第8話 幸福な未来
駅で清子と歩いていた僕は、思わず足を止めた。一人の女性の姿が視界に映ったからだ。僕はその女性を追いかけた。
「明子さん!!」
女性の名前を叫ぶと、彼女は振り返って僕を見て、目を見張った。
「──静一郎さん」
その呼び方に、僕は悲しくなった。明子さんは僕を見つめて、首を横に振って、僕に近づいた。
「静二郎さん。久しぶりね」
今度は明子さんは僕の名前を呼んだ。彼女が僕の名前を呼んでくれたことに、泣きたい気持ちになった。
「本当に、久しぶりだね。……海外に行ってたんだって?」
「そうよ。心機一転したくてね」
久しぶりに見る明子さんは、生き生きとしていて、綺麗だった。嗚呼、この人は兄さんを吹っ切れたんだな、そう思った。
「あなたとまた会えるとは思わなかったわ。あなたもとっくにお星様になってるかと思ってた」
明子さんは冗談っぽく言ったけれど、僕は笑えなかった。
「……ごめんなさい。……あの子は、あなたの彼女?」
僕ははっとして、少し離れた場所にいる清子を見た。
「……うん」
「そう。良かったわ」
明子さんは明るく笑って、笑みを消して目を伏せた。
「あの人がいなくなって……あなたには、とても酷いことを言ったし、とても酷いことをしたわ……本当に、ごめんなさい」
明子さんは頭を下げた。僕は視線を落として、彼女の左手の薬指に指輪がはめられていることに気がついた。
チクリと、胸が痛んだ。でも、僕は笑った。
「僕は……あなたを、許すよ」
明子さんは顔を上げた。彼女の目は、涙が滲んでいた。
「ありがとう」
僕はううん。と返して、結婚したの? と聞こうとしてやめた。
「……じゃあ、元気でね。彼女さんとお幸せに」
明子さんは右手を上げて僕に背を向けて去っていった。彼女の姿を見送ると、清子が僕に近づいてきた。
「綺麗な人ね〜。もしかして、元カノ?」
僕は少し考えて首を横に振った。
「ううん。兄さんの恋人だよ」
清子はえっと声を上げた。
「そうなんだ……」
彼女はそれ以上は聞いてこなかった。追及してこない彼女の優しさが有難かった。
明子さんに会ったからか、その日、明子さんの「恋人」だった頃の夢を見た。あの頃は、悲しみと苦しみに満ちた日々だった。僕と明子さんは互いに慰め合い、傷付け合った。
でも──明子さんは今、前を向いている。僕を兄さんの代わりではなく、僕として見ている。僕と再会した彼女は兄さんの名前ではなく、僕の名前を呼んでくれた。
僕は恋人の──清子の顔を思い浮かべながら、ある決意をしていた。
「清子」
隣に座る彼女の髪を撫でて、僕は言った。
「結婚しようか」
彼女は「はい」と答えた。全身に喜びが駆け巡って、「本当に?」と口にしていた。
「ずっと、家族が欲しかったんだ。清子のお陰で、僕の願いが叶うよ」
あの日──兄さんを失って、明子さんと別れて、僕はずっと願っていた。
家族が、欲しい。僕の傍にいてくれる人が欲しい。
その願いが叶って、心から幸せを感じていた。
結婚式当日、ウエディングドレスに身を包んだ清子は、とても綺麗だった。
僕達は神父の誓いの言葉を聞いて、誓いのキスを交わした。小さな規模の結婚式だったけれど、僕の胸は喜びで一杯だった。
「静二郎さん」
清子が、僕を呼ぶ。僕を生涯愛し抜くと誓ってくれた、愛しい人。僕の傍にいてくれる、誰よりも大切な人。そんな彼女の手を握って、僕はもう一度彼女の唇にキスをした。
逃避所 如月 @kisaragi97
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