10話 潜水潜入
偵察分遣隊が潜水艦《ずいりゅう》に乗り込んで三十六時間が経った。間もなく目標海域に到着すると聞いて、那智達は最後の装備の点検を行った。
呼吸排気から二酸化炭素を取り除き、酸素を補って再利用するMk25 LAR-Ⅴ
那智のバディは、急遽参加できなくなった海保3曹の代わりに予備として共に訓練していた大城3曹だった。
大城は富士教導団機甲教導連隊の偵察隊出身で、坂田らとは馬が合うらしい。年齢は那智よりも上だが、昇任は那智よりも遅いという複雑な関係になる。
「俺、スクーバ課程出てないんだよな」
「何度も言いますけどこれスクーバのオープンサーキットじゃなくてクローズサーキット方式ですからね」
「まあ、インスタント
大城が呟き、西谷が咎める。坂田は楽観的だ。正式な潜水課程を修了していない隊員達で編成された部隊が潜水潜入を潜入手段に選択するのは度を越して異常ともいえる。呉において海自の協力で事前訓練を約五日間行ったが、潜水技術というのはそんな短時間で身に着けられる物では無い。水陸機動団に所属し、泳力は十分にあるとしても潜水は全くの別物だ。危険性も非常に高く潜水障害やパニックなどリスクは桁違いだ。
「これ終わったら、バッジもらえないですかね」
坂田が現金なことを言う。
「申請してみよう。コンバットプロープン付きで貰えればいいがな」
その言葉を聞いた剣崎1尉が苦笑しながら答えた。
「やった」
子供のような無邪気さで喜ぶ部下達に剣崎は再び苦笑する。
「まあ、無事に戻って来れたらの話ですが」
それに釘を差したのは、不機嫌そうな顔をした野中だ。静かにしていればただの美人なのに勿体ないと那智は心の底で思った。
「そうだな。無事に帰ってきてスクーババッジもらおうや」
近藤2尉がそれをとりなした。
「野中2曹が機嫌悪い理由、分かります?」
こっそり坂田が耳打ちしてきた。
「いや……やっぱり機嫌悪いのか」
「山登る前にカーボ・ローディングしてるじゃないですか。肌荒れと体重気にしてるんですよ」
その言葉に思わず噴き出しそうになった。一千から二千弱の山地を踏破するため、隊員達は事前に高カロリー食を取って、体にエネルギーを溜め込んでいた。それは女の野中も同じだが、任務のためと言えど女性には酷な話だ。
しかし冷淡なイメージの強い野中がそんなことに気を使っていると思うとギャップが大きい。
「出撃前にやめてくれ」
「緊張、ほぐれました?」
「坂田?帰ったらバッジの前に私からプレゼントがあるから覚えておいてね」
しかしばっちり野中には聞こえていたようだ。坂田は竦み上がった。
なんとも出撃前に緊張感のない会話だと那智は思いながら、同時に安心した。こんな仲間達と共に任務に赴けることにすでに価値がある。
やがて艦内放送が鳴り、那智達はドライデッキ・シェルターに移動した。SEALsのような特殊作戦部隊を潜水艦から発進させるために日本独自に開発された特殊作戦用のドライデッキ・シェルターは
最前部は、負傷したダイバーの処置を施すための加圧チャンバーで、中央に入出艦エアロック・トランク、最後部が格納庫及び外部ドアだ。
まず八名ずつエアロック・トランク内に入ってハッチを閉じると、隊員達は純酸素への順応と体調の確認を開始した。純酸素を吸うことへのリスクは高く、以前は問題なくても当日の体調等で酸素中毒などに陥る事もある。
純酸素への順応を終え、隊員達は長となっている隊員にOKサインを出した。長は艦内に手順の再開を指示した。
トランク内に注水が開始され、海中と同じ水圧に調定される。隊員達はドライスーツの浮力を潜入する深度に合わせて調整した。一緒に運ぶ背嚢等の浮力も確認し、深度計でその水圧を確認すると格納庫に移動、外部ドアより潜水艦の外に出る。そしてまたトランク内の水を排水し、次の隊員がトランク内に入るという仕組みだ。このドライデッキ・シェルターを装備・運用するために《ずいりゅう》は改造を受けている。潜水艦の戦術的ステルス性を維持するため、米海軍の物よりはかなり小型に作られていた。
時間がかかるが、533mmしかない魚雷発射管から出るよりは簡単だ。
米海軍では、こうした特殊作戦用に全長を延長した攻撃原潜まで用意し、さらには特殊作戦部隊を輸送する潜水艇まで装備している。
潜望鏡深度よりもさらに浅い深度まで《ずいりゅう》は浮上していた。那智もドライデッキ・シェルターを出て潜水艦の外に展開する。
リブリーザーは正常に機能している。リブリーザーは排気を出すことがないため、音や気泡で潜入を察知される危険性が低い。ただし、潜水員の技術が必要でフィンスイムで泳ぎながらも息を切らさず、鼻から息を漏らして潜水マスクの間から泡を漏らさないようにしなくてはならない。呼気から二酸化炭素を吸収して再利用する事で少量の酸素ボンベで長時間の潜水を可能としているため、泡を漏らせば水中に兆候が出るだけでなく潜水可能時間が減少する。
二人で一基の水中スクーターが格納庫から取り出され、那智は大城と共に水中スクーターに掴まった。十六名全員が潜水艦を出て態勢を整えると、剣崎が前進の号令をかけた。水中スクーターを使って隊員達は、北朝鮮を目指して進み始めた。
水中スクーターで潜水したまま移動した偵察分遣隊は上陸地点の手前まで到達していた。上陸地点の手前でまずスカウトダイバーと呼ばれる潜水斥候の瀬賀2曹と近藤2尉が防水ケースから小銃を取り出し、先行して上陸して安全を確保した。
近藤が暗視装置の赤外線ライトを使って合図すると本隊が上陸を開始する。
上陸地点は切り立つような断崖絶壁の岩場だった。その方が敵の目から逃れられる上、山地機動訓練で培った登攀技術が利用できる。ただし上陸の際は波に煽られて岩に叩きつけられないよう注意しなければならない。しかし水陸機動団の隊員にはお手の物だった。
水中スクーターを手前で沈め、岩場に上陸を果たした偵察分遣隊の隊員達は、岩場を登って縁になっている部分で装備を素早く整えた。
ダイバー装備のドライスーツを脱ぐ。ドライスーツのお陰で海水に濡れてはいないが、汗で戦闘服はすでに濡れていた。戦闘服を着替え、体を入念に偽装し、カモフラージュする。ドーランを塗って肌艶を消し、コントラストを無くす。ブッシュハットを被り、カモフラージュネットをアフガンストールのように巻いてシルエットをぼかす。
周囲の環境に自らを同調させるカモフラージュ能力は、
スカウトの由来は、かつてのネイティブアメリカンの時代に遡る。彼らが生活を営むにあたって、主に狩人、戦士、家事的な世話をする者という三つの役割が存在した。そして、それらの狩り、戦い、部族の健康維持が円滑になされるために必要な情報を収集していたのが、もう一つの役割、「スカウト」だ。人間本来の感覚を磨き、様々な兆候に気付く能力と、人間の感覚を惑わす能力を持つスカウトの技術を発展、応用したものが、斥候の隠密技術として現代でも活かされている。
全員が準備を整える間、何度か交代して警戒を続けた。この場で捨てていく装備をビニールで包んで海岸から離れた森の中の地面に埋め、軍用犬などに探知されないよう動物除けのCSパック――塩素パウダー――を撒いておく。
海水に浸かった銃などの装備を近くの小川の真水に漬けて塩抜きをする。これをしないと防錆処置を幾らしていても使い物にならなくなる。なるべく水気は拭き取り、発錆を予防すると共に真空パックで防水処置していた弾倉を取り出し、余分なゴミを纏めて埋めて破棄する。
銃だけでなく、背嚢等の装具も一度塩抜きを行っておく。臭い防止でもある。
北朝鮮の土を踏んでいるという実感を持つ間もなく、那智は主力の先頭を進む前方警戒組を指揮していた。
大城3曹、西谷3曹が警戒しながら進み、コンパスで針路を確認する坂田3曹が合図で二人の針路を細かく修正しながら進ませる。その全般指揮を那智は行った。
日本での訓練通りだ。訓練は実戦のごとく、実戦は訓練のごとくが体現されていることに那智は満足していた。海保3曹が抜けた穴を大城3曹はうまく補填していた。
海岸線に沿った道を越え、偵察分遣隊は北朝鮮の山中へと分け入った。日本と変わらない雑木林だ。
「大城、稜線は歩くなよ。尾根は外していけ」
「了解」
山の尾根は道を見失いにくく、また歩きやすいが数キロ先からでも発見される恐れがある。隊員達は登りにくい斜面を、重装備を背負って進む。一人当たりが背負っている装備は八十キロ近くにもなっている。
背嚢の中身は、駐屯地で何度も慎重に検討した。実際に何度も詰めて見て検証し、頻繁に取り出す物は取り出しやすい位置にしまい、必要性の低いものは奥に詰めて入れてある。
コンポジションC4高性能爆破薬は、可塑性があり、見た目も感触も紙粘土に似ている。爆薬はすべて包装を剥いで、ジッパーがついた
小型指向性散弾も伏撃や拠点防御のために持ち込んでいる。小型指向性散弾は、防御や追跡者の撃退には非常に有効な武器だ。ただこれは、潜入する各部隊が必要としており、配当が少なかったため、何個かは駐屯地で隊員達が自作したものだ。
OD色に塗ったプラスチックのタッパに、指向性を持った形状に成形したC4爆破薬を詰め、パチンコ玉や鉄線をぶつ切りにしたものをその上に被せて蓋をしている。底側に穴を開けて導爆線付きの雷管を挿し込めるようにしてあった。運搬に便利な形状や重量、必要な効力を発揮する量に調整できる
二週間分の戦闘糧食も爆破薬などと同様に包装を剥いでまとめて処置してある。
戦闘糧食はビスケットバーや乾燥ゼリーのものが中心だ。一般部隊用のがさばるものは持ち込まれていないが、中にはフリーズドライの料理もある。隠密潜入時の食事は周囲に臭いなどの痕跡を漂わせず、なおかつ重さや大きさが重視された。
全員、移動間はヘルメットを被らず、ブッシュハットを被っていた。銃弾や破片等に備えて頭部を守るよりも、顔をさらして気配や空気を読む方を優先しているためだ。持ち込んだヘルメットは、陸自標準ものではなく、部隊予算で購入された防弾性能があり、より軽量な”Crye Precision”社製のAIRFRAME戦闘用
暗視装置は視野が狭くなり、バッテリーも限られるため基本は使わない。しかし移動は夜間に限る。訓練通り、前方警戒分隊が主力の二班、三班、本部班に先行して進み、敵の兆候を警戒しながら進む。
五百メートル安全確認して半分進み、また五百メートル安全確認して半分進む。木々の生い茂る山の中では見通しが効かないため、五十メートル確認して半分進む。敵の兆候が無いか、五感を研ぎ澄ませて進むため、前方警戒分隊の疲労は主力の倍近くになる。
全員、日本全国様々な部隊でレンジャー課程を修了し、レンジャー隊員となっているだけあり、タフだ。一時間に一回五分から十分の休憩をしてそのタイミングで前方警戒員を入れ替える。
歩き方も足底の外側から着地し、内側に向かってロールさせて接地するスカウト独特の歩き方で、敵の五感に訴えないよう、絶えず注意を払って歩かなければならない。前進間は常に、とっさに隠れる場合の適地を逐次選定しながら歩く。
自らの置かれている環境の正常な状態をベースラインという言葉で表す。そのベースラインに影響を及ぼす些細な事象を波紋といい、自らをベースラインに同調させ、野生動物にすら気付かれないようにする。
波紋の影響は様々だ。人間が近づくと、虫たちが鳴りを潜めたり、鳥が飛び立つ。そうしたわずかな兆候すら、敵に発見されることに繋がる。
木々をかき分け、道なき道を進んでいると坂田が拳を頭の横で握り、停止の合図を送って来た。那智達は静かに姿勢を低くして影や木の裏に隠れて、周囲の気配を探る。
「足跡です」
小声で坂田が言った。那智は姿勢を低くして三人に近づいた。西谷と大城が前方警戒をする中、坂田が足跡を調べていた。自分達の進む経路を横切る様に獣道が走っていた。
複数の人間が歩いた形跡だ。靴底のパターンを見ると、同じ軍用ブーツらしい。しかし風化して足跡の角がとれていて、古いものだ。
北朝鮮軍の警戒パトロールの巡察経路とは外れている。足跡も深い。重い装備を持って巡察パトロールを行う可能性は低い。過去の行軍訓練か何かだろうと那智はアタリをつけたが、警戒は怠らない。
「この周囲の痕跡を消して進め」
足跡は葉のついた枝で地面を払ってカモフラージュする。那智達が停まっている間に主力との距離はどんどん狭まっているため、焦らず急がなくてはならない。
言語を絶する過酷な訓練を潜り抜けてきた精鋭達でも、実戦は初めてだ。緊張感は拭えず、肩に力の入る隊員もいる。だからこそどんな動作も慎重に最新の注意を払う。
那智の指示は後方に伝達され、続く主力も痕跡を消しながら進んだ。しかし十六名の重装備の戦闘員が進めば足跡は残り、枝も折れる。
もしここが敵のパトロール経路だと厄介だ。特に軍用犬による追尾は怖い。
そのため、
三班は痕跡を除去しつつ、敵の追尾がかかっていないかを時折確認する。
夜間は速度を発揮して進み、昼間は歩くペースを落として慎重に進み、昼過ぎから薄暮時期まで夜間に備えて潜在し、交替でビバークする。睡眠不足は集中力を削り、ミスを誘発することになる。ビバークしてしっかりと休息を取って日が傾き始めると前進に備えて食事をとって準備する。
初日の行程は遅れもなく、順調だった。
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