第7話 歪な過去
父さんと母さんが事故に遭った。その知らせを聞いた僕は全身が凍り付く感覚がして、直ぐに父さんと母さんが運ばれた病院に向かった。
病院に着いて、父さんと母さんがいる病室に駆け込むと、そこには兄さんがいた。兄さんは沈痛な表情をしていて、ベットに横たわっている人達を見つめていた。その人達の顔には白い布がかけられていた。
「兄さん……その人達は、父さんと母さんなの?」
兄さんに近付いて問いかけると、兄さんは僕を見て顔を歪めて、頷いた。
「……父さんと母さんは……助からなかったの?」
兄さんは、今にも泣きそうな顔になった。でも、兄さんは泣くことを堪えて、また頷いた。
僕はベットに横たわっている人達を見た。この人達は──父さんと母さんは、死んだ。父さんと母さんは二度と動かないのだ。
頭では分かっていても、それを受け入れることが出来なかった。あまりに突然のことに、心がそれを受け入れることを拒否していた。
兄さんの話によると、父さんと母さんは信号無視をした車に跳ねられて、病院に運ばれて治療を受けたけれど、二人共助からなかったようだ。
父さんと母さんの葬式が終わっても、僕は彼らの死を受け入れることが出来なかった。
葬式後に僕は自室でぼんやりと天井を見ていた。父さんと母さんが、いつも僕の傍にいてくれた人達がこの世からいなくなっただなんて、信じられなかった。
「静二郎」
名前を呼ばれて、天井から視線を外して声がした方を見た。兄さんが、心配そうに僕を見ていた。
「兄さん……何?」
「コンビニで適当に買ってきたから、食べないか」
その言葉に、僕はあの日──父さんと母さんが亡くなった日から何も口にしていなかったことに気が付いた。
うん、と頷いて、自室から出て、兄さんに続いてダイニングルームに入って、椅子に腰掛けた。
テーブルの上にはコンビニの袋があって、兄さんはその袋の中に手を入れて、おにぎりを掴んで僕に差し出した。
「ありがとう」
おにぎりを受け取って、包みを取って口に入れた。
ダイニングルームには僕と兄さんしかいなくて、しんと静まり返っていた。
僕は父さんと母さんがいる、賑やかな食卓を思い出した。
此処に父さんと母さんは、いない。……嗚呼、父さんと母さんは本当にいなくなったんだ。
父さんと母さんの死を実感して、僕の目からは涙が零れ落ちていた。
「静二郎……」
兄さんが驚いたように僕を呼んだ。
おにぎりを食べながら、僕は声を殺して泣いた。
もう、母さんが作る料理は食べられないのだ。それを美味しそうに食べる父さんの姿も見られないのだ。
悲しくて、苦しくて、涙は止めどなく溢れ出した。
「……静二郎」
名前を呼ばれて、そっと頭を撫ぜられる感覚がした。
「大丈夫だ。お前は、俺が守るから。お前は何も心配しなくていい……」
兄さんの優しい声に、新たな涙が溢れ出して、僕は兄さんにしがみついた。
「……うっ……うああああ……!!」
泣き喚く僕を兄さんは抱きしめて、優しく頭を撫ぜ続けてくれた。
大切な人達を失った僕の傍に、兄さんはいつもいてくれた。僕が不安定になる度に、兄さんは僕を慰めて、僕を励ましてくれた。兄さんは金銭的にも精神的にも僕を支えてくれた。両親を失った僕にとって兄さんはたった一人の家族で、心の拠り所だった。
兄さんは、いつも夜遅くまで働いていた。
兄さんが無理をしていることに気が付いたのは、兄さんが職場で倒れたという知らせを聞いた時だった。
焦燥に駆られながら兄さんが運ばれた病院に向かって病室に入ると、兄さんはベッドで眠っていた。
「兄さん」
呼びかけても、兄さんは目を覚まさなかった。ベッドで眠る兄さんの顔は、とても疲れているように見えた。
「兄さん……」
もう一度、兄さんを呼んだ。兄さんはやはり目を覚まさなかった。最悪の事態を考えて、兄さんの手を掴んでいた。
「……嫌だよ」
脳裏に浮かぶのは、父さんと母さんの最期の顔。
「兄さんまで、いなくならないで……僕を一人にしないで」
兄さんの手を掴む手が、震え出す。
兄さんまで、もしもいなくなったら……。恐怖に支配されそうになった時、掴んでいる手が動いた。
「! 兄さん!」
兄さんは目を開けて僕を見ていた。
「兄さん……良かった、目が覚めたんだね」
心からホッとして、僕は笑みを浮かべた。兄さんは疲れたように僕を見ていたけれど、やがて僕に笑い返した。
「静二郎……すまない、心配かけて」
「いいんだ。大丈夫?」
兄さんは一瞬笑みを消して、微笑んだ。
「大丈夫だよ」
「……良かった……」
「……静二郎。俺は何があっても、お前の傍にいるから」
その言葉に目を見開いた。兄さんは、優しく微笑んでいる。
「……うん」
僕は兄さんの手を、ぎゅっと握りしめた。
兄さんの言葉に反して、兄さんの容態は悪くなっていった。検査を受けた結果、兄さんが重い病気に侵されていることが分かった。兄さんは、日に日に痩せていった。変わり果てた兄さんの姿を見ながら、僕はどうすることも出来なかった。僕はただ兄さんの傍にいて、病気に苦しむ兄さんを眺めていることしか出来なかった。
兄さんが職場で倒れた数ヶ月後に、兄さんは病院のベッドで亡くなった。
「静二郎、すまない……」
そう謝罪して、兄さんは眠りについた。兄さんの最期の顔は疲労が滲んでいた。
兄さんを失った僕は、兄さんが眠る病室から一歩も動けなかった。ただ、白い布がかけられた兄さんの顔を見つめていた。
不意にバタン、と扉が開く音がした。
「……静一郎さん!!」
一人の女性が入ってきて、ベッドに駆け寄って、兄さんに縋り付いた。
「静一郎さん……静一郎さん……!!」
女性は兄さんを抱きしめて咽び泣いた。取り乱す女性をただ見つめていると、彼女は僕を見た。
「……あなたが、誠一郎さんの弟?」
困惑しながらも頷くと、彼女は僕を睨み付けた。
「あなたのせいよ!」
彼女は僕を非難した。彼女の目は敵意に満ちていた。
「あなたの存在がこの人の負担になっていたのよ! あなたのせいで、この人は病気になったんだわ!! あなたが、この人を殺したのよ!!」
女性の言葉が氷の凶器になって、僕の胸を貫いた。
「……うっうっ……!!」
女性は再び咽び泣いた。動かなくなった兄さんを抱きしめながら泣く彼女を見つめながら、僕の中の何かが粉々に砕け散る音がした。
病室に現れた女性は、兄さんの恋人だった。兄さんを抱きしめながら泣き崩れた彼女は、兄さんには何度も求婚したが、僕がいたせいで結婚出来なかったと憎々しげに話した。
兄さんは、たった一人の家族である、独り身である僕のために結婚を先延ばしにしたのだ。
その話を聞いて、罪悪感で一杯になった。僕の存在が兄さんの負担になっていたのは本当だった。
「ごめんなさい」
僕は、何度も謝った。兄さんに、兄さんの恋人だった人に、何度も頭を下げた。土下座だってした。
「許せないわ」
兄さんの恋人だった人──明子さんは憎悪に満ちた目でそう言って、僕の腕を強く掴んだ。
「私の恋人になって」
僕は戸惑った。そんな僕に明子さんは歪に笑いかけた。
「静一郎さんの代わりに、私を愛して」
罪悪感で一杯になっていた僕は、断ることも出来ず、頷いた。
明子さんは僕を抱きしめて、僕の唇にキスをした。兄さんの恋人だった人と唇を合わせている事実に罪悪感と居た堪れなさに駆られて体を離そうとしたけれど、明子さんは僕を離さなかった。
その日、僕は明子さんを抱いた。兄さんの恋人だった人と肌を重ね合わせて、一緒に眠った。
明子さんは、僕を静二郎さんではなく、静一郎さんと呼んだ。彼女は僕を兄さんの代わりにしていた。
明子さんとの交際は続いたけれど、ある日彼女は突然僕の前から姿を消した。明子さんの友人によると、彼女は海外に旅立ったらしい。明子さんが姿を消したことに驚きながら、彼女から解放されたことに安堵している自分もいた。
それからも、色々なことがあったけれど、僕はずっと独り身だった。
寂しくて堪らなくなった日は、星が瞬く夜空を見上げた。
「静二郎。父さんと母さんは、あそこにいるんだ。あそこで、俺とお前を見守ってくれているんだ」
兄さんが、星空を指差しながら、そう教えてくれたから。
父さんと母さんは、あそこにいる。兄さんも、あそこにいるんだろうか。
僕は夜空で輝く光に向かって手を伸ばした。そうして、僕もあそこに──兄さんたちがいる所に行きたい、そう思った。
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