第2話


 仕事の関係で水族館のチケットをもらった。

 二枚。ペアチケットというやつらしい。

 元は谷川さんがお客さんからもらったのだが、私に譲ってくれたのだ。

 それで、ダメ元で要を誘ってみた。

「水族館?」

 要は仕事帰りのようで、後ろから街の音が聞こえた。

「そう。南港のとこの」

「あぁ、昔行ったことある」

「チケットがあるんよ」

「へぇ」

「一緒に行こや」

「いいけど、いつ?」

「じゃ今度の土曜日」

「ええよ。空いてる」

 決まった。

 それが火曜日の話で、そこからの平日は正直もう土曜日のことしか考えていなかった。年甲斐もなく浮き足立っていた。

 私はこのことを霧谷にも、もちろん林にも話さなかった。

 土曜日。谷四の中央線のホームで待ち合わせた。

 私は待ち合わせ時間の十五分くらい前には着いてしまっていて、ベンチに座って待っていたら、意外にもその五分後に要が来た。

「待った? てか早ない?」

 要はグレーのパーカーの上に黒のロングコートを羽織っていた。下はジーパン。

「思ってたのより一本前の電車乗れたから」

「そうか」

 中央線に乗って南港を目指す。

 九条手前で地上に出ると、今日も晴天。気持ちの良い土曜日だった。

「昔から不思議に思ってたことがあるんやけど」

 要は向かいの窓から見える景色を眺めながら言った。

「何?」

「なんで中央線は地下鉄やのに地上を走るんやろか?」

「さぁ。それを言うなら堺筋線もちゃう」

「堺筋線は天六までやろ? 地上に上がる頃はもう阪急の範囲や」

「妙に詳しいんやな」

「まぁー、就職して市内に越した頃、珍しがってようウロついたからな」

「天六といえば、この前天六から北浜まで歩いたで」

「アホや」

 要は笑った。

「そしたら難波橋のとこで林にすれ違った」

「あ、ほんまに? 偶然やなぁ」

「うん、偶然」

「あぁ、そう言えばあいつ何か言うとった気がするわ。今夏子とすれ違ったって」

「多分それやわ」

 てかそんな頻繁に連絡してるんかい。

「まさか天六から歩いてたとは」

「うん」

 土曜日なこともあり水族館に人でごった返していた。チケット売り場はものすごい行列。

「うへー、すごい人」

「大丈夫、チケットあるから売り場に並ばんと入れるよ」

「らっき」

 でも水族館の中も同じようにごった返していた。よく考えたらチケットを買った人が皆入るのだから当たり前だ。

 歩くのがやっとで、要と離れないように精一杯だった。私は無理してでも平日に来るべきだったなぁ、と後悔した。

 でも要は混んでいることなんて気にもしていないかのように、

「おい、夏子。あそこにアシカがいるぞ」

 なんて言って、いたってマイペースに水族館を楽しんでいた。

「見えるか?」

 要は背が高いから見えても、私は小さいから見えない。

「あかんなー」

「ここ、ここの隙間から見てみ」

 要が人と人の小さな隙間を指差して言う。

 覗いて見ると、確かにそこにアシカがいた。

「見えた。アシカや」

「良かった」

 要は満足そうに笑う。

 大きい水槽になるとさすがにそんな人と人の隙間を覗いて見るような状況にはならず、普通に二人並んで見ることができた。

 さぁーっと雄大に泳いでいるあの大きな魚は、ジンベエザメだ。その周りを小さな魚がまるで子分のように付いて泳いでる。

「小学生の時に習った魚の話みたい」

 私は青く光る水槽に手をついて言った。

「魚の話?」

「小さい魚が集まって大きい魚をやっつける話」

「なにそれ、知らん」

「え、マジ? わりと有名やと思うんやけど」

「教科書がちゃうかったんかな。なんて話?」

「や、タイトルは忘れた」

「ヒント無しはキチーな」

 なんて言って要は歩き出す。

 はは、何て笑って私もそれに続いた。

 なんというか、すごくデートっぽい。思えば要とこんなふうに出掛けるのはこれが初めてだった。二人で会う時はだいたい居酒屋だし、どこかに遊びに行くのはグループでだった。

 そういうこと、何も言わないけど要も気づいているのだろうか。なんか今日デートっぽいなぁ、とか、いつもと違うなぁ、とか。もし気づいてくれているのならば、まだ私達に可能性はある。

「ねぇ、要」

 要はふわふわと水槽に浮かぶ乳白色のクラゲ達を見ていた。クラゲ達は下からブルーライトに照らされ、幻想的だった。

「どした?」

「今日はさ」

「うん」

 振り返った要の目を見ると急に自信が無くなった。聞こうと思っていた言葉が出てこない。

「今日?」

「あ、今日は、あの、土曜日やんな?」

 ちぐはぐになって誤魔化す。

「うん」

「あー、やっぱそうか」

「何言うとんねん」

「はは」

 要の一言で私の恋は死ねる。たった一言で。これまでの時間は切り取られた八年となり扉が閉まり、過去になる。恐ろしかった。

 やがて出口にたどり着き外に出る。

 水族館の裏は海だった。

 特にやることもない私達は海岸通りを並んで歩いた。海は、私の気持ちなんか知らないようにだるそうにうねっていた。遠くにぼんやりと水平線が見える。

「海、今年の夏は行かんかったなぁ」

 要はタバコに火をつけて言う。

「毎年行ってたん?」

「まぁ、何だかんだで」

 私もタバコに火をつける。水族館の裏から少し離れて、周りには誰もいなかった。

「私は海なんて大学以来行ってないよ」

「えっ、マジ?」

「マジ。みんなで福井の海行ったの覚えてる?」

「覚えてる。それ、大学三回か四回くらいの時ちゃう?」

「三回かな」

「あれ以来? どんだけ昔だよ」

「ねぇ。もう七年前か」

「そんなに経つか」

「その頃から比べると大人になったわ」

「そやね」

「たまにあの頃に戻ってみたいとか思わん?」

「えー、俺は思わんなぁ」

「そうなん?」

 それはちょっと意外な答えだった。

「うん。だってあの頃はあの頃で大変やったやろ? ほら、試験とか、単位とか」

「何? そんなこと?」

 私は笑った。

「笑うけど、当時は死活問題やったやろー。まぁ今笑えるのはいいことやけど」

「要は、バンドやってたね」

「やってた、やってた。何かいろんなバンドを渡り歩いてたなぁ」

 今度は要が笑った。

「根無し草やったよな」

「せやな」

「またやりたい?」

「いや、もういい」

「そうなん? 好きやったんちゃうの? ギター」

「うーん、好きやったけどなぁ。今はもういいわ。なんやかんや忙しいし」

「今が楽しい?」

「まぁ、昔に戻りたいって思わんってことはそうなんやろな」

「仕事大変そうやのに」

 要の仕事はSEで、時期によるが忙しい時は本当に忙しい。

「夏子の仕事も大変やろ」

「まぁ」

 でも私には、仕事よりもっと大変ことがあるんよ。

 もちろんこれは言えなかった。

 けっきょくその後はそんな感じでぐだぐだと海辺で話をしてやがて帰った。デートっぽい感じではあったが、けっきょく終わってみれば何の成果の無い、いつもと変わらぬ一日だった。

 私はもしかすると、千年に一度のチャンスを棒に振ったのではないか? そんなことを思ったのは、自宅でシャンプーをしている時だった。だから、遅いのである。



「今何してんの?」

 久しぶりに林から電話がかかってきたのは翌週の土曜日だった。

「なんも。家でテレビ見てる」

 私は洗濯物を干し切ってひと段落したところだった。

「こんな天気の良い日に勿体ない」

「天気が良いから洗濯をしたよ」

「どっか出掛けようや。手ぶらでいいから駅まで出といで」

「はぁ」

 まぁ、でも暇だったからとりあえず駅まで出て行った。

 駅なんてざっくりした待ち合わせ場所やったからどこにいればいいのか分からず、とりあえずバスのロータリーの辺りに座っていたら後ろから林が現れた。

「なんなん急に」

「いや、暇やったから。夏子さんどうしてるかなって思って」

「私、そんなに暇ちゃうで」

「でも今日は暇やったんやね」

「せやけど」

 林はこっち、と行って改札の方を指差した。

「手ぶらでいいからなんて言うからてっきり車なんかと思った」

「車の方が良かった?」

「いや、どっちでもええんやけどね」

 改札をくぐり大阪方面行きのホームに上がる。

「どこ行くん?」

「えーと、うん。じゃ、万博記念公園」

 どうも今考えたようだった。

「そんなとこに何しに行くのよ」

「草原でビールを飲もう。天気が良いから気持ちいいはず」

 とっさに考えたにしては悪くない案だった。

 私達は阪急とモノレールを乗り継いで万博記念公園まで行った。太陽の塔。変な顔して、相変わらず堂々と立っていた。

「めっちゃ久しぶりやわ」

「俺もだよ。いつぶりか分からないくらい」

 缶ビールを買って中に入る。

 奥の方の草原まで行くと、天気が良いからかたくさんの人がいた。それでも今は寒い時期なのでまだ少ない方なのであろう。

「あ、しまった。レジャーシート忘れた」

「いいやん。そのままで」

 私はそう言ってそのまま草原の上に座り込んだ。

「男前だなぁ」

 林が笑う。

「なんで?」

「普通、服が汚れるから嫌だとかさぁ」

「ジーパンやからはたけばOKよ。林はね、女の子に幻想を抱きすぎやねん」

「別に幻想なんてないよ」

 林も私の横に座り、缶ビールをわたしてくれた。

「要と水族館に行ったらしいね」

「知ってたんや」

「うん」

「どうも頻繁に連絡を取ってるようね」

「そりゃ、好きだからね」

 私は溜息をついてビールを飲んだ。

「どうだった?」

「何が?」

「何がって水族館」

「あぁ、混んでたね」

「ふぅん。それ以外は?」

「楽しかったけど」

「そっか」

「てか、あんたね、そんな探り入れるみたいなんやめろやー」

「何で? 逆だったら夏子さんだって聞くだろ?」

 それはまぁ、確かに。

「ライバルの動向が気になるのは当たり前」

 これは林が正しい。

「要が俺のこと好きになる確率より、夏子さんのこと好きになる確率の方が高いじゃない。女ってだけでアドバンテージあるんやから」

 林はそう言って草原に寝転がって空を見た。

「そんな言い方は無いんちゃう?」

「事実でしょ」

「そうだとしてもよ」

 林は何を考えているのかよく分からないような目でこちらを見ていた。たまにこんなふうな不思議な目をする時があるのだ。

 私はというと、睨んでいた。

「ごめん」

 林は身体を起こしてまた缶ビールに口を付けた。

「怒らせるつもりじゃなかったんだ」

「いや、普通怒るやろ」

 私は溜息をつく。

「嫉妬してたんだよ」

「私に?」

「うん」

「私なんかに嫉妬するだけムダよ。だって結果、何も無いんやもん」

 私はそう言ってタバコに火をつけた。

「夏子さん、俺本気で要が好きだよ」

「私もだよ」

 林は軽く頷く。

 ビールを飲んでだらだらしてみるも、それだけではやはり暇で、軽く公園内を歩いた。

 フリーマーケットを覗いて、売店でコーヒーを飲んだ。そして最終的には池のアヒルボートに乗った。ボートは所謂足で漕ぐ自転車式のやつで、私は「こういうのは普通、カップルで乗るもんちゃうの?」なんて渋い顔をしながらも、ここまでイカにもというアヒルボートに乗るのは初めてだったので、少し楽しみだった。

 制限時間は二十分で、漕ぎ出すとこれが意外としんどくて、思うように池の上を動けなかった。ギコギコとペダルを漕ぐ音。林は足が長いから漕ぎにくそうで笑う。見渡すと周辺の秋が霞んでいた。

 アヒルボートを降りると、いつの間にかボート乗り場に長蛇の列ができていて驚いた。

「なんか私らタイミング良かったんかな?」

 私は列を見て言う。

「そうみたいだね」

 林は少し疲れた様子で言った。その気持ちは分かった。私も疲れた。

 再び秋の公園を歩く。

「要、東京の部署に転勤になったらしいよ」

 コスモス畑の手前くらいで林が急に言った。

「え?」

 大地に沿って走る冷たい風が肌を駆け抜けた。

「来月異動らしい」

「え? ちょっと待ってよ。私何も聞いてない」

 驚いた。

「要の会社、東京本社やからね。喜ぶべきことなんだけど、栄転って言うの?」

「いや、それはそうかもしれへんけど、東京って、そんな急に」

 心臓の音が早くなるのを感じた。

「この前水族館に行った時もなんも言うてなかったし」

「でも本当だよ。要から直接聞いたんだから」

「そんなこと……」

 あるはず無いとは言えなかった。

 全然あり得る話やし。

 それに林は私にそんな嘘をつくような奴じゃなかった。



 それから数日は本当に上の空だった。

 私は二回も初歩的なミスをして、珍しく谷川さんに怒られた。

 要に連絡をしたかったが、その勇気がなかった。

 木曜日の朝、駅からの道で偶然霧谷に会った。

「なんで雨も降ってないのに傘なんて持ってんの?」

 空は快晴だった。

「夏子さんニュース見てないんですか? 今は晴れてますけど、午後から記録的豪雨になるんですよ」

「えっ、そうなん?」

 ニュースなんてまったく見ていなかった。

「昼から帰宅指示が出るかもって話ですよ」

「そんなに?」

「何でも平成最大級らしいです」

 本当かよ。

 半信半疑だったが、十時半頃、総務部から本当に帰宅指示が出た。すでに一部地域では激しい雨が降り、避難勧告が出ているとのこと。

 午後になったら各々のタイミングで帰るように、なんてそんな指示が出たのは初めてだった。しかし空を見ると別にまだ普通に晴れている。

 でもまぁ、帰れと言われたら帰るしか無く、とりあえずやりかけの仕事を少しまとめて十四時半には会社を出た。

 外に出て空を見る。朝と比べると雲が増えたような気もするが、まだ雨が降りそうな感じではなかった。

 私は憂鬱だった。

 今から一人でうちに帰って、一人で要が遠くに行ってしまうことを考えるのだ。しかも外は記録的豪雨。

 大きく溜息をついた。

 要が東京に行くというのは、本当なのだろうか。

 何回もそんなことを考える。

 おそらく本当だということは分かっているのに。

 まだ十四時なのに通勤ラッシュみたいに人が駅へ流れていた。どこの会社も帰宅指示が出ているようだった。

 要の会社もそうなのだろうか?

 そう思った私は、気が付いたら電話をかけていた。

「もしもし?」

 二回目のコールで要が出た。

「仕事、休みになった?」

「うん。夏子もか?」

「うん。ね、ちょっとだけ飲みに行かない?」

「え? 今から? 大丈夫なんかよ?」

「大丈夫やって。雨降ってないやん」

「今はそうやけど、記録的豪雨なんやろ?」

「ちょっとなら大丈夫よ」

「店あいてる?」

「この前のタコスのとこなら十五時から空いてるよ。店長、あそこの上に住んでるから多分やってると思う」

「分かった。じゃ十五時な」

「うい」

 それで電話は切れた。

 これで良かった。やっぱり会って話してみないことにはどうにもならない。

 十五時ちょうどに店の前に着くと、要も着いたところらしかった。

「お前、傘持ってないの?」

 要は私を見て驚いた。

「折りたたみがある」

「記録的豪雨だ、つってんのに」

 要は溜息をつく。

 中に入ると店長が意外そうな目で私達を見た。

「今日はさすがに誰も来ないと思った」

「二人、いける?」

「いけるも何も」

 店長は笑った。私達以外誰もいない。

「ビール二つで!」

 要はコートを脱いで壁に掛けた。席に着くと同時に店長はビールを持ってきてくれた。

「雨、強くなる前に帰らんとな。ニュース曰く、マジで電車止まるらしいぞ」

 私はそんなことを言う要をじっと見た。

「それよか、東京に行くらしいやん」

「え?」

「東京」

 そう言う心臓はドキドキしていた。

「あぁ、林のヤツか」

「行くの?」

「うん、行く」

 目の前が真っ暗になった。

「来月って聞いたけど」

「うん」

 離れてしまうのだ。涙があふれそうだった。

 私はそれを悟られないように勢いでビールを一気に飲み干す。

「おい、夏子」

「店長、おかわり!」

「早いねぇ」

 店長は笑うけど、私は涙目になっていた。ビールの一気飲みなんて、もちろん初めてだった。

「一言くらい言ってくれてもいいのに!」

「うん、ごめん」

「この前の水族館の時はもう分かってたん?」

「うん。なんとなく言い辛くて」

「は、なんで?」

 厳しい口調になる。

 要は驚いたようで、

「なんだよ。もう酔ったん? 何か怖いわ」

 そんなに酔っている自覚は無かった。でももしかしたら少し酔っているのかもしれない。ビール、一気飲みしたし。

 でもそれはそうと、酔ってるって思われたら少し言い過ぎても酔っている勢いだからと許してくれはしないだろうか、なんて考えが浮かんだ。それならば今日は、酔っている勢いということにして言い過ぎてやりたい。悲しいし、それに少し腹立たしくもあるから。

「ちゃんと話してくれたらいいのに」

 私はビールのおかわりを飲む。

「それは悪かった」

「なんで私に言い辛かったん?」

「何となく」

 要は少し困った顔をして言う。

 私はまたビールをお代わりした。

「夏子、どしたん今日」

「私だって飲みたくなる時があんねん」

「やめろよ。そんなん」

「東京行ったら次、いつ戻ってくるん?」

「まぁ、それは正直分からん」

「戻って来ないかもしれんの?」

「ゼロじゃない」

 私の胸は悲しみでいっぱいになって、正直もう悲しみのキャパオーバーで、酔いも回って機嫌が悪くなってきた。

「店長、テキーラハイボールちょうだい!」

「おい、夏子。ペース早いって」

「そんなことないわよ」

 そんなことあった。

 明らかにいつもよりペースが早い。世界が少しずつ回って行くのを感じた。

「なんなんだよ」

「だって東京行くなんて言うから」

「……」

「黙んなよ」

 私、完全にめんどくさかった。

 それに気づいてしまったらもう飲むしかなかった。止まらなかった。止められなかった。

 それで店を出ると、もう信じられないくらい雨が降っていた。

 話に聞いていた記録的豪雨というヤツが街にやって来たのだ。

「止まってるよ。阪急もJRも」

 要は携帯に目を落として言う。

「うちに来いよ」

「いいの?」

「だって仕方ないやろ」

 要は傘を開く。

「お前さ、うちで水飲んで一回酒抜けよ」

 呆れ声だった。

 私の折りたたみ傘なんて役に立ちそうもない豪雨。だから要の傘に二人で入って歩く。

 なんだか頭がぼぉっとしていた。酔ったフリをするつもりが、いつの間にか本当に酔っ払ってしまっていたのだ。

 要の部屋に上がるのは初めてだった。シングルベッド、乱雑に積み上げられたファッション雑誌、ノートパソコン、机の上にはヘアワックス。どれも要の匂いがした。

「ほれ」

 要はコップに水を入れてわたしてくれた。

「ありがとう」

「適当に座って」

 私は床に落ちていたクッションの上に座った。

 しばらくして要も向かいに座る。

 窓の外からはものすごい雨音が聞こえる。

 要は軽く咳払いをして、

「まぁ、確かに転勤のことちゃんと言ってなかったのは悪かった」

 違う。要は何も悪くない。

「東京来る時は連絡くれよ。いつでも飲みに行くから」

 そんな当たり前のこと言わないで。

 堪え切れずに涙がこぼれた。

「夏子?」

 一度こぼれるともう止まらなかった。

 涙は次々と頬から落ちていく。大粒の涙。

 それでけっきょく私はわんわんと声をあげて泣いてしまった。

「要、好きよ」

 要がどんな顔をしているのか、自分が情けなさ過ぎて直視できなかった。

「私、ずっとずっと要が好きやった」

「夏子」

「ほんまに好きよ」

「うん」

 これはズルい。

 自分でも気づいていた。このやり方を、多分林は軽蔑するだろう。

 でも涙が止まらなかった。

 それで私は服を脱ぎだした。堕ちるなら、どこまでも堕ちてやろうと思った。とりあえず上、シャツとキャミソールを脱ぎ、ブラジャーも外した。裸の胸を露わにする。これには要も驚いたようだった。

「ごめんね、要」

「なんで謝るんだよ」

「私、こんな女で」

 要の手に触れる。私の好きな大きな手。

「どうしても好きやった」

「夏子、俺はな」

 私は要の手を引っ張って抱き寄せた。

 要の細い身体。愛おしくて、それと同じだけ辛くて、さらにぼろぼろと涙が出た。

 観念したかのように要の長い腕が裸の私を包んだ。



 雨の音で目が覚めた。

 裸の身体に布団がかかっていた。要のベッドの上だった。

 頭の横に私の携帯が置いてある。見ると、霧谷から着信が五件も入っていた。そして時間を見て驚いた、もう九時を過ぎていた。

 慌ててベッドから飛び起きる。

「大丈夫やで」

 要は眠そうにノートパソコンに向かっていた。上は会社用のシャツで下はジャージという変な取り合わせだった。

「電車、まだ全然動いてないよ。うちの会社、今はとりあえず自宅待機。多分、そっちもちゃう?」

 外を見ると昨夜と同じくらい雨が降っていて、風は昨日よりもひどくなっているくらいだった。

 それでも一応霧谷に折り返す。

 霧谷はすぐに出た。

「夏子さん、やっと繋がった」

「ごめんね。出社してんの?」

「まさか、全員自宅待機ですよ。というか夏子さん大丈夫ですか? なんか夏子さんのうちの方ヤバいみたいじゃないですか?」

「あー、うん、まぁね」

 え? そうなん?

「ニュースでガンガンやってますよ」

「マジ?」

「マジです。まぁ、とりあえず無事で良かった」

「ありがとう」

 それで電話を切る。

 部屋の中には雨音とキーボードを打つ音。

「やっぱ自宅待機になってた」

「うん」

 要はノートパソコンを繰りながら、傍らに置いたパックのいちごオレを飲んでいた。

 少し頭が痛かった。

「電車が動くまではここにいろよ」

「うん。要、仕事?」

「あ、これ?」

 要はノートパソコンを指差す。

 私は頷く。

「そう。まったく、自宅待機でも容赦が無い」

「はは」

「服、足元にあるから」

 それで私は自分が裸なことを思い出し、急に恥ずかしくなった。

「ごめん」

 服を着て改めてベッドに座る。昨日のことは意外にもちゃんと覚えている。気まずい。とりあえず悪酔いしたことを謝りたかった。

「なんかさぁ、腹減らへん?」

 要が言う。

「あ、うん。少し」

「でも、なんも無いんよなー。インスタントのラーメンでもいい?」

「朝から?」

 笑ってしまった。

「朝食っぽくはないけどさ、食う?」

「食う」

 それで要は立ち上がってお湯を沸かし始めた。

 私はというと、ベッドに腰掛けて改めて要の部屋を見回した。憧れだった場所。私は今、そこにいる。

 しばらくして、要が湯気の立つ鍋を持って来た。インスタントラーメン。いい匂いがする。

「悪い。一つしかなかった」

 それでお茶碗を一つわたしてくれた。

「全然いいよ」

 一つの鍋のインスタントラーメンを二人で分けた。ラーメンは少し茹で過ぎていて、それでも私好みの塩味で美味しかった。

「要の料理なんて初めて食べた」

 麺をすすりながら言う。

「料理って、インスタントやけどな。でも俺やって夏子の料理食べたことないよ」

「あるよ。ずっと昔やけど」

「ほんま? 何作ってもらったっけ?」

「焼きそば」

「全然覚えてない」

「何かの飲み会終わりで、他にも何人かいたけどな」

「そっか」

 二人ともお腹が空いていたのか、インスタントラーメンはあっという間になくなった。

「洗い物するよ」

「や、大丈夫。大して無いし、漬けて置いとくから」

「そう?」

「うん」

 それで要は再びノートパソコンの前に座った。

「ごめん、私邪魔ちゃう? 帰ろうか?」

「大丈夫。それに帰ろうにも帰れないやろ」

「あ、そっか」

「予報によると昼に向けて徐々に雨は止んでいくらしいで。電車も昼過ぎには一部動き出すらしい」

「そうなんや」

「だからもうちょっと大人しくしとき」

「分かった」

 大人しくしときっていう言い方が要っぽくて、私はつい笑ってしまった。

 要はテレビを付けてくれた。驚くことに私の最寄駅がニュースで映っていた。信号機が風で折れて駅舎に落ちて来たらしい。空撮でそんな壊滅的な状況が映し出されている。霧谷が言っていたのはこのことか。

 これはいつもの通勤ルートでは帰れそうになかった。それにしても自分の最寄駅の様子をこうしてテレビで見るというのは、どうにも不思議なことだった。

 そんなことを考えていたら本当に昼前に雨は弱くなってきた。

「JR、昼から動き出すらしい」

 仕事をしていた要が急に言った。

「そっか。良かった」

「阪急も動き出すけど、夏子の最寄駅はダメみたいやなぁ。これはしばらくは別ルートで通勤せなあかんかもやで」

「そやね。ニュースを見てる限りでは明日、明後日じゃとても直りそうにないわね」

「俺は昼から出社になった」

「マジで?」

「まぁ、本気出したら歩いてもいけるからな。にしてもこんな日に来いなんて、ちょっとブラックやんな」

 そう言って要が笑う。

「ほんまやで」

 私も笑った。

 要はノートパソコンを閉じた。

「夏子、ごめんな」

「何が?」

「俺、やっぱり夏子の気持ちには応えられへん」

 要は私の目を見て言った。

 消え入りそうなくらいまで落ち着いた雨音がカーテンの向こうから聞こえる。

「そのことか」

「ごめん。どうしても夏子のことをそんなふうには見れん」

「気づいてたよ。ずっと前から」

「うん」

「要も私の気持ち、少しは気づいてたんちゃうの? だから転勤のこと、私に言い出しにくかったんちゃう?」

「うん、そやな。もしかしたらってくらいやったけど。ごめん」

「あんまり謝らないでよ」

「……」

「よくあることやん」

 私は笑顔を作った。無理にとかではなく、ごく自然に。作った。

「夏子」

「東京に行っても元気でいてな。東京行く時は連絡するし、また飲みに行こう」

「うん」

 要は優しく微笑んだ。

 昼過ぎに二人で家を出た。

 雨はもう上がっていて、昨日の夜が嘘のように穏やかな天気だった。

 それでもいくつかの木が倒れていたり、看板が飛んでしまっていたり傷跡は確かに残っていた。

 駅まで一緒に歩き、地下鉄も動いていたので私は谷町線に乗って梅田を目指すことにして、要は長堀鶴見緑地線で会社に行くことにした。息を吹き返した街並みの中、改札で手を振って別れた。

 梅田まで出ると、思っていたほど人でごった返してはいなかった。電車にもなかなか乗れないのではないか、と思っていたが、来た電車にあっさり乗れた。座れた。

 JRの最寄駅からうちまでだと、二十分程度歩く。遠くに見える切れ切れの雲がパールのような色で、まるで絵画のように美しかった。街並みを見渡すと、市内と同じように木が倒れていたりと被害はあったが、ここだけが特別というわけではなさそうだった。おそらく駅があんなになってしまったから注目を集めてしまっただけなのだろう。

 そんなことを思ってうちに帰ると、驚くことにどこからか飛んで来たであろうトタン屋根がベランダの窓を粉々に砕いて部屋の中に入って来ていた。これには驚いた。なかなかの衝撃映像だった。

 私は慌てて玄関から箒とチリトリを持ってきて粉々に砕けた窓ガラスの破片を拾い集めた。

 凄まじい勢いで飛び込んで来たのか、破片は部屋のかなり中の方まで飛び散っていた。踏まないように一つ一つ拾い集める。

 その時、気づいた。

 全てはもう、終わってしまったのだと。

 遅いのだ。

 私はいつもいつも。

 また涙があふれてきて、でも一人で部屋で泣くなんて、情けなくて本当に嫌だったので、慌ててバスルームに逃げ込んだ。

 頭からシャワーを流して、涙なのかシャワーなのか分からないようにして声を押し殺して泣いた。

 八年分の涙。それが排水溝に吸い込まれて流れてゆく。

 三十分くらいそうしていただろうか、シャワーを止め、鏡にうつった私の顔は、泣き腫らした目で、本当に酷かった。でもバスルームから出ると妙にすっきりしていて、身体が軽くなった感じがした。

 その理由はすぐに分かった。今はもう何もかもどうだっていいのだ。要のことも、これからのことも。飛び散った破片も、けっきょく集めきらずに放置してある。それももうどうだってよかった。

 私は破片の飛び散っていない寝室に行き、ベッドに飛び込んだ。もう眠ってしまおうと思ったのだ。

 私と要の八年が音も無く終わった。

 いつかはこんな日が来ると気付いていた気がする。でもいつまでもこんな日に辿り着かないで生きることもできるのではないかとも思っていた。けっこう本気で。

 その時、閉じた扉の向こうで電話が鳴っているのが聞こえた。

 もう誰が何の連絡をして来ようと関係ない、なんて思っていても、仕事の連絡だったら誰かに迷惑がかかる。社会人としてのぎりぎりの理性が働き、私は渋々と起き上がって携帯を鞄から取り出した。

 林からだった。

 まったく、コイツは何とも不思議なタイミングを持っている。

「もしもし?」

「あ、夏子さん、無事?」

「一応……」

「そう、良かった。ニュース見たら夏子さんの最寄駅が酷いことになってたから」

 みんないい大人だからちゃんとニュースを見ているのだ。

「心配して電話くれたん?」

 私は再びベッドに倒れこむ。

「そうだけど」

「てっきり要とのこと、何か聞いたのかと思った」

 私は皮肉っぽく笑う。

「何かあったの?」

「何かも何も」

 私はそっと目を閉じる。

「終わったよ。全部」

「どういうこと?」

「言葉のママよ」

「ちょっと夏子さん……」

 林は何か言いかけたが、私は聞かずに電話を切った。枕に顔を埋めて目を閉じる。

 このまま眠って、目が覚めたら世界がなくなっていればいい。本気でそんなことを考えながら私は眠った。

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