第5話 事件
その日、久しぶりに私は『逃避所』に訪れた。何となく一人でいたくて、静二郎さんは呼ばずに一人で公園のベンチに座っていた。
その日は夜空には一面厚い雲が敷き詰められていて、星は一つも見えなかった。空が星空でないことにがっかりしながらも、安堵している自分がいた。
曇り空を眺めていると、「おい」といきなり声をかけられた。びっくりして顔を上げると、私のすぐ傍に男がいて、更にびっくりした。
「何だ、可愛くねーな……まあ、いいや。姉ちゃん、俺とヤろうぜ」
男はニヤニヤ笑って、私の腕を掴んだ。知らない男に突然触られたことに恐怖と気持ち悪さを感じて、男の手を振り払おうとしたら、男が抱き着いてきた。
「……っ、嫌!!」
男は私の抵抗を抑え付けて、私の胸に触ってきた。怖くて、気持ち悪くて仕方なくて、私の体が震え出した。
「やめてっ!!」
何とか叫ぶけれど、男が私にキスをしようとしてきて、ゾッとして顔を背けた。男は私の股に手を這わせた。
「いやぁ!!」
「清子さん!!」
突然、名前を叫ばれた。そして、男の体が吹っ飛んだ。思わぬ事態に何が起きたのか分からずに目を白黒させていると、一人の男性が視界に映った。
「こいつ……よくも清子さんを!」
男性──静二郎さんは、男に飛び掛かって、男の顔を何度も殴り付けた。
「殺してやる」
静二郎さんは男の首に手を掛けて、男の首を締め付けた。私は血の気が引く感覚がして、静二郎さんに駆け寄って彼を止めた。
「静二郎さん……やめて!!」
静二郎さんは鬼のような形相をしていたが、私の制止にはっとしたように目を見開いて、男の首を締める手から力を抜いた。
「……清子、さん」
「殺す必要はないわ!だからやめて……!」
懇願すると、静二郎さんは沈黙して、男の首から手を離した。男がドサリと地面に倒れた。どうやら気を失っているようで、男はピクリとも動かなかった。
「……清子さん」
静二郎さんが、また私を呼んだ。その時私は彼が迷子の子供のように見えて、彼をそっと抱きしめた。
「清子さん」静二郎さんが、私を抱きしめ返した。「この辺りを歩いていたら、あなたの悲鳴が聞こえて……。大丈夫ですか?」
「大丈夫よ」
はっきりと答えると、彼は漸く冷静さを取り戻したようだった。
「良かった……」
「……ごめんなさい」
私は謝った。
「何故あなたが謝るんですか」
「あなたは私に忠告してくれたのに、一人でこんな場所にいたから……」
私の目から、涙が溢れ出した。静二郎さんの忠告を聞かずに一人で公園にいた自分が情けなかった。
「あなたは、悪くない」
静二郎さんはそう言ってくれたけれど、私の涙は止まらなかった。
「清子さん……大丈夫だから」
静二郎さんは優しく私に声をかけながら、優しく私の背中を擦ってくれた。
本当に、優しい人だ。彼の優しさが嬉しくて、申し訳なくて、新たな涙が流れた。
「……落ち着いた?」
涙が漸く収まると、静二郎さんはそう聞いてきた。
「……うん」
静二郎さんは小さく息をついて、気を失った男を見て疲れたように言った。
「僕は、こいつを殺そうとした……」
「無理もないわ」
「…………」
押し黙る静二郎さんが、何故だかずっと遠くに感じた。
「清子さん」
静二郎さんは私の名前を呼んだ。私の名前を呼ぶことで気持ちを沈めようとしているようだった。
「ごめんなさい」
私はもう一度謝った。静二郎さんは、それ以上は何も言わなかった。
男は捕まって、静二郎さんと私は警察に事情聴取を受けた。
静二郎さんの行為は正当防衛と見なされて、私達は警察から解放された。
その日は、静二郎さんの家に泊まって、彼に抱きしめられながら眠った。
次に目を覚ますと、静二郎さんが私を見つめていた。
「疲れたんだね。よく眠ってたよ」
「……大丈夫?」
私は思わず尋ねていた。静二郎さんの顔色が優れなかったからだ。
「僕は大丈夫」
静二郎さんは笑った。でも、上手く笑えていなかった。
「本当に、大丈夫?」
「大丈夫。僕のことより、自分の心配をしなよ」
まだ心配だったけれど、私は「うん」と頷いた。
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