第34話 逃避行

北朝鮮国内



 北朝鮮に取り残された偵察分遣隊の十一名の隊員達は追尾を振り切るべく山を越えていた。隊員達の疲労は増している。みぞれ交じりの雨が降り、隊員達はポンチョを被って進み続けた。

 足の裏の感覚は酷いことになっている。登りと下りで遅筋と速筋を使い分け、無心で足を動かし続ける。武器装具を身に付けただけでも重い体では泥濘に足を取られる。泥に足を滑らせて転ぶと服は泥まみれになってさらに重くなった。悪態をつきたくなる。


「うんざりしてきた……」


 大城が呻いた。


「声を出すな」


 山城が低く呟き、大城は黙る。泣く子も黙る金剛石の意志と不屈の闘志を持つレンジャー隊員ですら泣き言を言いたくなる状況だ。

 那智は逆に冷静になりつつあった。戦後初の実戦を経験する自衛官となったわけだが、今までの訓練の成果が今こそ問われている。戦後数十年の平和を甘受してきた日本人で、戦うことを拒絶する国の自衛官だが、武士道を忘れた訳ではなかったことを世界に示してやりたい気持ちもあった。

 自衛隊は軍隊ではなく、必要最小限の実力。その言葉に甘え、最も危機意識を持つべき自衛官が戦争は起こり得ないと楽観視し、体面や見栄えばかりを重視し、第二次世界大戦の教訓すら忘れ、未だに兵站等の後方支援を軽視する。

 訓練は訓練のための訓練に成り下がり、安全管理に縛られ、実戦的な訓練はマスコミの槍玉に上げられ、避けられてきた。

 那智は今まで甘い考えを持った隊員達に囲まれ、自分はこのままでいいのだろうかとずっと疑問だった。

 戦闘集団である以上、軍隊が戦いに勝つ実力を備えることがなによりも重要であることは論を持たず、否定や軽視するものでは決してないと那智は思っていた。だからこそ血反吐を吐く思いをしながら山岳レンジャー隊員となり、自ら水陸機動団の門を叩き、最前線に立つことを選んだ。

 実戦は絶対に念願ではなかったが、他の者には譲れない自らの実力を示す機会ではあった。今まで得た技術や知識、身体能力を今こそ発揮し、北朝鮮の兵士達に打ち勝つ。それが那智の目前の目標となっていた。

 敵との距離を十分に離隔したとは言えなかったが、蓄積した疲労から転倒したり、わずかな段差を乗り越えるのにも苦労するようになっていた。やむを得ず剣崎の指示で休止が命ぜられる。

 これは想定訓練ではない。自分が役目を果たさなければ本当に自分や仲間が死ぬことになる。その緊張感が眠気覚ましになっていたが、中には寝落ちてしまいそうな者も本当にいる。極度の緊張状態や興奮状態が続いていたせいで、自分の意思とは関係なく意識が遠のく。

 カロリーバーを必死に齧り、重たい瞼と奥が痛くなってきた目を見開いて見張りながら装備を点検する。見張りを交替してもやることがあった。戦闘隊で五人もの隊員が欠け、一人が担当する警戒範囲は広がっている。

 那智は地図を見返し、GPSと自分の歩測や周辺の地形から現在地を正確に割り出し、これからのルートを選定する。目標地点は剣崎に示されていて、第二回収地点はここからさらに南に二十キロの位置だった。敵の追撃や伏撃を想定し、敵の裏をかくことを念頭に経路を選定しなくてはならなかった。今までの訓練も真剣にやってきて良かったと本当に那智は思った。適当に訓練を流していれば不測事態に対処できず、頭はすぐにキャパオーバーになりかねない。

 偵察分遣隊の訓練では一般部隊のように一時間に一度休憩を取るような規則性はない。隊員達は常に集中力を鍛えるためにも休憩を挟まずに訓練を行ってきていた。それが今、生きている。

 ルートの選定を剣崎と山城に説明し、指導を受けるとすぐに前進が再開された。ほとんど休んだ気はしなかったが、歩くしかない。

 前方警戒班の疲労は大きい。山城ですら表情は暗かった。

 五キロほど進み、森を抜けようとしていると、不意に違和感を感じて那智は顔を上げた。

 ――なんだこのビンビン来る感じは……

 自分の五感以外の何かが訴えていた。


「何か見える?」


 坂田の消え入りそうな声が聞こえた。那智は返事をせずに静かに姿勢を低くして空を背景にして空際線上に見出そうとした。坂田もまた静かに姿勢を低くする。疲労した体では背嚢を背負ったままゆっくりと姿勢を低くしようとするのすら困難だ。

 そうすると葉の落ちた木々の間に動く人影が見えた。一人、二人、三人。少なくとも三人がすでに小銃で交戦する距離に居てこちらに真っ直ぐ近づいていた。

 戦闘を避けられないことを那智は直感した。坂田にそのことをハンドサインで伝え、那智は89式小銃を静かに持ち上げて構えた。そして分隊系無線のPTTスイッチをカチカチと押してジッパーコマンドを送り、部隊に危険の接近を報せた。

 前から迫る三人の兵士のうちの一人が立ち止まった。そしてこちらに手に持った小銃を向ける。

 ELCANサイトを通してそれを見た那智は引き金を絞り落とした。

 破裂音が林内に響き渡る。初弾がこちらに銃を向けようとしていた兵士の頭を撃ち抜いた。敵はこちらに気付いていた……!

 西谷も89式小銃を構えて撃つ。あとの二人は素早く伏せたために命中弾を得られなかった。


「こちら03、敵と交戦!」


『了解』


 敵も撃ち返してくる。林内に突撃銃の連射音が響き、那智の傍にあった乾いた木の皮が弾け飛ぶ。そこへ山城と西谷、大城が走って来た。


「敵は二名だ!」


「押せ!アタック!」


 山城が怒鳴り返し、那智と坂田が弾を浴びせて敵の頭を抑えている間に西谷と大城が敵に向かって走り出す。

 距離を詰めて山城ら三人が射撃を開始する。その間に那智と坂田は走り出した。西谷は小銃から40mm擲弾に武器を持ち替え、走りながら発射する。放たれた40mm榴弾が二人の兵士が隠れた付近に着弾し、炸裂した。それでも敵は応射してくる。


「近づいて殺す」


 大城がそう言って敵に向かって突進した。那智達が射撃を浴びせている間に大城は全力で迂回するように横から敵に向かって近づき、至近距離から射撃した。

 大城に気付いた北朝鮮軍の兵士が突撃銃を向けようとした瞬間、大城の89式小銃から放たれた5.56mm弾が顎を打ち砕き、骨や歯、肉片が飛び散った。大城はさらにその先にいる北朝鮮軍の兵士に89式小銃を指向したが、撃つ前に舌打ちをした。無理やり分隊支援火器代わりに酷使していた相棒が、排弾不良を起こして排莢口に薬莢が詰まっている。


くそЧёрт……」


 放たれた弾丸が大城に殺到する。同時に北朝鮮軍の兵士の胸から血が飛び散った。

 Mk17で北朝鮮軍の兵士を木の隙間から撃ち抜いた山城は大城がぼうっと立っているのを見て嫌な予感がした。


「大城!?」


 坂田と西谷が駆け寄ると大城がぐらりと倒れる。


「くそ、無茶しやがって」


 山城が板垣を呼ぶ間に那智達は周囲を警戒し、大城の様態を見る。大城のAIRFRAMEヘルメットに載せていたIRストロボ装置が暗視装置の配線ごと吹き飛び、チェストリグに入れていた抗弾プレートが銃弾を受けていた。チェストリグは簡易的に抗弾プレートを入れる機能を備えるだけで、その衝撃を分散する緩衝材トラウマパッドはない。

 大城は低く呻いていた。板垣が駆け寄り、チェストリグを取って素早く観察する。


「大量出血はない。フレイルチェストか?」


 様態を見ていた坂田が聞いた。


「運がいい、跳弾を食らったんだ」


 西谷が脱がせたチェストリグを見て言った。何かに当たって跳ねたらしい小銃弾が抗弾プレートに斜めに刺さってめり込んでいた。


「敵が来る!」


 那智は声を張った。敵の主力だ。機関銃の射撃音が聞こえたかと思うとぞっとするほど美しい緑色の曳光弾が束になって飛んでくる。


「行くぞ、立ちやがれ!」


 山城が怒鳴りつけ、大城を無理やり立たせた。


「あーくそ……」


 大城は89式小銃を杖にして立とうとして呻いた。排弾不良を起こした相棒の機関部にAKの弾が突き刺さっていた。咄嗟に傍で死んでいた北朝鮮軍兵士の88式自動歩槍小銃と弾倉を取ってチェストリグやポーチに無理やり突っ込む。

 偵察分遣隊主力も合流し、敵と交戦を始める。敵の数はあっという間に増大していた。


「駄目だ、ブレイク・コンタクト!」


 山城がMk17の弾倉を交換しながら叫んだ。


「スモーク!」


 那智も黄燐発煙手榴弾を投げた。暗闇と煙、そして攻撃による混乱に紛れて距離を取る。ある程度、敵と離隔出来れば、声を絞り、射撃の質も量から精度へと切り替えていく。これにより敵の距離感を狂わせ、離脱のタイミングを図るのだ。

 剣崎の合図で那智達は射撃を中止し、闇と速度を武器に、追手を振り切りにかかった。


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