第4話 彼の事情②
静二郎さんは、不思議な人だ。お兄さんみたいな若々しい笑顔を見せながら、オジサンくさい言動をする。静二郎さんと付き合い始めて、私は彼の複雑な一面を知った。静二郎さんの外見と言動が一致しないところは、アンバランスだなと感じた。きっと私は彼のそういう一面にも惹かれたのだろうけれど。
静二郎さんと一緒に『逃避所』で夜空を見る習慣は続いた。静二郎さんと付き合い始めて、私はまた眠れない日は彼に電話をかけるようになった。
夜空に星が見える時、静二郎さんは隣にいる私よりもそれを見ていた。寂しげな目で、でもどこか安心したように、そして焦がれるように、じっと見つめていた。
私は決まって不安になって、静二郎さんの腕を掴んだ。そうすると彼は決まって私を見て、私に触れてくる。彼の手の感触を感じて、漸く私は安堵するのだ。
「清子さん」
静二郎さんが私の頬に触れながら、真面目な表情を浮かべた。
「今度、僕の家に来ませんか」
私はえっと声を上げた。静二郎さんは少し目を伏せて、
「この場所以外でも、あなたと過ごしたい」
と真剣な声で言った。
私と静二郎さんは、『逃避所』であるこの公園以外では会ったことがなかった。だからこの場所以外で会うのは何だか不思議な感じがした。
「分かりました。お邪魔させていただきますね」
私がそう言うと、静二郎さんはホッとしたような顔になって、じゃあ、今度の土曜日に、と言って私に一枚の紙を差し出した。静二郎さんが描いたのだろう、紙には地図が描かれていて、静二郎さんは赤い丸を指さして「ここが僕の家です」と説明した。
分かりました、と頷いて紙をカバンにしまうと、静二郎さんはくしゃっと私の髪を撫でて、私の頬に、唇に口づけた。『逃避所』で──夜中の公園で、私達は何度もキスを交わした。
土曜日に、静二郎さんがくれた地図を見ながら静二郎さんの家に向かった。静二郎さんの家は私の家から遠くなくて、歩いて行ける距離だった。静二郎さんの家に向かって歩きながら、私の家と静二郎さんの家の間に『逃避所』であるあの公園があることに気が付いた。
(あの公園が、私と静二郎さんを繋いでくれたのかな)
そんなことを思いながら歩き続けていると、静二郎さんの家にたどり着いた。
緊張を覚えながら、チャイムを鳴らす。静二郎さんが家から出てくるのを待ったけれど、彼は出てこなかった。
(あれ……今日、だよね)
もう一度、チャイムを鳴らす。静二郎さんは出てこない。私は不安になった。
電話しようかな、と思ったその時、勢いよく扉が開かれて、静二郎さんが姿を現した。
私は目を丸くした。現れた静二郎さんの髪はボサボサで、顎に髭が生えていて、上は肌着のままでいかにもオジサンって感じだったからだ。
「すみません、居眠りしていて。きちんと身なりを整えてあなたを迎えようと思ったのに、こんな状態になってしまって」
静二郎さんは申し訳なさそうに言った。
「本当に、オジサンだったんですね」
私がそう言うと、彼は苦笑した。
「すみません。今から身なりを整えますので……」
家の中に戻ろうとした静二郎さんの腕を掴んでいた。静二郎さんの姿にはびっくりしたけれど、素の彼が見られたような気がして嬉しくもあった。
「そのままで構いませんよ」
「で、でも……」
「私は気にしませんから」
静二郎さんは迷っているみたいだったけれど、分かりました、と頷いて私を自分の家に招き入れた。静二郎さんの家に足を踏み入れて、『逃避所』以外の場所で静二郎さんに会うのも、日中に彼に会うのもこれが初めてなのだと思って、無性に静二郎さんに引っ付きたくなって、少し離れた場所にいる彼に手を伸ばした。
静二郎さんに引っ付くと、彼の匂いがした。普段彼からする爽やかな匂いではない。何というか、彼の実年齢を感じさせる匂いだった。
「き、清子さん」
静二郎さんが焦ったように私を呼んで私から離れようとしたから、私は更に彼に引っ付いた。
「今の僕は、臭いですから」
静二郎さんの言う通り、今の彼が纏う匂いは良いものではないのだろう。しかし普段彼が纏っている匂いよりも、今の彼の匂いの方が好きだと思った。
「制汗剤かな、の匂いも好きですけど、今の静二郎さんの匂いも好きです。静二郎さん自身の匂いだからかな」
静二郎さんが固まるのが分かった。彼にぎゅうぎゅう引っ付いていると、やがて彼は諦めたように息を吐いた。
「ただの、加齢臭ですよ」
「そうかも」
「こんな匂いが好きなんて、あなたは変わっています」
「……そうかも」
静二郎さんは、私を抱きしめた。彼の腕に包まれて、彼の体温や匂いを感じながら、この人が好きだ、そう強く思った。
抱擁とキスを交わして、私達は体を離してリビングに移動した。
ソファーで並んで座って、どちらからともなく手を繋いだ。
暫く静二郎さんと雑談をして、今日の静二郎さんは、外見と言動が一致していてアンバランスじゃないなと思った。
若作りなんて、しなくてもいいのに。そう言いたくなったけれど、それは飲み込んだ。静二郎さんにとって若作りは必要なことなのだ。静二郎さんはお兄さんを亡くした日から自分は時間が止まっていると言っていた。それを表しているのが普段の彼の外見なのだろう。
「清子さんが僕の恋人になって」
私の手を握りながら、静二郎さんは話し始めた。
「本当に、幸せなんです。正直怖くなります」
「……怖くなる?」
「はい。止まっていた時間が、動き出しそうで」
静二郎さんは苦しそうに言った。時間の感覚はよく分からないけれど、彼が変わることを恐れているのだということは分かった。
静二郎さんはおそらく、お兄さんの死を受け入れられなくて、受け入れることを恐れて、それを拒否している。
私はその時、隣に座っている彼が27歳の青年に見えた。
大切な家族を失って、さまよい続けている青年。兄の死を受け入れられず、前に進めずにいる人──
私も苦しくなってきて、私は彼に体を寄せた。
静二郎さんが手料理を振舞いますと言って、台所に移動した。私は料理を作っている彼の後ろ姿を眺めていた。
静二郎さんはカレーを作ってくれて、私はいただきますと手を合わせてそれを食べた。
「美味しいです!」
静二郎さんのカレーはとても美味しくて、感嘆の声を上げると、彼は照れたような顔をした。
「ありがとうございます。カレーは得意料理なんです」
「本当に美味しいですよ。びっくりしちゃいました」
私はじっくり味わってカレーを食べた。今まで食べたカレーで一番美味しいのではないかと思った。
「兄さんがカレーを好きで、よく僕が作っていたんですよね」
静二郎さんは懐かしそうに言った。
「そうなんですか。……私も、カレーは大好きです! だ、だから……」
静二郎さんは目を見開いて、微笑んだ。
「はい。また清子さんのためにカレーを作りますね」
「あ、ありがとうございます!」
静二郎さんの言葉が嬉しくて、私も笑った。
「……家で誰かと一緒に食べたのは、いつぶりだろう」
カレーを食べ終えてソファーに腰かけた静二郎さんは呟くように言った。
「……ずっと、一人だったんですよね」
「……はい。一人だった」
静二郎さんは静かに答えて、私に手を伸ばした。静二郎さんの手が私の頬を撫でて、私の胸に移動した。服の上からそこにそっと触られて、私の体に緊張が走った。
「……すみません」
静二郎さんは謝って、私の胸から手を離した。私は咄嗟に離れた彼の手を掴んで、私の胸にあてた。この人に、もっと触れられたいと思った。彼に家に誘われた時から、その覚悟は出来ている。
「大丈夫です」
静二郎さんに笑いかけると、彼は少し泣きそうな顔になって、私を抱きしめた。胸に静二郎さんの手の感触を感じながら、私は彼に体を預けた。
静二郎さんに「大丈夫です」と繰り返し声をかけながら、私は彼の愛撫を受けた。
行為の途中で静二郎さんは肌着を脱いだ。彼の腹部には大きな傷跡があった。その傷跡を見て声を失う私に、静二郎さんは貪るようなキスをした。
傷跡のことが気になったけれど、そのことは静二郎さんに触れられるうちに頭から消えていった。
静二郎さんの腕の中で私は何度も声を上げた。静二郎さんの全身から彼の孤独が伝わって、胸が潰れる思いがした。
「ごめんね」
静二郎さんは私の髪を撫でながら謝った。
「こういうことをしたくて、あなたを家に誘ったわけではないんだ。でも、抑えられなくて」
私は全然嫌じゃない、むしろ嬉しいと彼に伝えた。
「それは、良かった」
静二郎さんは小さく笑った。
その日、私は静二郎さんの家に泊まった。静二郎さんとは、色々な話をした。静二郎さんの家族の事、私の家族の事、静二郎さんの仕事の事、私の大学の事。どれだけ話しても話題は尽きなくて、私達は長いこと話し続けた。
「そろそろ寝ようか」
静二郎さんはそう言って、部屋の明かりを消した。
暗くなった天井を見つめながら、私は静二郎さんと出会った日を思い出していた。
あれから、色々なことがあった。私と静二郎さんは、変わっていくのだろう。私が『逃避所』に行かなくなることだってあるかもしれないし、静二郎さんが変わることを受け入られる日だって来るかもしれない。
私は、隣で眠っているであろう静二郎さんを見た。
どんなに私達が変わることがあっても。この人への気持ちは変わらなければいい。
心からそう願って、私は目を閉じた。私の脳裏で、静二郎さんと一緒に見た星々が輝いた気がした。
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