装って首を縦に振った。慎重になり過ぎて、逆にぎこちなかったかもしれない。

 ママは溜息を零すばかりだった。

 ママは人の心を読むのに長けていた。気分が悪かったりして平生の調子から少しでも違うと、すぐに指摘することができた。だから、気付いていただろう。

 このとき、ママは多くを語らなかった。予想していたように「これからどうするの?」とは訊かなかった。ただ「分かった」と静かに言った。

 別段、他の書類などを書く必要はなかった。手渡した辞表の稚拙な文字列だけで、わたしは娼館を去ることができるらしかった。

 わたしは感謝を述べ、できる限り深くお辞儀した。行く当てのなかったわたしを雇ってくれたのは、他でもないママである。こんなわたしでも、自分の力で生きれるのだと教えてくれた。その力の実感だけが救いだったのだ。

 荷物をまとめて立ち去ろうとすると、ママは最後にわたしを呼び止めた。

「あんたからは危険な匂いがするよ。いいかい、自ら破滅するのだけは止しな。それだけを守ってくれるなら、何処に行ったって構わないさ。あんたは自由なのよ」

 全てを見透かしているように、ママは言った。その表情は別れを惜しむようではなく、憐れんでいるようだ。

 そのもう一度お辞儀して、わたしは娼館を後にした。




 母は父を殺した。わたしも父を殺した。

 子どもの頃、家にはいつも白い粉の付着したビニールが落ちていた。元々はドラッグが包装されていたもので、母が服用していた。わたしが物心ついたときには、母は既に薬に脳をぐちゃぐちゃにされていた。

 母はわたしをよく殴った。わたしに問題があったとは思えない。殴るのは絵本を読んでいるときや、飲み物を飲んでいるときなど、さまざまだった。だから、わたしの体にはいつも痣があった。母は近所から「おかしな人ね」と噂されていたらしいけれど、住んでいたスラムでは珍しいことではなかった。

 家族の中で、稼ぎ手は父しかいなかった。しかし、下流階級である父はまっとうな職に付けず、違法な手段に手を染めていたようだ。収入の大半は母のドラッグに消えた。母は借金を抱えていて、その取り立てに大きな男の人がやって来るのを何度か目にした。父はその男の人に殴られていた。

 お金はなかったが、父は借金をしてまで学校に通わせてくれた。しかしそれは、わたしがどれだけ貧相な生活をしているか明白にしただけだった。

 わたしが学校に通わなければ、父が死ぬことはなかっただろう。母も、子どもの目の前で父を刺し殺すほど良識が欠如していたとは思えない。それとも、自分勝手な妄想だろうか。正直なところ、母の精神がどれだけまともだったのかわたしは覚えていない。

 ただ、殺してやりたいと常々思っていた。社会のシステムの問題なのかもしれないが、全てを母に押し付けて、恨んだ。

 わたしは何も選ばず、不自由に死ぬ運命なのだと思っていた。わたしには力がなかった。

 結局、死んだのは父だった。

 その日、雪が降っていたのを覚えている。

 夕方、学校から帰ると、血だまりの中に父が大の字になって転がっていた。体は幾度も刃物で刺されたようで、助からないとすぐに分かった。

 そのとき、父にはまだ意識があった。わたしが血の噴き出す父の胸に手を当てると、瞼を薄く開けてわたしを見た。右手でわたしの頬を撫でた。陸に打ち上げられた魚のように呼吸していた。何かを話そうとしていたが、穴だらけになった肺から空気が漏れて聞き取れなかった。

 父の渋面を見たのは初めてだった。いつもあからさまな感情を表さず、淡々と日々をこなしていた。だから、父が死ぬのだと明確に感じられたのはそのときだった。

 そんな強張った顔は不意に歪んだ。僅かに口角が上がった。それが何を意味していたのか理解できなかった。父の手が頬から離れ、ぎこちなく懐に入ていく。

 そして一丁の拳銃を取り出した。父が護身用に、と持っていた物だった。

「何かを為すなら、力が必要なんだ。この銃はそのためのものだ。わかるかい、モイラ」

 かつて、父がそう説明したのを思い出した。モイラ、と珍しくわたしの名を口にしたのが印象的だった。「しかし、力には責任が付きまとう。だから、使うときは覚悟が必要なんだ。わかるね」

 記憶の中の父は饒舌だった。

 父は取り出した拳銃をわたしに差し出した。死にたがっているのだと思った。酷く歪んだ顔が「殺してくれ」という叫びに見えた。しかし、真意は分からない。何かを託そうとしているようにも見えた。父は呻くばかりだった。

 わたしは何も考えず、おそるおそる銃を受け取った。手渡された瞬間、その重量で落としそうになった。手の平にひんやりとした感触が伝わってくる。触れてみると「銃は力なのだ」という父の言葉の意味が分かってきた。わたしは引き金を引くこともできるし、引かないこともできる。それを知って、背筋に冷たいものが走った。

 これでわたしに何を為せと言うのか。

 父の目尻には涙が浮かんでいた。それが痛みによるものなのか、喜悦によるものなのか判断できなかった。呼吸は荒くなっていて、早く楽にすべきかもしれないと感じた。

 銃口を父の額に付けた。

 父は震えながら口を開いた。何を言っているのか分からない。言ってくれないと分からない。「殺せ」「ありがとう」「死にたくない」どれにでも聞こえた。

「お父さん、何を言っているの」

 父は苦しむばかりで、反応がない。肺に開いた穴から流れる血は、ペットボトルから水が零れるみたいだった。

 指をかけた引き金は、溶接でもして固定されているように重たかった。

「言ってくれないと、わからないよ。……わからない、よ」

 どういうわけか、当時のわたしは助けを求めるということを思いつかなかった。

 父をどうするか決めるのは、父自身であってほしかった。自分の行く末くらいは自分で決められる世の中だと信じていた。

 何より、恐怖があった。わたしは選択を迫られた。

 父を苦しみから解放すべきか否か。その罪を背負うべきか否か。父は何も言わない。

 結局のところ、わたしは決断できなかった。父を見殺しにしたのだ。撃つのでもなく、撃たないのでもなく。わたしは何もしなかった。

 わたしは銃口を父に向けたまま、長いこと固まっていたらしい。目からは涙が流れていた。気付くと部屋は暗かった。血だまりが変色し、黒い絵の具をこぼしたみたいだった。

 ほどなくして、血まみれの母は捕まった。凶器のナイフを握りしめて、街を歩いていたのだという。

 そして父も母もいなくなると、わたしは一人になった。




 短い階段を昇り終え、娼館から出ると雨が降っていた。冷えた風が吹き、わたしは両手に息を吹きかける。冬であっても、マルドゥック市に雪が降ることは少ない。雨は排気ガスによって淀んだ空気の中に溶け込んで、街の輪郭を一層ぼやけさせた。

 遠くに一本の塔、天国への階段マルドゥックが佇んでいるのが見える。白い靄の向こうで影になって、わたしたちを見下ろしている。巨大であるが間近で見たことは一度もない。だから、塔はわたしにとって紙に書かれた文字と大差なかった。抽象的な感じがした。でも、確かな実在感があった。

 わたしは何ともなしにじっと塔を見ていると、不意に名を呼ばれた。

「モイラ」

 セシルが入り口に寄りかかってわたしを待っていた。

 セシルは古くからの友人だった。母と父が消えて、わたしは施設に預けられた。そこで初めてできた友人がセシルだった。その後、一緒に施設から逃げ出して一緒に娼婦になった。

 もっとも、逃げ出したときはもう一人、バロットという少女がいたのだが、今はいない。

「本当に辞めるのね」

 セシルが訊いた。

「うん。何か不満?」

「私に何の相談もしないで何よ、とぼけた顔して。母親のせいなの? どう最近の様子は」

「入院したわ。出所して一週間もしない内にね。車にはねられたって電話がかかってきた」

「へぇ。じゃあ、家の中は快適じゃない。病院にいたんじゃ、家を荒そうにも荒せない」

 母が帰って来てから、家の荒れ様は酷かった。どうして出所が許可されたのか分からない。母は子どもの頃同様か、それ以上に理性を失っていた。

「……そうね」

「ふーん。で、辞めてどうするつもり? 施設も辞めて、ここも辞めて。今度はどこに行くの」

「もっと、まっとうな所に」

「そんな場所、あるわけないでしょ」

 セシルは違うようだが、施設での生活に不満はなかった。同じような境遇の子どもが多く、お互いに共感しあうことができた。社会から除け者のように扱われていた今までの生活と比較したら、むしろ良くなっていた。殴られることもなかった。

 しかし、違和感はあった。ぼんやりとして、何もできない間に全てのものが流されるのではないかといった危機感があった。流された末にこの施設にいるのだ、という実感が日に日に強くなった。

 だからあの時、娼婦になる事を決意したのだ。施設を出たあの日、妙な充足感があったのを覚えている。それがどんな道であれ、わたしには選ぶことができたのだ。そう心で繰り返し唱えていた。

「仕方ないのよ」

「それで、逃げるの? ここで満足すればいいのよ。稼いで、食べて、暮らしていける。それで何が……」

「違う。もう、逃げたくないの。ちゃんと向き合ってこなかったから。ずっと逃げることしか考えてこなかったから」

 逃げる、という意味が違った。セシルが言う「満足」は、わたしにしてみれば「逃げ」なのだ。それを彼女は履き違えている。

 わたしは懐に手を伸ばした。そこには拳銃が忍ばせてあった。

 わたしはそのグリップを握る。断じて撃つためではない。ときおり触れたくなることがあるのだ。それは施設出てから身に付いた癖だった。

 父に手渡された拳銃はこうして今、わたしの懐にある。これが逃げないための「力」だった。銃は外気の温度を吸って、やけに冷たい。

「何もしないと、わたしはこのまま。このまま、死んじゃうから」

「だからって、何をするのよ?」

 セシルは確信に触れた。それが彼女の聞き出したいことだったはずだ。だから、視線には熱が籠っていた。

 わたしは受け止めきれず目を逸らした。それは誰にも話さないと決めたのだ。

 本当に成し遂げたいことは口にしちゃいけない。誰かに邪魔されてしまうから。そんな不自由をわたしは許さない。

 そうやって、わたしはこっそり引き金を引くだろう。比喩などではなく、本当に。

 そんなことは黙っているに限る。

 病室の母に向かって、わたしの銃口は火を噴く。

 わたしは今まで、銃声を耳にしたことがない。




 長い間、疑問に思っていたことがある。

 あの日、家族が崩壊した日、母はナイフを持って暴れていた。部屋のありとあらゆる物に切り傷が付いていたから、長い時間そうしていたことは明らかだった。

 父は昼から家に居て、そうした母の蛮行をずっと見ていたはずだ。普段の行動から察するに、父は止めに入りもしただろう。そして、母の刃は父を襲った。

 父は銃を使わなかった。相手が女で、武器はナイフである。最期にわたしに銃を渡せるだけの力が残っていたのだから、一度目に刺されたときなんてまだ動けたはずだ。だから、力ずくで母を引き剥がして撃ち殺してしまえば良かったのだ。

 でも、父はそうしなかった。何故だろうと、ずっと考えていた。

 ――力には責任が付きまとう。

 ――だから、使うときは覚悟が必要なんだ。わかるね。

 結局、母の死を背負うだけの覚悟ができていなかったのだ。銃を持ち歩いておきながら、それを手に取ることすらしなかった。

 昔のわたしも同じだった。苦しんでいる父を撃てなかった。ただ、泣いて固まっていることしかできなかった。父にもわたしにも覚悟はなかった。

 あれからわたしは色んなものを見た。施設に連れて行かれ、自分と同じような人間を目にし、そこを抜け出して娼婦になった。

 またそこでも自分と同じような人間を見た。自分を客観視する気分にもなったが、それ以上の効果はなかった。

 でも、明らかに違う人間が一人いた。わたしの先輩でプリンセスと呼ばれた女性だった。当時、娼婦という職業が汚いものだと思っていたわたしは、その美しさに衝撃を受けた。毅然としていて強く、男が要求するどんなプレイだって受け入れた。SMショーではSの役に回って、Mの子をチェーンで縛ったり、ムチで叩いたりしていた。そのときのMの子が浮かべた喜悦をわたしは鮮明に覚えている。後から聞くと、プリンセスだから良いのだと言う。

 プリンセスはベッドだろうとショーだろうと、どこにいても綺麗だった。男に穢されるだけの商売だと思っていたのに、彼女だけは曇りなくそこにいた。誰もが憧れる女性の姿だった。

 そんな彼女は、最後に人を撃ったのだ。ホテルの一室で相手に三十発以上の弾丸を撃ち込んだ。死んだところで、撃つことを止めなかったという。

 終始、プリンセスは美しかった。出会ったときから、別れるときまで。

 プリンセスはずっと計画していたのだろう。どうにかして銃を調達し、わざわざ防音室に連れ込んだ。それが偶然だったとは思えない。

 動機は誰にも分からなかった。彼女は誰にも話さなかったから。法廷でさえ、一度も開口しなかった。彼女は沸騰する心を表に出さず、粛々と為すべきことを為した。

 しかし、法廷は事実を明らかにする場所で、その理由を探していた。だから捜査の手が伸びて、最終的に幼少期に何かがあったせいだ、ということで落ち着いた。

 その真偽は定かでなかったが、聞いた途端、まるで自分のことだと錯覚した。プリンセスとわたしは同じだったのだ。銃を手にして、それを向けるべき相手がいた。幼少期に背負った何かを払拭する必要があった。

 そして、プリンセスは撃った。戸惑いなく、何からも束縛されずに。

 プリンセスが起こした事件がきっかけで、わたしが勤めていた店はつぶれることになった。しかし、誰もプリンセスを咎めることはしなかった。

 一緒に施設を逃げ出した仲間の一人であるバロットは、そのときある金持ちに拾われた。

 残されたわたしとセシルは、他の店を探して再び娼婦になった。そして、しばらく今まで通りの生活を続けていた。母が出所するこの日まで。

 ついに母は帰って来た。それは喜ばしいことだったけど、辛いことでもあった。

 まともな会話もままならなかった。母は家の中で暴れまわった。ある時、ガラスコップが飛んできて、頭に直撃しそうになるのを腕で防いだ。長らく作ったことのない痣が出来て、わたしは十年以上前のことを思い出した。母がわたしを殴っていた頃のことを。

 母が殴るのは、人形に糸を通すようなものだった。母の拳はチクリチクリとわたしの肌を刺し、わたしの体を絡めとっていく。

 わたしは覚悟を固めた。これ以上痣が増える前に、行動しなければならない。

 そこからわたしの計画は始まったが、無意味だった。今、母は病室でじっとしている他にない。重症ではないらしいが、暴れまわるからと病室のベッドに縛り付けられているらしい。

 図らずも、準備は整っている。もう待つ必要はない。




 家は滅茶苦茶に荒れたままだった。本棚は倒れ、机はひっくり返り、ペンや書類が床に散乱していた。それを横目にわたしは淡々と作業を進める。

 クローゼットから黒いコートを取り出して、わたしはシャツの上から羽織った。いかにも近所に少し出かける、といった何気ない服装になるよう努めた。そして、コートの内ポケットには拳銃を差し込む。

 ブーツを履いて玄関の扉を開ける。昼過ぎだが厚い雲に覆われて暗く、相変わらず外は冷たかった。

 ふと並ぶ家々の向こうを見ると遠くに、僅かに青みがかった天国への階段マルドゥックがあった。マルドゥック市のどこからでも見ることができるのかもしれない。気付けば視界の隅を占拠している。

 市の底にこびりついて生きるわたしには、天国への階段マルドゥックは見上げることしかできない。あれは何があっても崩れない、絶対的なものに見える。揺することはおろか、触れることすらできないだろう。市の真ん中に聳え、市の象徴である。

 でも、と時々思う。一発の銃声が振動となって空気を伝播して、あの塔を揺らすことができるのではないか、と。崩せなくとも、銃声なら届くかもしれない、と。所詮ただの妄想だということは分かっている。妄想は脆い。

 わたしは視線を下げ、歩き出す。

 みすぼらしい住宅街を抜けるに従って、徐々に建物が高くなっていった。そして、往来する人と車が溢れ出した。雑踏の中に紛れ込んで、わたしは母がいる病院を目指す。わたしはその病院を訪れたことはなかったが、道程は既に頭の中にあった。

 誰もわたしの行進を阻む者はなく、ただすれ違っていく。一瞬の相対にも表情は読めず、街を流れる血の軍勢を見ている気分だった。早足で次々にわたしを通り過ぎる。

 同じように車道にも大量の車が流れていた。信号が赤に切り替わると一斉に停まった。何かで定められてでもいるのか、決まって運転手はハンドルを人差し指で叩きながら、信号が青に変わるのを待っていた。

 そんな彼等を横目に、わたしは確実に歩みを進める。ゆっくりと。

 車の流れの中に、ふとバロットの姿を見た気がした。人形みたいに黙ったまま、たった一人でハンドルを握り、後方へと走り去ってしまう。

 一瞬のことで、ただ呆然と見ていることしかできなかった。ただ、バロットを見たような感覚だけが残った。

 だから内側に何を秘めているのかも分からない。昔からバロットの皮膚は彼女自身を隠すために存在していたように思う。

 もしかすると、あれは見間違いだろうか。彼女に車が運転できるとは思えなかったし、拾い主のような上流階級特有の着飾った感じもなかった。

 実際のところ、それが本物かどうかなどどうでもいい。それよりも彼女は今何を考えているだろうかと想像した。金持ちに拾われて、無償で愛を受け取って。彼女の顔は上手く笑っているだろうか。その笑みは彼女が心から浮かべたものだろうか。そして、楽しくドライブでもしながら街を流れているだろうか。

 それはわたしの想像の範囲を超えていた。確かなことは、わたしとは違う人間だった、ということだけだ。結果的に彼女は幸福だった。

 すんなりと病院には着いた。淡々と計画を実行するわたしを止める者は現れない。警察だって素通りしたのだ。

 受付に母の部屋を尋ねると微笑みながら応対される。PCをカチカチと打つ音が響き、数分もしない内に母の部屋番号を教えてくれた。一応、面会は大丈夫かと訊くと「もちろん構いませんよ」とのことだった。

 暴れてベッドに固定されている、と電話で聞いていたので、もっと変な顔をされると思っていた。知らないのだろうか。

 受付の女性は変な顔をする代わりに「さっきもその部屋を尋ねられた方がいらっしゃいました」と教えてくれた。

 一体誰だろう。一応事故だというのだから、警察か何かの機関だろうか。考えてみるも思い浮かぶものはない。

 エレベーターに乗り込んで、三階で降り、廊下を歩いてあっけなく目的の部屋に着いた。廊下の突き当りの部屋で317号室と書かれていた。

 バクン、と心臓が跳ねる。それを押さえ付けるように、わたしは懐の銃を静かに握る。冷たい感触が体を冷やしていく。

 さっきの受付の話によれば、来客があるらしい。だから迂闊に部屋に入るわけにはいかなかった。もしも他の人に出会ってしまったら、決行が難しくなる。だから部屋から出てくるまで待つのが賢明だった。

 わたしは部屋の様子を観察することにした。しかし、すぐに違和感に気付いた。部屋は暗く、明かりがついてない。一応耳をそばだててみるも、音は聞こえなかった。

 誰かが居るにしては気配がなさすぎる。

 そういえば「いつ」来客があったのかまでは言ってなかった。来客は帰ったのかもしれない。そう考えると、幾分か安心を覚えた。

 わたしは把手に手を伸ばす。そして、殊更緊張もせずにスライド式のドアを開け放ち、ズカズカと侵入した。

 まず、風に揺られるカーテンが目についた。窓を開け放ったまま、カーテンだけがぴっちり閉められており、冷たい風が緩やかに入ってくる。照明の灯りもないわけだから、予想していた通り室内は暗い。

 ベッドは二つ並んでいて、窓側のベッドで母は眠っていた。まるで赤子のように。

 体は固いゴムのような材質の物できつく縛られており、起きても身動きはとれなそうだった。

 バクン、と心臓が跳ねた。殺すのだ。ここで撃ち殺すのだ。

 わたしはさっと周囲を見回した。暗かったが完全な闇ではない。予想通り誰もいなかった。

 そうと分かれば、コートの内側でくすぶらせていた右手をゆっくり外気に晒す。銃の銀色のフォルムには鈍い光沢があった。

 重い。鏡の前で幾度も構えの練習をしてきたが、これほど重量を感じたことはなかった。今回、中身は空っぽではないのだ。ちゃんと弾丸が詰まっている。

 わたしはベッドの横に立ち、銃を持ち上げた。寝息を立てる母の額に銃口を突きつける。

 カーテンがヒラヒラと揺れて、入ってきた風がわたしの体を冷やしていく。体をうっとおしく駆け回る、熱い血液が余計に感覚される。

 ここまで来たら、あとは引き金を引くだけだ。父にできなかったことを成し遂げ、母を殺す。そして、わたしは一歩前に進む。誰の手も届かないくらい自由なところに。

 引き金は重かった。わたしの指とせめぎ合い、じりじりと後退していく。

 刹那、背後から声が轟いた。

「何してるのよ!」

 振り返るまでもない。セシルの声だった。

「……付けて来たの?」

 受付の言っていた来客がセシルなのだろう。隣のベッドの影にでも潜んでいたのか。こんな間抜けなことはない。

「そんなことどうでもいい。何をしてるのよ。そんなことして何になるの」

「セシル、もういいでしょう。お願い……」

「ふざけないで! それが言ってた『もっとまともな所』なの」

「そうよ」

 すり足で少しずつセシルは接近してくる。わたしは銃を持った右手を母に構えなおし、カチャリ、と音を鳴らす。

「近づかないで!」

 セシルは一瞬全身を震わせ、そして硬直した。

「モイラ、あんたは撃てない。撃てるならとっくに撃ってるでしょう? あんたは優しいから、罪を背負えるワケがない。倫理も罪も超えたって、それは自由なんかじゃない」

「黙って。セシル」

「辛いことがあったんでしょう? でもね、いい、モイラ。逃げだよ、それは。受け入れるしかないの、そうするしか……」

「違う!」

 環境に縛り付けられて、わたしは死ぬ。母の拳に、腐った社会に、私は殺される。なのに、受け入れるなんておかしいじゃないか。

 だからセシルが言う「逃げ」は、わたしのそれとは違うものだ。前のときもそうだった。セシルの「逃げ」は「死んだまま生きろ」と言うのと同意だ。

 わたしは受け入れない。受け入れること自体が「逃げ」だ。

「わたしは選べる。引き金だって引けるから……」

 それは、セシルに向けた言葉ではなかった。セシルはそれを見て覚悟を悟ったのか、再び前進を始める。

「来ないで!」

 叫んでも、今度のセシルは止まらない。ゆっくり着実に距離を縮めてくる。セシルは両手を広げ、諭すように笑った。

 わたしは母に目を戻した。はやく撃たなければ、きっと取り押さえられる。

 引き金に指は引っかかっている。その指に力を込めて、一気に……。

 ――力には責任が付きまとう。

 父の声が頭の中で響いた。気付くと手が震えていた。頭を振って、邪魔な思考を排除する。わたしはもう覚悟を決めたのだから。

 もう一度、母を見た。安らかな寝顔は無知の子どものように馬鹿らしく、憎らしい。どれほど無自覚に母はわたしを……。

「あああああ!」

 わたしは膝から崩れた。糸を失った操り人形のように、全身から力が抜けて倒れた。だがそれは、むしろ糸に絡めとられている感覚に近い。

「くそっ!」

 わたしは叫んで対抗するしかない。プリンセスは撃てた。それなのに、わたしは。

 あのときと同じだった。父を見殺しにしたあの日と。

「モイラ……」

 セシルは何もせず、呆然とわたしを見下ろすばかりだった。

 わたしは次第に、糸に絡められていく。

 その前に再び銃を持ち上げた。このままではいられない。でも、何かが背中に重くのしかかるのだ。

 銃口を窓に向けた。何もない向こう側に。

 そしたら、少し楽になった。

 わたしは引き金を引いた。

 弾丸はカーテンを突き抜けて、高く聳える塔に向かって進んで行く。

 初めて聞いた銃声の残響は、耳の中で反響を続けた。

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市の底 外山 @tym-t2n

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