7

 二日目、早朝。

「この扉を開けてもらう」

 悠は廃ビルの三階の事務所に着くや否や、本棚を指差した。

「扉って、本棚じゃないか」

「あれは元々此処にあった物だよな?」

 悠は木でできた大きな本棚の右横へ行き、何をするのかと思いきや、本棚をそこから押し始める。ずずずと引きずる音を立てて、後ろの壁が見えてくる。

 少し奥行きのある空洞が現れ、やがて出てきたのは……。

「……扉」

 木製でできた扉がそこにあった。入り口とは違って傷は全くなく、取っては金色で少し曲がったデザインのものだ。

「こんなものがあったのか」

「知らなかった?」

「元々置いてある物をわざわざ移動させないからな。それで、何故俺がこれを開けなけりゃならないんだ?」

「この中に……君の両親が待っている」

 悠の言葉が理解できず、眼を大きく見開いて曜は悠の顔を見つめる。

 悠はいつも通りの表情で、曜を優しく見ている。

 空は徐々に明るみを取り戻してゆき、朝をもうすぐ迎えようとしている。

 そんな弱い明るさは廃墟を照らすのに十分で、互いの表情。未だ雨水の滴る服。灰色の壁。窓の形に切り取られた少し明るみの帯びた景色。ペン立てや厚い本が置かれた横幅の長い木製の机。そして、動かされた木製の大きな本棚とその後ろにある木製の扉。光が闇から色を取り戻し、目で確認できるようになった。

「……いるのか?」

 曜は恐る恐る訊き、悠は頷く。

 ポケットから灰色の袋を取り出して、自身の顔の前で軽く揺らしながら言う。

「この扉の部屋には今俺が持っている霊氛粉とは、またタイプが違う霊氛粉を大量に撒いている。まあ、よく見ないと見えない位だけどね。そのおかげでこの部屋にいる霊は一定時間だけ実体化する。実体化した君の両親は眼に見えて、触れる事ができ、そして、話す事が出来る」

 悠は当たり前のように、そして何時ものように説明した。一方の曜はというと、しばらく放心した後、左手で額を押さえて誰にも聞こえないくらいの声で何かを呟いている。大体何を言いたいのかは悠には簡単に予想できた。

 信じられない。それを何度も繰り返している。

「霊と逢う為に創られた部屋……再逢さいほうの間。はそう呼んでいる」

 悠がそう言った時、曜は何かが引っ掛かり、おもむろに訊いた。

「……僕って?」

 悠はあっと声を出して珍しい程に動揺した。しばらくの間沈黙した後、渋々口を開ける。

「……これが素だよ。『俺』は上っ面だけの仮面。本性を見せれば……これさ」

 言った後、悠は恥ずかしそうな顔をして、頭を掻きながら少し照れる。

 曜はぽかんと口を開けて悠を見ている。そしてぷっと吹き出してから、二人が出会ったときとは逆で、曜は大笑いした。

 一方の悠はというと、大笑いされたのを怒る事もなく、首を横にゆっくりと曲げ、不思議そうに首を傾げる。

「やっぱりおかしい?」

「おかしいね。謎だらけだよ、お前は。俺に言っていいのか? 隠しておきたい事だろ?」

「ああそうだな。君には話してもいい。そう感じたんだ。……不思議な事もあるよなぁ」

 どこか寂しそうで複雑な表情をし、遠い眼で窓を見る悠。曜も外を見てみる。

 晴れた青々とした空が建物と建物の僅かな隙間から見え、既に町は、朝を迎えた事がわかった。

「扉を開け。新しい希望を見る為に」

 強い口調で悠は言った。曜は最初戸惑いを見せたが、少ししてからゆっくりと扉へと歩を進める。

 取っ手に手を掛けたところでしばらく硬直した。躊躇っているのだろうか。

 曜は黙って悠の方に顔を向ける。

 悠は真顔で曜を眺めている。何も言わない。最後の決意は曜に任せるようだ。

 曜は掴んだノブを少し見つめ、いよいよ決意をしたのか、少し力を込めてゆっくりと扉を押し開けた。

 丁度邪魔をする建物は無いようで、窓からたくさんの日の光が部屋を包んでいる。

 部屋に物はほとんどなく、端には木製の背もたれと座る部分に赤い刺繍の施された椅子が数席置いてあった。

 だが部屋の状態、それは特殊問題ではない。いや、問題にしてはいけない。

 目の前に『死んだ両親』がいるのに、いちいち今日まで知らなかった部屋の事なんて気にする方がおかしい。曜はそう思った。

 父の栄治は横の髪を少しカールさせ、それ以外はきっちりと整えている。銀のフレームの眼鏡を掛け、眼は優しく曜の方を向いていて、表情は女性がどきっとするような微笑みを見せている。

 曜から見て右隣りには、母の遥がいた。セミロングの髪にはウェーブがかかっていて、ほんの少し細い目をして、栄治と同じように微笑んでいる。

 二人とも最後に見た時と、何も変わっていない。

 父は白いタキシード。母は白いドレスを着ていて、目立つ格好だが、曜にはもう何も見えていなかった。

 口を開く程の力が出ない。仮に出たとしても何を言えばいいのかまるで思いつかない。

 それ程衝撃が大きい。

 逢えない筈の人が今目の前で、立って、笑って、此方を見て、そんな日常にある有り触れた風景。だが自分にとって、実際に現実ではありえない、いや、『あってはならない』出来事が曜の目には確かに映り、そして数秒後、涙が堪えられずに止め処無く零れた。

「お前の泣く姿。小学校以来初めて見たぞ」

 栄治は首を少し傾げ、眼を閉じて笑って見せる。生前の栄治と全く変わらない。

 やっぱり……父さん……。

 本当に涙が止まらなくなり、目の前が霞む。慌てて右手で両目を覆う。肩がふるふると小刻みに震え、何とか涙を堪えようと努力した。

 そんな事をしていると、左肩をぽんと叩かれる。涙は未だ止まらなく格好悪いと思ったが、両目から右手を放し、ゆっくりと顔を上げる。

 遥が水色でフリルの飾縁のあるハンカチを僕に差し出していた。まるで慈母のような神々しさが、普段は微塵も感じなかった母親から曜は感じた。

 曜はハンカチを受け取り、両目に強く押さえつける。じんわりと涙がハンカチに吸収されていくのが、感触でわかった。

 少し落ち着いた曜は、ハンカチを放して、改めて二人を見る。

「本当に、逢えてよかったと思うよ」

 声が震えているのがとても恥ずかしく感じた。

 二人は黙って曜の方へ向き直り、二度と抱き締められないと思っていた息子を、力強く抱き締める。

 曜は二人の体温を感じて、同時に両親も、息子の温かさを改めて知った。

 窓から太陽の光が入ってくる。朝日が三人の抱き締め合った姿を照らし、曜と両親の三人分の影を作った。

 やがて両親は手を放し、遥は曜に顔を向ける。

「曜。私達は幸せだったわ。こんな良い息子を持てて、本当に誇りに思った。でももう私達はあなたの傍にいられないの。一人で生きる事は確かに辛い。でも、何時か来る別れが、少し早く来てしまっただけ。それにね。この世には沢山の人で溢れかえってる。孤独は人と居ることで和らぐと私は思うわ。だから、最後まで、生きれるところまで生きて、すっきりしたら私達のところに来なさい」

 強い口調で、そう言われた。そして栄治からも曜に言う。

「自殺なんて馬鹿な考えは止めろ。当たり前でも、誰もが理解しているようで理解していないからな。生きているという事は、これから幾度となく起こる、辛い事を受け入れるという事。それを受け入れれば、人は成長できる。曜。お前は生きろ。私達が死んだ事を受け入れ、忘れるな。その決意は人を、お前を強くする筈だ」

 真剣な口調で、父は息子に生きる事を教えた。最初で最後の、父からの教えである。

 曜はゆっくりと決意を胸にしながら頷いた。大きく開いたその目に、もう自殺願望はなかった。

 栄治と遥は、今まで息子に言うことの無い台詞に照れながらも、にっこり笑って頷く。

 それから曜の眼に映りこんだのは、両親を取り囲んで輝く光だった。

「ごめんね。時間が来ちゃった。だからあんなことしか言えなかった」

「でも、僕らにとって臭い台詞だからね。こんな時にしか言えないことさ」

 この光……。

 曜の記憶がフラッシュバックする。

 悠と逢った時の、あの老人が空へ昇っていく時と、全く同じ。曜は慌てた。

「ちょ、待ってくれ! まだ足りないんだ! 俺が話したい事、まだ沢山残ってるんだ!」

 曜は必死に叫んだ。それを見て遥は首を横に振る。

「もう行かなきゃ。大丈夫。あなたがこっちに来た時に、目一杯話してくれればいい」

「でも……!」

「見守っているよ。二人でお前の素晴らしい成長を」

 曜が何か言おうとした瞬間、栄治に遮られてしまった。もうこれ以上言っても二人は止められない。そう悟った曜はもう言葉を発するのを止めた。

 二人を包む光はやがて、子供が人形を持ち上げるように、軽々と宙に浮く。そしてそのままあの時の老人のように、天井をすり抜けて消えていった。

 別れの挨拶が言えなかった。黙って二人を見ていたままだった曜は後悔した後、二人に届くかどうかはわからないが、消えた二人に向けて思いっきり叫んだ。

「ああ、生きてやる! 父さんより母さんより、ずっと生きてやる! それが……俺の一つの決意だ!」

 びりびりとした振動が部屋の壁を跳ね返っては跳ね返り、部屋中に曜の声が乱反射する。

 曜の決意の言葉を部屋の扉の横の壁に寄りかかりながら聞いた悠は、口元に笑みを浮かべ、満足したように一人で頷いた。手にはもう包帯は無く、傷も完治していた。

 扉を開けて何時もの隠れ家の部屋に戻る。すぐ横に悠がいたので少し驚いたが、間髪入れずに訊く。

「どうやって両親の居場所を突き止めた?」

 悠は黙って頭だけ曜の方に向ける。無表情の顔からは、どんな感情が込められているのか。曜にはわからなかった。

「ずっと君に憑いてたんだ」

「……は?」

「と言っても、背後霊とか、身体自体に取り憑くように、密着した状態じゃなかったね。遠くから眺めてる感じだ。最初に気付いたのは、曜が雨の中外を走り回った時。曜と話している時、遠く後ろで誰かが見ていた。よーく目を凝らすと男女二人の霊だった。直感的にわかったね。君の両親だと。もし曜の両親を見つけたら、僕が久遠に合図して、事情を話してもらって此処に連れて来てもらう事になってたんだ」

「……大体はわかったけど、『久遠』って?」

 悠はまたしまったと顔をしかめる。二度目だが、普段見せない顔なので少し曜は戸惑う。少ししてから、渋々悠は答える。

「うちの唯一の従業員さ。何時も手伝ってもらってる」

「そうか……」

 曜もそれ以上追及はしなかった。訊かれたくないことなのだろう。少なくとも今は。それに、しても無駄だろうし、困らすだけだと思った。悠は軽く咳払いをする。

「話を戻そうか。高階社長の遺体を発見する前、エレベーターが止まったよな。あれも曜の両親のおかげだよ」

「えっ!」

 驚いた。あれも関係してたのか……。曜は唾を飲み込んで悠の次の言葉を待つ。それに応えるように悠は再開する。

「僕らが発見した時、社長は殺された直後だった。血がまだどくどく出てたからね。だから当然早野もその場にいた筈だ。人を殺した人の心理は、通常なら早く逃げたいだろう? 早野も例外じゃない。しかし突然エレベーターが止まってしまった」

 此処まで言われて曜の顔から血の気が引く。恐る恐る悠に訊いてみる。

「もしかして……停電になってから最後に聞いたドアを強く叩く音……」

「早野が叩いたのさ。突然エレベーターが使えなくなって怒りをドアにぶつけたんだね。でも開かなくてよかったな。もし開いてたら今頃僕達はこんな風に喋ってられなかった」

 それ以上悠は説明しなかった。曜も説明されなくてもわかった。

 もし早野と鉢合わせしてしまったら、証拠を消すために二人は殺されていただろう。既に二人が情報を取りに来るのはわかっていた筈で、タイミングも悪かった。

 背中が凍るような冷たさを感じている曜は、微塵も動揺していない、それどころか薄らと笑みを浮かべている悠を、少し不審そうに見つめる。

 一方の悠は、そんな曜の目に気付いてはいたが、あえて気付かない振りをした。

 曜は悠から眼を離し、尻ポケットに入れたままの携帯を取り出して、時刻を確認する。

「七時十八分……。道理で眠い訳だ」

「曜」

 突然呼ばれたがもう慣れたのか、平然と携帯のディスプレイ画面から顔を上げた。

「何?」

 悠はまた真顔に戻っている。しばらく黙ってから、強い口調でこう訊いた。

「心は洗われたかい?」

 少し前にされた質問。曜は少し微笑んで答える。

「全然だ。でも、これでいい。たとえ泥で汚れてても、洗い流すことは出来ない。泥も俺の人生の一部だからな」

「そうか、ならいいさ」

 曜は出口へと向かって歩き出す。以前の死刑台へと続く道を歩くような足取りではなく、まっすぐ自分の思った道を歩くような足取りで歩き出す。

 外へと続くドアの前で、曜はピタリと足を止め、振り返って悠に訊く。

「依頼料どうする。正直言って、金額によっては払えるかどうかはわからない」

「構わない。後々別の形で受け取る」

 後々? 別の形? 悠の考えている事はいまいち曜にはわからなかったが、悠の言った時の微笑みを見て、まあ大丈夫だろうと勝手に思い込む事にしてその場を後にした。

 傷だらけの木製のドアの閉じる、小気味良い音を聞いた後、悠は机の上に座り、両手を組んで肘を立てて机の上に置き、組んだ足の片方をぶらぶらと宙で弄びながら眼を閉じた。

 表情は微笑んでいた。依頼を無事に終わらした事に満足したのか、曜が両親に逢えて良かったと思っているのか、はたまた別の事を考えているのか。誰にもわからない。

 ただ一つの事実は、悠は心から喜んでいるという事だけだった。

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