第3話
世界の終わりとはどういう瞬間なのだろうか。
プツっと全てが消えて真っ白になる。私はそういう終わり方が良いと思う。ムダに苦しまないし、後腐れもない。
例えばそれが私の眠っている時に起きたら、私は世界がなくなったことにすら気づかない。それで良かった。そうなれば良かった。
しかし、もちろんそんなことは簡単に起こるはずもなく、私はドアのチャイムの音で起こされる。ビー、ビーとしつこいほどに鳴り響く。
なんでも良かったが、隣の人が心配して様子を見に来てくれていたとしたら応えないのは失礼なので、また社会人としてのぎりぎりの理性でベッドから起き上がり、ドアを開ける。
そこにいたのは林だった。
私は溜息をついて再び寝室に戻る。
林の顔など、見たくもなかった。うつ伏せでベッドに倒れる。
それでしばらくしたら林も寝室に入ってきた。
「何があったか知らないけど、ベランダの窓をあんなにしたらマズいだろ」
「あれは私じゃない」
「そうなの?」
私は何も答えなかった。
「パンツ丸見えだよ」
私はノーブラのティーシャツ、下半身はパンツオンリーだった。
「あんたに見られても何も恥ずかしくない」
「一応男なんだけどね」
私が無視していると林は溜息をついて、
「出かけようか」
なんてひょうひょうとした調子で言う。
「今日は車で来たよ」
「だから何よ」
「ドライブに行こう」
「嫌や」
「何で?」
「そんな気分ちゃうもん」
「そうかもだけどさ、気晴れるよ」
「嫌やって」
「夜景見に行こうよ」
「まだ明るいやん」
「着く頃には暗くなってる」
「あんたもしつこい男やなぁ」
私はベッドから半身起き上がり言う。
その顔を見て林は、
「わぁ、酷い顔」
「うるさいわ」
「相当泣いたんだね」
私は何も言わなかった。
「さ、さ、着替えた、着替えた。出発するぞ」
林は手をパンパンと打った。
それで私はまだ釈然としなかったが、何となく私が駄々をこねているような、それはそれで嫌な気持ちになり、起き上がって渋々と用意を始めた。
ブラジャーを着け、ロングのスカートを履く。洗面所に立ち簡単なメイクをやり直していると、ソファに座って私を待つ林が鏡にうつっていた。
「どこ行く気なん?」
「ん、そうね。じゃ六甲山にしよか」
これもまた多分今考えた。
「何でもいい」
林は車を近隣のパーキングに停めていた。
小さな軽自動車で、初めて見るが、これがまたかなりボロボロな車だった。
「ちゃんと六甲山を登れるの?」
「多分」
「不安やなぁ」
私はタバコに火をつけて助手席に乗り込む。
「出すよ」
林はゆっくりと車を発進させた。国道に出て六甲山を目指す。
「どっから高速乗るの?」
「えっ、高速なんて乗る必要ある?」
林は少し驚いた様子で言う。
「だって六甲山やろ?」
「下道でいいでしょ。時間はあるんだし」
「は? 何時間かかるんよ」
「知らないけど」
私も詳しいことは知らない。何となく遠いイメージだったから言ってみただけだった。
しばらく道を行く。記録的豪雨の影響で、ところどころ信号が曲がっていたり木が倒れたりしていた。
林の車にはカーナビが無く、どうも標識だけを頼りに六甲山を目指しているようだった。
こんな感じでは道に迷うんじゃないかなぁ、なんて思っていたら案の定、出発して一時間くらい経つ頃、何だか同じところをぐるぐる回っているような気がしてきた。
もう日が暮れ初めている。運転席の林は「あれー」とか、「うーむ」なんて言ってハンドルを握っていた。
「迷ったんやろ?」
「いや、迷ったというほどではないよ」
林は何事も無いかのような顔をする。
「ほんまかよ」
「ほんま、ほんま」
「うわ、関西弁似合わな」
「ねぇ、夏子さん、お腹空かない?」
「空いたかも」
そういえば朝に要とインスタントラーメンを食べて以来何も食べていなかった。
「あれ」
林の指差す先にはチェーン店の中華料理屋があった。
「行こう」
中華料理屋の店内に入ると大学生くらいの集団と運送会社の社員風の男が数人いた。空いている席に座ると店員さんはすぐに水を持ってきてくれた。
「私このラーメン定食」
「決めるの早い」
林は驚いた顔をした。
「林も早よ決めえや」
「じゃ、俺も同じでいいよ」
店員さんを呼んで注文をする。
「林って何で標準語なんやっけ?」
「俺、小中と関東だったから」
「関東のどこ?」
「千葉」
「千葉か」
なんて話しているうちにラーメン定食が運ばれてきた。私は運ばれてきた時に初めて朝もラーメンを食べたことに気づく。でも美味しそうだから食べる。実際、かなりお腹は空いていた。
しばらく食べていると、林が手を止めて、じっとこちらを見ているのに気づいた。
「何よ」
「ちょっと元気になったじゃない」
「そうでもないよ」
「要にフラれたの?」
「……フラれた」
私は水を飲み干して一息つく。
「完膚なきまでにフラれた」
「そうか」
「ライバルが減ったと思ってるやろ?」
林は少し笑う。
「実際はそうなんやけどね、でも今の心境としては戦友が逝ったという感じかな」
「戦友ねぇ」
分からんでもない。私にとって林の存在は高校の部活のチームメイトにどこか似ていた。
「なんで急に告白したの?」
「まぁ、半ば勢いなんやけどね」
半ばというか、完全に勢いだ。
「諦めたの?」
そう言われて初めて、何も一度フラれたからといって要を諦めなくてもいいのだ、ということに気づいた。それは目から鱗、と言うか、今までに無かった発想だった。
これからも要のことを好きでいてもいい。違う恋をしていないのであれば、それは別に悪いことではない。
しかし何故か私は今、もうこれ以上、要のことを追いかける気にはなれなかった。
嫌いになったとか、別にそういうことではない。やっぱり好きだ。でも何故か足が動かない。あんなに頑張って走っていたのに、今は一歩も歩けそうになかった。
私の中から何かが消えてしまったようだった。情熱のような、身を焦がす何か。涙と一緒に流れてしまったのか。
「分からん」
「ふぅん」
林はラーメンをずるずるとすする。
「でも何か、やり切った感はある」
「お疲れ様」
「林、あとはまかせた」
私もずるずるラーメンをやる。
「それ、本気で言ってんの?」
林は溜息をついて言う。
本気なのかどうか、今はそれすらも分からなかった。
中華料理屋を出て再び走りだすも、またしても迷う。
それで私も痺れを切らして携帯で現在地を調べてナビゲートする。けっきょく六甲山に着いた頃にはもう二十時を超えていた。しかも、やっとたどり着いた場所は思っていたのとは違う場所だった。
「ね、林。夜景なんて無いやん」
私の携帯が目的地と示したのはまだ全然山の麓で、夜景なんて見える高さではなかった。
「ちょっと携帯貸して」
私が携帯をわたすと、林は真面目な顔をして画面を睨んでいた。
「夏子さん、これ目的地が六甲山牧場になってる」
「えー、ちゃんと六甲山で調べたのに」
「だって、ほら」
そう言って林が携帯の画面を見せる。確かに「六甲山牧場」とあった。
「天覧台はまだちょっと先だなぁ」
林は自分も散々迷ったくせに少し不機嫌だった。
「牧場、ちょっと寄ってく?」
「いや、閉まってるでしょ」
「牛とか見えへんかな?」
「動物はみんな室内に入れられてるって」
それで林は車を出した。
天覧台を目指して坂を登って行く。途中、いくつも倒れた木々が車道に飛び出していた。その間を林の軽自動車が抜けていく。まるで、けもの道を行く小動物のようだった。
街が、生活が、だんだん遠のいて行くのを背中に感じた。少し、眠くなってきた。
「寝るな」
林の声にハッとする。
「寝てない」
「嘘、今寝かけてた」
「大丈夫よ」
「あ」
その時、行先に天覧台が見えた。
「着いた」
駐車場に車を停める。がらがらで、私達以外には一台しか停まっていなかった。
「ここの駐車場、二十一時までだ」
「今何時?」
「二十時半過ぎ」
「もうちょっとしか時間無いやん」
私は不満そうな声を出した。
「意外と閉まるの早いんだなぁ。夜景なんて夜なら何時でも見られるのに」
「きっと管理とか、いろいろあるのよ」
それでやっと天覧台にたどり着く。
散りばめられた光。闇の向こう、広大な夜景。そこには何千という街の灯が広がっていた。
「はぁ」
溜息が出るくらい美しかった。
あの灯の一つ一つに人生があり、生活があるのだ。
「良いね」
そう言って林は少し後ろの方でタバコに火をつけた。
「うん」
それで林も私の横まで来て夜景を眺める。
「ほんとはね、俺、夏子さんのことすっごいムカついてたんだ」
「何よ急に」
「要の前で女をチラつかせて、そういうのすごく嫌だった」
「女を使っても玉砕した私にそんなこと言わないでよー」
いわば奥の手だった必殺技をあっさりかわされたのだ。冷静に考えたら我ながら笑える。
「責めるつもりは無いんだけどね、そう思ってた。でも今はね、あぁ夏子さんも本気で要のこと好きだったんだなぁ、って思える」
「何よそれ。ずっとそう言ってたやん」
「内心、俺の方が絶対要のこと好きだって思ってた」
林はそう言って少し笑う。
「でも今日、ぼろぼろになってる夏子さんを見て、俺と変わらないくらい、本当に要好きだったんだなぁ、って思ったんだよ」
私もタバコに火をつける。
「少し悔しくもあった」
林は溜息をついて言った。
「想いが大きければ良いってわけでもないのよね」
「うん、それがまた難しい」
私は大きく深呼吸をして身体を伸ばした。
終わってしまった季節。それは私に何を残し行ってしまうのだろう。今はまだ分からない。
街の灯が輝いてる。
帰ってこい、と私を呼んでる。いつか要と見てみたいなぁ、なんて思い描いた絵の通りの景色がそこにはあった。
「もう泣かないんだ?」
「泣かない」
「夏子さん、なんで涙が流れるか教えてあげようか?」
「いらないよバカ」
「心というコップに感情を注ぎ過ぎたんだよ。入りきらない分が涙になって流れる」
「だからそんな説明いらないって」
私は林の薄い胸にパンチを入れる。
手を伸ばせばすぐそこに要はいた。でもその距離が永遠だった。思い返してもそれは辛いことだけど、とにかく今は、ありがとうと言いたい。
春の陽気を感じる。
いつの間にかコートを脱いで、薄手のパーカーを着ている私達。
私達というのは私と霧谷のことで、土曜日の午後、二人で難波橋の横にあるあのリバーサイドテラス的な喫茶店に来ていた。
「なかなか良い感じやん」
私はコーヒーに口をつけて言う。
「川が綺麗じゃなくてもこんなに良い感じになるんですね。やっぱり雰囲気って大事」
霧谷は少しふっくらとしたお腹を抱いて言う。
「お腹、少し目立ってきたね」
「そうなんですよ。ちょっとずつですけどね。成長してます」
「しっかし、付き合ってすぐ妊娠、結婚だなんて。霧谷らしいわ」
「へへ」
霧谷は得意げに笑う。
「さすが恋に生きる女」
「良かったんですよこれで。彼、すっごく優しいですし」
霧谷の彼氏、旦那さんになる人とは、私も一度だけ会ったことがある。確かに優しそうな人だった。
「とうとう幸せを勝ち取ったね」
「まぁ、いろいろ上手くいかなかったですからねぇ。私も」
気持ちの良い春風が吹く。紙ナプキンが飛んでいきそうだったので、私はコーヒーグラスを上に置いた。
「夏子さん、私、今までたくさん失敗して、たくさん泣きましたけど、その結果彼に出会えたんだから、もう全然後悔は無いんですよ。清々しいくらいに」
「うわー、私もいつかそんなこと言ってみたい」
恋をしたらもう、これが最後の恋だと思いたくなる。それは多分、心が正常な証拠だろう。
鞄からタバコを取り出そうとしたけど、霧谷が妊婦なことを思い出して止めた。
「合コン、一緒に行けなくてごめんなさいね」
「行かないっつうの」
笑う。
「要さんとは今でも連絡取ってるんですか?」
「うん、たまに」
要はあの日からちょうど一カ月後に東京へ行った。
今でもたまに連絡が来るし、私からも連絡する。来月、奇跡的に東京出張がある。その時、久しぶりに会う約束もしている。
今まで通りの関係。でも恋心は、もう帰って来なかった。好きは好きだけど、これはもう恋愛ではない。私にはそれがはっきり分かった。だから何も辛くはなかった。
「しばらく恋愛はゴリゴリ」
「ええっ、しばらくって……いいんですか? 夏子さんもうすぐ三十なのに」
悪気無く鋭いことを言ってしまうのが霧谷の悪いところだ。
「うるさいなぁ。仕方ないやん。今そんな気に全然ならんのやから」
「まぁ、無理してするようなことでもないのかもですけどー。あ、そうだ、あの人はどうなんですか? あのー……」
「営業課に新しく入ってきた子? ダメよ。私ああいうのタイプちゃうし」
最近営業課に新しく若い子が入ってきて、毎日谷川さんにシゴかれているのだ。
「違いますよ。ほら、あの、くりんくりんの人」
「あぁ」
「そういえばあの人最近見ないですね」
「あいつ、会社辞めたんよ」
「そうなんですか」
「うん」
そして今やもう、日本にもいない。
林から連絡があったのはちょうど一月前だった。金曜日の昼頃、ちょうどタバコを吸って休憩しているところだった。
「久しぶりやん」
林の声を聞くのは六甲山の夜以来だった。
「うん。元気にしてるの?」
「元気よ」
それに対して林は「ふぅん」と気の無い返事をした。
「林こそ元気なん?」
「うん。まぁ、元気」
「そっか」
「夏子さんさ、突然で悪いんだけど、明日って予定空いてない?」
「別に何も無いけど」
「良かった」
「またドライブでも行く?」
「いや、空港まで見送りに来てほしいんだ」
「見送りって誰の?」
「俺」
「何? 林どっか行くの?」
「モロッコ」
「はー? なんでまた?」
「性転換手術を受けるんだ」
驚いた。
「え、え、誰が?」
「だから俺だって。モロッコに行って性転換手術を受けるの。だから見送りに来てよ」
「そんな急に言われても……」
「さっき予定空いてるって言ってたじゃない」
「言ったけど」
それで次の日、本当に空港まで見送りに行った。
事前に聞いていたターミナルへ行くと、スーツケースを前に置いて林がベンチに座っていた。久しぶりに見る林は髪が伸びていて、女の子のようだった。
「来てくれた」
林はそう言って笑顔を見せる。
「そりゃ来るよ」
「ありがとう」
「隣、よろしいかしら?」
「どうぞ」
それで林の隣に座る。
「驚いた?」
「うん」
「だよね」
「性転換って、女になるの?」
「今は男だからね」
そりゃそうだ。
「なんでまた急に」
「自分としては別に急では無いんだけどね。ずっと前から考えてたことだったし。まぁ、ちょうどお金も貯まったし、都合もついたから」
「お金って高いの?」
「聞きたい?」
「やめとく」
そのお金は多分、普通の仕事だけで貯めたものではないような気がする。
「それで、いつ帰って来るの?」
「分からない。しばらくはちょっとぶらぶらしたい気持ちもあるけど、実際自分が女になった時に何を考えるのか、どう考えるのかが全然想像がつかなくて」
「ふむ」
「だから仕事も辞めてきた」
「マジ?」
「うん」
「要は知ってるん?」
「知らないよ」
林は少し寂しそうな顔をした。
「女になったらもう一回会いに行く?」
「行くよ。もちろん」
「あんた、強いわ」
私は溜息をついて林の手に触れた。
「私達、良い女友達になれるかな?」
「それは無理なんじゃない?」
「はぁ?」
「冗談だよ。またいつか一緒に夜景を見に行こう」
「約束やで」
「うん」
時間が来たら林は飛行機の搭乗口に吸い込まれていった。去り際、笑顔で私に手を振っていた。私も手を振り返した。次に会う時は林が女になっているなんて、なんだか不思議だった。
林が乗った飛行機が雲の彼方へ消えて行くのを屋上から見送って帰った。モロッコなんて、私は多分一生行かない。
喫茶店を出ると、午後の光が眩しかった。
「これからどうするん?」
十六時を過ぎた頃だった。
「旦那と合流して本町で赤ちゃんの服を見に行くんですよ」
「あ、そう」
「一駅だけど地下鉄乗った方がいいですかね?」
「そりゃそうやろ。大事な身体なんやから」
「じゃ乗ります」
「とりあえず改札まで送ってくよ」
「ありがとうございます」
麗らかな春を二人で歩く。
眠たくなりそうな陽気、でもしっかりと歩いて行く。霧谷はもうすぐ早めの産休に入る。それは少し寂しかった。
その時、突然霧谷が不意に立ち止まる。
「どしたん?」
「蹴った。今赤ちゃんが私のお腹を蹴りました」
「え? 早ない?」
時期的にそれはまだなんじゃないかと思う。
「いやいや、確かに蹴りましたよ」
「はは、良いやん」
「ひゃー、すごい。生きてるんだ」
「当たり前やろ」
「当たり前ですけど、でもそれってすごいことですよね。感動したぁ」
霧谷はほんまに感動しているようで、きゃあきゃあ言ってはしゃいだ。
「そやね」
それで私も少し笑う。
何か、生きてるなって実感した。霧谷も、お腹の中の赤ちゃんも。私も。
まちのひ @hitsuji
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