まちのひ

@hitsuji

第1話


 タコスを頬張りながら思う。

 二十八にもなると、もういろいろなことを知ってしまっているなぁ、なんて。

 それは良いことも悪いことも。

 私は知っている。

 夢のような時間というものは、実は本当に夢の中にいるのだということを。それは日常から切り離された異次元での出来事で、その境目もはっきり見える。空気が変わるのだ。電車の中でうたた寝をしていて、駅に着いてハッと目覚めた時のあの感覚と少し似てる。

 さらに私は知っている。ここのお髭の店長が実は日本人だということを。でも私はここのタコスを本場の味だと思って食べてる。店長が本場で修行をしてきたというのは本当だし、実際、美味しいし。タコス。

 そして、同じく隣でタコスを頬張る要が、私のことを好きでもなんでもないことだって、もちろん私は知っている。

 私は要のこと、好きなのだが。大好きなのだが。

 でも笑ってる。

「テキーラハイボールなんてよく飲めるよなぁ」

 要はいかにも甘そうな、常夏の楽園で今しがた搾り取ってきたかのような黄色い果実のお酒を飲みながら言う。基本、彼は甘党なのだ。

「夏子、昔から酒強いもんなぁ」

 細い指でタバコをくゆらす。

 私はそんな要の細い指が、タバコを吸う仕草が、すらっと細長い体型が、少し長めの髪が、黒縁眼鏡越しに見る細い目が、好きだった。もうずっと前から。

「私、そんなに強ないよ」

 でも要は信じなかった。実際、テキーラハイボールは比率の加減で、そんなにアルコールっぽくない。飲みやすい。一口勧めるも、要は断った。

 私は知っている。

 努力しても叶わない情熱というものがこの世にはあることを。そして叶わないと分かっていてもそれを捨てきれないことを。捨てるよりも抱える方がずっと楽だということを。

 しかしまぁ、罪な男である。

 私は要にハタチからの八年を捧げた。その間に友達はもう何人も結婚して子供を生んだ。私は、そのまま。留年続きでいつまで経っても大学を卒業できない女生徒のようである。

 罪の意識が無い悪事というものが、この世の中で最も悪な存在だと私は思う。

 罪の意識が無い時点で本人からしたらそれは悪ですらないからだ。これは非常にタチが悪い。まぁ、要が私を好きにならないことが悪なのかと言われると言葉に詰まるのだが、それは置いておいて、例えば今、私がそのような悪に身を焼かれて死すれども、要は多分何も気づかないはずだ。永遠の友達。夏子=友達。私とはつまり、そういう存在だと、理解しているから。

 でもそれは理解ではない。

 誤解だ。

 誰か要に教えてやってくれ。

 私からは言えない。だから誰か。

「な、ここのタコス美味しいやろ?」

 テキーラハイボールをチビチビ飲みながら笑顔の私。この店は友達の紹介で最近ちょくちょく通っている。いわば私のイキツケなのだ。そこに要を連れてきた。仕事帰り。

「うん、美味いね。うちからも近いし、良いよ」

 要は谷六に住んでいて、この店は谷四にある。歩いて帰れる距離なのだ。

 何杯か飲んで外に出ると私はもう終電近くの時間で、真っ暗闇に雲の無い空。市内にも関わらず、遠く近く星がよく見えた。

 だんだん寒くなってきた街並み。二人ともコートの前を締める。

「じゃ、私こっちやから」

 私は堺筋の方を指差す。

「え、谷四の駅てこっちちゃうん?」

 要は逆側の道を指差す。

「堺筋線やと茨木まで乗り換え無しで帰れるから」

「あぁ、そゆことね」

「じゃ、またね」

 私はしゅびっ、と敬礼みたいなポーズをとる。

「待て。送ってく」

「ええの? 要のうちと逆やで?」

「ええよ。夜やし」

 こういうところが好きなのだ。

 要とは大学が同じだった。

 何か忘れたが、授業が同じで知り合った。知り合ってわりと早い段階でもう好きになってた。

 八年、いつの間にか大学を出てお互い就職をした。

 その間、要には二人彼女ができて、それで別れた。それ以外にも噂になった女もいた。女の影がチラつく時、私はやっぱり辛かった。

 そんな時、私も彼氏を作った。でもけっきょく要のことが忘れられず、長続きしなかった。それでまた要のところに戻ってしまう。そんな繰り返しの八年だった。

「あそこのファミマ、前まで週刊誌にテープ貼って無かったのに最近になって急に貼り出してん」

 そう言って要は緑と青に淡く光るファミマの看板を指差した。

「最近そゆ店多いよね」

「だよなー。立ち読みのできないコンビニを俺は心から憎むよ」

「給料貰ってんだから買って読め」

 私はタバコに火をつけて笑う。

「あ、一本おくれ」

 私はタバコを一本要にわたして、立ち止まって先端に火をつけてやる。

 私は今、夢の中にいる。

 異次元での出来事。はっきりとそう思う。だってファミマの看板は、いつもはあんなに淡く光っていないではないか。

 堺筋線の改札をくぐるまでは夢の中。

 そんなことを考えながら甘い異次元の中を歩いて帰った。



「で、けっきょく今回の彼氏とも別れちゃったというわけ?」

「わけです」

 昼休みの定食屋。霧谷はそう言って溜息をつくと、カツ丼のカツにかぶりついた。

 カツ丼はトロトロの卵とネギが上手いこと混ざり合い、それがカツにかかっていて、実に美味しそうだった。私はそれを見て、天麩羅そばじゃなくてカツ丼にしとけばよかったなぁ、と後悔した。

「ね、夏子さん。ちゃんと聞いてます?」

「聞いてる、聞いてる」

「でも今一瞬違うこと考えてた」

「そんなこと無いって」

「カツ丼にしとけばよかったなぁ、って」

「心の中を読むなっての」

 長いこと一緒に仕事をしているからか、霧谷は最近私の考えていることが分かるようになってきたらしい。お茶を飲んで話を元に戻す。

「で、今回はなんで別れちゃったん?」

「あ、今回はって、なんか私が何回も失敗を繰り返してるみたいじゃないですか」

 霧谷はお箸を私に向けてぶいぶいと抗議する。

 だって実際そうやん、と思ったが余計なことは言わなかった。

「何があったん?」

「何がって言われると別に何も無いんですけどね。性格の不一致と言うか、だんだん一緒にいるのがしんどくなってきて」

「どれくらい続いたんやっけ?」

「二カ月です」

「なるほどね」

 私はずるずるとそばをすすった。

「夏子さん、今、絶対短いなぁって思ったでしょ?」

「だから心の中を読むなっての」

「たかが二カ月、されど二カ月ですよ」

「そうやんな」

「一時期はほんまに好きやったんですから」

「うん」

「はぁー」

 霧谷は大げさに溜息をついて、半ばやけ食いのような感じでカツ丼をかっこんだ。

「大丈夫やって。きっとまたいい人見つかるよ」

「それはそうかもしれないですけどー。ねぇ、夏子さん、性格が合わなくて別れるって、一番最悪やと思いません?」

「そうかなぁ」

「そうですよ。だって、何か悪いことしたわけでもなくて、普通にありのままの自分を否定されて終わってるんですよ。それ、けっこう辛くないですか?」

「うん。まぁ、そう言われると」

「どうせなら、傷ついてもいいから浮気とかされて捨てられる方がずっとマシですよー。相手のせいにできますし」

「うーん。まぁ、でもさ、ほら。否定も一つの肯定の方法って言うし」

「それ、全然意味分かんないです」

 食べ終わって外に出ると、思っていた以上に空気が冷たかった。木枯らし。呆れるくらいのスピードで季節はだんだん冬。

「寒っ」

 霧谷はまだ二十四なのにオッさんのような声を出した。

「もうそろそろ昼休みもコート着て外出なあかんね」

 今日は二人とも室内着にマフラーを巻いただけだった。

 冷たいオフィス街を早足で事務所に戻る。

「てか夏子さん、さっきの話ですけど」

「彼氏?」

「そう。てか元彼氏ですけどね。訂正させないでくださいよ、そんなこと」

「ごめんごめん」

 律儀に訂正するから、いけないと思いつつも笑ってしまった。

「笑ってますけど、私、ほんまにショックやったんですからねぇ。仕事も手につかないくらいに」

「そんなふうには見えなかったけど」

「心はズタズタなんです」

「よしよし。次頑張ろ、次」

「うー」

 霧谷は唇を突き出して悔しそうな顔をした。辛かったのは本当なのだと思う。

「新たな出会いを求めて心機一転、合コンでも行ってみたらどう?」

「合コンねぇ」

「まだ若いんやからさ」

「それなら夏子さんも一緒に行きましょうよ」

「えー。嫌やわ合コンなんて。私、もう二十八やで」

「でも彼氏いないんでしょ?」

「いない」

「じゃ、いいじゃないですか。一緒に行きましょ。一緒に男漁りましょ」

「男漁りって。私はそういうのパス」

「だって、いつまでも片想いってわけにはいかないでしょ」

 痛いところを突いてくる。

 前に酔っ払った時に要のことを霧谷に話したことがある。私はそれを今でもずっと後悔している。本当に後悔している。

「なんて、冗談ですよ。いや、半分本当ですけどね。ダメならダメで夏子さんこそ次頑張りましょうよ、次」

「それができたらどんなに楽か」

 私は溜息をつく。

「でも夏子さん、たまに別の男の人と会ってますよね」

「え?」

「ほら、短髪のくりんくりんの髪した人。たまにビルの下で待ち合わせてるでしょ? 私ちゃんと知ってるんですからね」

「あー」

 心当たりは、有りだった。

「要さんは髪長いって言ってたから、じゃこの人は誰なんやろって私ずっと思ってたんですよ」

「待って、要が髪長いなんて私言った?」

「言ってましたよ。それがまた良いのよねぇ、なんて。ウットリした目で」

「分かった、分かった、もういい」

 私はいったい、どこまで話をしたんやろう。怖くなってきた。

「で、あのくりんくりんの人は誰なんですか? けっこうカッコ良かったじゃないですか」

「あぁ、あいつはなんでもないのよ」

「またまたぁ、彼氏候補ですか?」

「まさか」

 本当にまさかなのだ。

 そのくりんくりんは私にとってそんな色っぽい存在ではない。

 彼氏候補だなんて、笑わせる。

 むしろその逆。

 まったくの逆なのだ。


 なんて噂をしていたからか、夕方帰ろうと外に出たらそのくりんくりんと職場の下で鉢合わせた。

 私は少し驚いて、

「偶然?」

「当たり前だろ」

 くりんくりん、林は少し不機嫌そうに言った。

 仕事帰りのようで、ダッフルコートの肩に鞄を斜めがけにしていた。吐く息が白い。

「飲み行く?」

「ここで会ったが百年目、なんて」

「嫌ならいいすよ」

「いや行くよ」

 それで二人で近くの立ち飲みに行く。

 ここの立ち飲みは七時までに入れば小鉢三つとドリンク二杯で千円という早飲みセットをやっている。安いし、意外と美味しいから霧谷と頻繁に通っていたら、いつの間にか何時に来ても早飲みセットを出してくれるようになった。マスターが顔を覚えてくれたのだ。

 それで今日もマスターに挨拶してセットをいただく。林を連れて来たのは初めてだった。

「美味いね」

 小鉢の梅水晶を食べて林は言った。

「でしょ」

「夏子さん、久しぶりだっけ?」

「や、どやろう」

 前に林と会ったのはいつか、全然思い出せない。

「夏ぶり?」

「いや、それはさすがに無いやろ」

「そう?」

 そう言って林はビールを飲む。つくづく中ジョッキの似合わない男だった。

 コートを脱いだ林の身体つきは細く、スタイルは良いのだが、この痩せ方はどうも健康ではない印象を与える。そしてくりんくりんの髪。これは地毛のようで、少し茶色かかっている。童顔。確かに一見すると美男子ではある。

 しかし、この男は断じて私の彼氏候補などでは無い。

 なぜならこの男は、私の恋のライバルだから。

 林はもともと、要の友達だった。

 知り合ったのも要繋がりの飲み会。あの夜、要が会社関係の人と飲んでる時に私に連絡してきて、たまたま近くにいたから合流した。

 店に入ると要はすぐに私を見つけて、奥のテーブルから手を振った。会社関係の人といる、なんて言うから少し身構えて行ったのだけど、三人だけで、皆同じくらいの歳の人だったから私は安心した。林はその一番端の席に座っていた。

 話を聞くと、三人のうち林だけが違う会社の人間のようで、要の会社に入っている協力会社の担当らしかった。林は「どうも」なんて頭を下げる。私も同じように挨拶した。

 しかし私はそんな仕事上の人間関係のことなんて、どうでも良かった。私が気になったのはその、恋の匂い。

 この人も要のことが好きなんだ。

 すぐに気づいた。

 そして偶然にも、その数日後、すぐに林と再会した。今日と同じように職場の前でばったり会ったのだ。

「会社、この辺なの?」

 林は少し驚いた様子だった。

「このビルなのよ」

 私は指をさして言う。

「そうなんだ。北浜の駅から近いなぁ、羨ましい。うちはもっと本町寄り」

「へぇ」

「仕事終わり?」

「うん」

「軽く、飲む?」

「飲む」

 なんて調子で飲みに行った。これまた近所のチェーン店の焼き鳥屋さん。二人席に向かい合ってビールを飲む。

 それで、

「要のこと、好きなんやろ?」

 すぐに聞いた。

 酒が入っていたから、というのが半分と、こういうことは時間が経てば経つほど聞きにくくなる、と思ったのが半分。

「好きだよ」

 意外にも林はあっさりに認めた。

「よく分かったね」

「まぁ、ね」

「夏子さんも要のこと好きなんだろ?」

 私は目を合わさずに焼き鳥をかじった。

「夏子さんも要のこと好きだから俺が要のこと好きなのに気づいたんだろ?」

 誤魔化してもムダなようだった。

「よく分かったね」

「まぁね」

 林は勝ち誇ったようににっこり笑った。

 それで私達は晴れて恋のライバルとなったのだ。

 それから私達はたまに会っている。側から見たら変な関係だけれども。

「その後、要とはどうなのよ?」

 私は菜の花のおひたしを口に運び、聞いてみる。テレビではお笑い芸人がバカみたいなオーバーリアクションで笑っていた。

「それ、どういう答えを求めてるの」

「別に」

「夏子さんこそどうなんよ」

「なーんも、無い」

「そっか。安心した」

 それで林は少し笑う。

 なんて会話をもうずっと繰り返している。私も、林も一向に進歩がない。まぁ、進歩が無いからこそこうやって会えるのだが。

「いい加減さ、告ってみればいいじゃん」

 林は細いタバコを吸って他人事のように言う。

「よく言うわ」

「ダメ?」

「自分は絶対そんなことしないくせして」

「俺の話は関係ないだろ」

「告るなんて、今更無いよ」

 歳を重ねて「告る」まぁ、つまりは「告白する」ということに対して年々抵抗が増えていた。告る、なんてめっちゃ恥ずかしい行為。もはや自慰を誰かに見られるのと同レベルである。淀みなく流れる生態系を乱すような、背徳感すら覚える。林だってそんなことは分かっているはずだ。分かっていて私をからかっているのだ。

「バカにせんとって」

「バカになんてしてないって」

「嘘つけ」

「上手くいけばいいなぁ、って俺はいつも思ってるよ」

「だから嘘つくなっての」

「嘘じゃないって、ただそれよりも自分が上手くいきたいって気持ちの方が大きいだけ」

 林が意地悪っぽく笑う。

「あ、そ」

 それで私はジョッキのビールを飲み干した。



 私の仕事は印刷会社の版下制作である。

 版下というのは、いわば印刷物のデザインのことだ。でも私が作るそれはデザインと呼ぶには無機質過ぎるもので、いわゆる罫線を何ミリにする、とかこの字体は丸ゴシックで、色はスミで、級数は八ポだと小さ過ぎるから九ポにして、とかそういうレベルの話なのである。

 四大を出た後に専門学校へ進学した。

 この四大と言うのが要と同じだった大学で、就職活動を前にして私は、何故だか(今となっては何故だかとしか言いようがない)デザインの道に進みたいと思った。通っていた四大とはまったく別のジャンルだった。それで地元の両親に無理を行ってデザインの専門学校へ進学し、二年間専門分野を学んだ。

 その後、就職氷河期を超えて入社したのが今いる印刷会社なのだ。こんなふうに話すとアレだが、決して悪い会社では無い。基本的に定時、ちょっと過ぎにはあがれるし、人間関係も悪くない。

 ただ、専門学校を出てまでして自分がやりたかったことがこの仕事かと問われると、正直言ってクエッションではある。それはどうしても否めない。

 でも勤めだして四年、今更そんなことはどうでもいいのだけど。バリバリのデザインをやろう、なんて気持ちもいつの間にか消えてしまった。

 霧谷にしても、四大は出ていないが、専門学校を出ていて、最初は別のデザイン会社に就職した。でも、そこでは残業、残業、夜間校正、夜間校正なんて、デザイン会社の闇を短いながらもシッカリと経験させられてしまい、逃げるように今の会社へやってきた。仕事内容も前の会社と比べるとずっと地味だが、仕事をしているうえで、今彼女はとても幸せそうだった。

 そういうケースもある。

 だから私は、自分が間違えた道を歩んだとは決して思っていない。ただちょっと、理想とほんのちょっとズレてしまっただけだ。そういうこと、誰にでもあると思う。

 私の普段の仕事は内勤作業で、ひたすらパソコンとにらめっこしているような仕事なのだけど、ごくたまに営業担当に連れられて得意先に出張校正に行くことがある。

 今日がまさにそんな日で、営業担当と二人で昼前に事務所を出て谷四まで歩き、少し辛いカレーを食べた後、昼過ぎに谷四と谷六の間、中央大通りを少し越えたあたりにある得意先に入って一時間ほどみっちり打ち合わせをした。

 外に出ると日は高く、抜けるような青空だった。

「秋晴れ、というやつですか」

 営業担当の谷川さんは眩しそうな目で空を見て言った。

 彼女はもう五十を超えたおばちゃんで、一応肩書きは課長だ。うちの会社の営業はこの人を含めて二人しかいない。だから課長一人、課員一人。うちみたいな小規模の会社だとよくあることだ。でも少し、違和感もある。

「秋晴れっていうか、もはや冬晴れです。寒い」

「そうね。まだ十一月やのにね。今年の夏は猛暑やったから、その分冬は寒いんやろか」

 谷川さんは首にマフラーを巻いて言う。

「私、寒いの苦手です」

「そりゃ夏子やもんね」

 谷川さんはそう言って笑う。

「谷川さん、一回事務所戻るんですか?」

「ううん。このままもう一軒回るわ」

「そうですか」

「今の話もそこまで急ぎちゃうかったし、お茶でも飲んで休憩してから帰ってもいいわよ」

「わぁ、ありがとうございます」

 それで谷川さんは手を振って谷四の駅へ続く地下へ足早に消えて行った。

 営業さんは歩くのが早い。それはセカセカしてる、というより効率的に最短ルートを通っているという印象だ。

 一人になった街。確かに今日は少し仕事に余裕がある。谷川さんの言う通りお茶でも飲んで帰ろうか、と思いまわりを見渡すも適当な場所に喫茶店が見当たらない。どうしようかなぁ、なんて思っていたらフッと魔がさした。

 要のうちはもうすぐそこではないか。

 前に一度だけ届け物をしたことがある。

 私は記憶だけを頼りにして要のうちの方に歩き出した。二筋真っ直ぐ行って曲がってみるも、ここは思っていた景色と少し違った。この筋じゃなかったか、なんて気を取り直して隣の筋へ入ると、要の住んでいるマンションを見つけた。

 要の部屋は三階だった。

 確か三階の一番右端の部屋。ちゃんと覚えているのだ。

 もちろん平日のこんな時間に要はうちにはいないだろう。ちゃんと仕事に行っているはずだ。

 要の部屋のベランダには洗濯物が干しっぱなしになっていた。冷たい風に真っ白いシャツが揺れてる。要の大きなシャツ。

 会いたいなぁ、と漠然と思った。

 私はいつまでこんな甘ったるい感情を抱えて生きていくのだろう。

 あと二年、三年、下手したら五年。いや、それ以上かもしれない。でも、それでも要が私のことを好きになる保証なんて何一つも無い。時間は私に何も味方してくれない。ただ風のように、そこにあるだけだ。

 一応電話してみようかと思ったけど、直前で止めた。これではまるでストーキング行為ではないか。そんなことを思って急に恥ずかしくなったのだ。

 けっきょく喫茶店にも寄らずまっすぐ事務所に帰った。



 要から電話がかかってきたのは霧谷とスーパー銭湯の受付を済ました後だった。

「もしもし?」

「あ、夏子?」

 要の声だった。何故だか懐かしい。

 どこにいるのだろうか、後ろが騒がしい。

「うん。どしたん?」

「あれ、もしかしてもう帰ってる?」

 隣を見ると霧谷がにまにまと笑みを浮かべていた。口パクで「かなめさん?」って言ってくる。私はそんな霧谷を手で払いつつ頷く。

「いや、帰ってはいないけどちょっと会社の後輩と出掛けてる」

「あー、そっか」

「何?」

「いや、今林と飲んでんねん。良かったらどうかなと思って」

 林といるんだ。

「そうなんや」

「でも出掛けてるんならあかんなぁ」

「うん、ごめん。また誘ってよ」

 出掛けているいないを別にして、電話の向こうから林の「来るな」という強い電波を感じた。こういう時に無理して行くと、だいたい林は機嫌が悪かった。気持ちは分かるが。

「おう。またな」

「おう」

 切れた。

「要さん、何だったんですか?」

 霧谷は溢れんばかりの笑顔だった。

「飲んでるから来ないかって」

「断ったんですか?」

「うん」

「えー、夏子さん、全然行ってくれてよかったんですよ」

「いやだって、もう受付してるし」

「変なの。私なら絶対行っちゃいますけどねぇ」

 それもどうなんだ、霧谷よ。

 脱衣所に行って服を脱ぐ。

 霧谷とはまぁまぁなペースでこのスーパー銭湯に通っている。初めの頃はお互い裸を見られる気恥ずかしさがあったものの、最近じゃすっかり慣れてしまい、タオルで隠す前面もいい加減になっていた。

 一通り洗ってから露天で集合する。これもいつの間にかのルーティーンになっていた。

 あー、なんて言いながら裸の肩を並べる。

「でも夏子さん、なんで要さんに想いを伝えないんですか?」

「うーん」

 想いを伝える、か、告るよりはまだ親しみやすい言葉だ。

「私だったら好きになったらソッコー言っちゃうけどなぁ」

「そうもいかない場合があるのよ」

「それは付き合いの長さからですか?」

「それもある」

「変に関係崩れるの嫌ですもんねぇ」

 ほんと、その通りである。

「大学生のうちに告っとけばよかったんかなぁ」

「そしたら今頃結婚してるかも」

「私はいったい何をやっていたのだ」

「ボーイミーツガール」

「何? 意味分からん」

「間違えた。ガールミーツボーイ」

「なんでもええけどさー」

 だんだん身体が火照ってきた。でも肩より上は夜のレイキで冷たい。このギャップ、この感じが私はけっこう好きだ。

 露天風呂から室内の浴場が見える。中にはいくつかのお風呂があり、二十人くらいが一気に洗えそうな数の洗い場がある。

 女湯なので当たり前だが裸の女の人がうろうろと歩いていた。可愛い人、そうでもない人、スタイルの良い人、そうでもない人、おっぱいの大きい人、そうでもない人、陰毛が濃い人、そうでもない人。

「いろんな人がいるなぁ」

「イキナリなんですか」

 霧谷は少し驚いた様子だった。

「世間にはこんなにたくさん女の人がいる中で、わざわざ私を選ぶなんて奇跡よねー」

「何を言ってるんですか」

 そう言って霧谷は笑う。

「別にそんなに珍しいことじゃないでしょ。みんなアメーバみたいに引っ付いたり別れたりを繰り返してるんですから」

「アメーバて」

 変な言葉を使うから笑ってしまった。

「夏子さん、ちょっと疲れてますね」

「そう思う?」

「はい」

「実はそうなんよ。たまにこういう時期があんの。要、ずっと好きなんやけど、たまにちょっと疲れたなって時期があって、それでまたしばらくしたらめっちゃ好きな時期が来るっていう」

「なんか夫婦関係の周期みたいですね」

「それを一人でやってるって?」

「なんか虚しい」

「皆まで言うな」

 私は霧谷の顔に水をピューする。

 てか私、また話しすぎてしまったのではないか? なんて気づいたのはもうドライヤーで髪を乾かしていた頃だった。遅いのである。

 外に出るともう二十二時過ぎだった。

 駅に向かって歩き出す。

「ね、夏子さん。このまま北浜まで歩きません?」

「えー、寒いよ」

「ちゃんと髪乾かしたから大丈夫ですよ」

「まぁまぁ距離あるよ」

「いいじゃないですかたまには」

 それでけっきょく北浜まで歩くことになった。地下鉄の駅にして三駅分の距離だ。

 歩き出すと息は白く、寒いのだが不思議と悪い気はしなかった。天神橋筋は車が疎らで、時間的に居酒屋はまだ繁盛していた。夜の街、見渡す限り北浜まで歩こうなんて考えているのは多分私達くらいだ。

 特別何かを話すでもなく歩いた。

「いつも幸せすぎたのにー、気づかない二人だったー♪」

 南森町の交差点あたりで急に霧谷が歌い出した。

「なんなんよ」

 私は笑った。

「この歌知ってます?」

「知ってる」

「悪いのは僕の方さー、君じゃない♪」

 霧谷は歌って、そして大きな溜息をついた。

「合コン行った?」

「夏子さんが来てくれないから行ってない」

 私は苦笑いをしてタバコに火をつける。

「てか私、やっぱりちょっと引きずってるんですよね」

「そっか」

「一人でうちにいる時とか、彼のこと思い出しちゃって」

「うん」

「好きだったんですよぉ」

 そう言って霧谷が涙ぐむから私はそっと頭を撫でてやった。霧谷は、多分これが言いたくて北浜まで歩こうなんて言ったんだろう。

 本気で恋をして敗れたあと。

 それで私は思った。

 私は、こういう一切合切から逃げているんだなぁ、と。

 このままいけば、例え何年経ったとしても私がこんなふうに傷つくことは無いのではないか。男女の関係。女は男に求め過ぎてしまうし、男は女に求め過ぎてしまう。でもそれがなかったら実はすっごく楽な関係なのだ。だから要はずっと私といてくれているのではないかと思う。

 もちろん私はそれで良いとは思っていない。どちらかが恋をした時点でその関係は成り立たなくなる。そんなことくらい分かっている。でも、安全な避難場所であるのも事実だ。

 霧谷は、勇敢だ。安全な場所から飛び出して敵地へ突っ込んで行く。私や林とは違う。例え撃沈したとしても、そういう人間は幸せになるべきだと、私は思う。

「幸せになりたいですね」

 霧谷は俯いてそう言った。

「うん」

「ただひたすら、幸せになりたい」

 私はもう何も言わなかった。

 薄暗い街灯を辿って歩道を歩き続けていると、気が付いたら橋が見えてきた。難波橋だ。あれを渡るともう北浜の駅がある。

「意外と近かったですね」

 携帯の時計を見るとまだ歩き出して三十分くらいだった。

「そやね。いい運動になったわ」

 それで二人、橋を渡る。

「向こうの川岸の喫茶店、けっこう流行ってるらしいですよ」

「へぇ。行ったことないわ」

「リバーサイドテラス的な」

「そんな綺麗な川ちゃうけどな」

 笑う。

「確かに」

 なんて話して歩いていたら、霧谷が急に「あっ」と驚いた顔をした。

「何?」

「夏子さん、あの人」

 霧谷の視線の先を見ると橋の反対側から二人の人影がこちらに歩いて来るのが見えた。

 それで私も「あっ」ってなった。

「くりんくりんの人」

 林だった。

 橋の反対側から林が歩いてくる。すぐに林も私に気づいた。

「夏子さん」

「偶然ですな」

 林の隣にいるのは要ではなかった。林よりもずっと背の低い男の子。私の知らない人だった。要と別れて別の友達と合流したのだろうか。

「天六から歩いてきたの」

 要は? とか聞かない。

「歩き過ぎでしょ」

 林は笑う。

「林はどこまで行くの?」

「京阪で渡辺橋まで行くとこ」

「そっか」

「気をつけて」

 それで手を振ってすれ違って行く。すれ違う時、一緒にいた背の低い男の子と目が合ってお互い軽く会釈した。

「ほら、やっぱりカッコいいじゃないですか」

 そう言って霧谷は私の腕をツンツンしてくる。

「そう?」

「そうですよ。背も高いし」

「背は高いけど」

 あいつは男が好きなのよ、とはよう言えなかった。

「紹介してくれてもいいのにー」

 霧谷は少しふくれる。

「また今度ね」

 それで北浜から地下鉄で帰った。

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