第6章

 夏休みの期間中、私はどこかへ遊びに出かけたりするようなことはほとんどしなかった。その頃の私にとって、夏とはただジッとして通り過ぎるのを待つだけの季節でしかなかった。友人たちも、私をプールなどに誘いに来ることはなかったが、それは全く私には好都合な話だった。とってつけたような夏の思い出作りなど必要ない。思い出がないことこそ、私のこの夏の思い出だ。

 もし特段にどこへ出かけたというなら、二、三回ほど胃腸科医院に通院し、院長の診察を受けたくらいのものだった。盲腸、いつ切るの?と、院長は診察のたび私に訊ねてきた。そのつど私は内心で冷や汗をかきながら、適当に話をはぐらかした。病院から処方された痛み止めやら化膿止めといった各種の薬は、飲んだフリをして全て捨てていた。それからしばらくは辛抱して、その胃腸科医院に通ってはいたが、秋の気配が感じられる頃には通院を止めてしまった。あまりに院長がうるさくなってきたから。


 休みが明け、少しも日焼けせず白い肌のまま登校してきた私を、全校集会で見かけた体育担当の教員が、お前、一ヶ月何してたんだ?と嘲るように笑った。私は何も言い返さなかったが、心の中でこの教員を激しく憎んだ。人の気も知らないで、表面だけ見てものを言いやがってこのバカが。私は内心で精一杯毒づいた。この体育教員に限らず、私はとにかくこうして人を一面的に決めつけてくる人間が昔から大嫌いだったし、今もそれには変わりがない。

 しかし何であれこの、盲腸を薬で散らしている、という大義名分としては絶好のカードを、それからも私は有効に活用したのだった。体育の授業を見学するばかりでなく、何かにつけては逃げ込むように保健室に行き、ベッドでしばらく寝ていたり、さらにはそのまま早退してしまうということを繰り返すようになった。

 逆に遅刻はほとんどしなかった。どうせ遅刻をするくらいなら、私はむしろすっぱりと学校を休んでしまうことにしていた。一日の途中からあの教室の中に入っていく、その心理的な荷の重さを敢えて担う気には、私にはどうにもなれなかったし、そこまでの労苦と屈辱に耐える必要性を何も感じることはできなかった。


 そんな感じだから当然といえば当然なのだが、私は次第に授業がよくわからなくなっていった。それまでは特に家で勉強することがなくても、学年で20番以内を維持していたものだったが、この秋の中間テストでは、自分でもゾッとするほどの事態になってしまった。国語や社会などは何とかフィーリングで切り抜けられたが、さすがに理数と英語は積み重ねの成果であるということが、このときほど身に沁みたことはなかった。

 もともと小学校時代から私の周囲では、熱心に塾通いするなどといった文化はなく、せいぜいがそろばんや習字の教室くらいで、後はただ外で元気に遊んでいればいい、と言われて私たちは育ってきた。中学に入ってからも、教員たちからでさえ、学習塾やら進学塾に行くよりも、どちらかと言えば運動系の部活に入ることの方が強く推奨され、むしろちょっとでも勉強熱心なところを見せたりすると、すぐに『ガリ』だ何だと、周囲から囃され白い目で見られたものだった。私も、これといって何もしていないのに、定期テストではいつもそれなりの成績を上げていたものだったから、逆にそのことによって『天才くん』などと皮肉を言われ、いささか不本意な扱いを受けることもしばしばあった。

 ところがここへきて、どうやらクラスのかなりの者たちが学習塾へ通いはじめていたらしいことが、この中間テストの成績の変化によって明らかになってきた。この夏休みは、その一つのきっかけだったようだ。地域にいくつも教室を運営している、とある進学塾の夏期講習に、皆こぞって通っていたらしい。

 私とは別の小学校の出身者たちであれば、それでなくとも何となく私たちより進んだところもあったので、仮にそういうことがあったとしてもそれなりに理解できたのだが、同じ小学校で、しかも比較的に私などとも親しかったと思っていた者たちまでもが、実はそうだった、ということに気づき、私は少なからぬショックを受けた。私は、そういうことを何も知らなかった。彼らのことを、私は何もわかっていなかった。皆一見そんな気もないようなフリをして、けっこうそれぞれ計算高くやってるんじゃないか。そういう他人の算盤ずくの振る舞いが垣間見えるとき、のほほんとしているのは自分だけのように思えて、私は彼らにひどく裏切られたような気持ちになっていた。私の知らないもう一つの世界が、私が何一つ関与できないままに形成されていっていることを、私は強く感じた。そのようなことにもまた、彼らの隠された心が垣間見えるように、私には思えた。彼らの秘めた欲望が私の知らぬ間に成長し、私はいつでもそれに置き去りにされているようだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 この頃には、私に対するいじめというか、小さな嫌がらせも起きるようになっていた。あれほど細心に気を配っていたのにも関わらず、要するに私はこのクラスでも、とうとう人の目につく存在になってしまっていたわけだった。


 私に嫌がらせをしてきていたのは、Kに対して暴力的ないじめを加えていた、クラスの中心的なボス連中ではなく、それに従属していた、言ってみれば『下から二番目』の奴らだった。

 その一人のHは、私と小学校高学年時の同級で、やや肥満気味の大柄な体格をしていたが、他人への依頼心が強くて気が小さく、その上に執念深い男だった。私は、昔からHのことが嫌いだったが、当時の遊び仲間が一緒で、彼の家へも仕方なく何度か訪れたことがあった。行くたびに、どうしてか納豆のような臭いが部屋に充満していて、私はそれが嫌でたまらなかった。

 六年の終わり頃に一度、親と諍いを起こしたらしいHが、夜遅くに私の家を突然訪れたことがある。どうやら彼は私のことを、そういうときに頼ってもいい存在と考えていたようだったが、私にはいい迷惑だった。だから私は直接応対せず、母に頼んで、彼に家へ帰るよう説得してもらった。翌日、学校でHに会っても、私は前夜の件について一言も触れなかった。Hの方でも何も言わなかった。前日の登校時とはその服装が違っているようだったので、一応帰宅はしたのだろう、とは思った。しかしいずれにせよ、私にはそれもこれもどうでもよいことだった。

 もう一人のTは、小学校の時には私と一度も同じクラスになったことはない。それでも、中学を含めて七年も同じ学校にいれば、当然その名前と顔と人物像は、嫌でも自ずと覚えざるをえなかった。小柄でお調子者、小学校時代も今と同様に、身体の大きなクラスのボスにいつもくっついてヘラヘラしていた、という印象しかない。


 すでに述べたように、私はクラスのボス連中のいじめの対象にはならなかった。それどころか、これも小学校の同級だった、グループのリーダー格であったNなどは、私の体調を気遣う言葉さえ折々にかけてきた。むしろそういうところも、彼に付き従うHやTには気に食わない側面があったのだろうが、そんな話はそもそも私の知ったことではない。

 そんなHとT同士は、実のところさして仲が良かったというわけでもない。私の見る限りはしょっちゅう言い争いをしていた。まるで大人の揉め事をまねるように、てめえ、欲の皮突っ張らかせやがって、などと暴言を吐き合ってさえいた。そういう言葉をやたらと使いたがる、下衆な俗物たちだった。そんな二人が、要するに私に対するときにだけ結託していた、というわけだった。

 日常は私に対して、何の知性も感じられない下らない嘲りの言葉を投げつけてくる程度だったが、時には私の机の中に墨汁をぶちまけて、入れてあった教科書やノートをグチャグチャに汚したり、あるいは、私が小学校の修学旅行時に日光東照宮で買い、以来代々の筆入れの中に入れていたお守り札を、ビリビリに破いて辺りにばらまいたりもしていた。そういった実行行為は、私が席を外したスキを狙って、こっそりと犯行に及ぶものだったが、こっそりとやっているつもりなのは本人たちだけで、誰の仕業であるかは普段の言動からもバレバレだった。まったく、ケチな人間は、やることもいちいちケチ臭かった。


 そのようなHとTの嫌がらせは、もちろんそれ自体の直接的なダメージも少なからずあったけれども、むしろそういう下らないことに対応しなければならない面倒臭さのストレスがまさっていた。こんなクソのような奴らのバカげたふるまいには、まともに取り合う気にすらなれなかった。とにかく何事もなしに一日を終えるだけでも精一杯なのに、なんでこんなことにまで煩わされなければならないのだ?それどころじゃないんだよ、こんなことやっているヒマはないんだこっちは、と私はいつも思っていた。

 しかし結局のところ、彼らにつけ入るスキを与えてしまったというのは、私のこれまでの、自身として何の特徴もない『何もない者』であろうと配慮してきた努力に、どこかしら綻びがあったということなのだ、と私は考えた。しかし、一体今からどこをどう修正すればよいのか、私はだんだんわからなくなっていた。あれもこれも実はなかったことです、と言えばいいのだろうか。でももう、引き返せない。何もなかった時には、もう戻れない。

 日々の積み重なる重さは、無力な私にのしかかってくる一方であるように思えた。

 そして、秋は徐々に深まっていった。


(つづく)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る