5
曜は走った。何処に向かっているのか自分でもわからない。
何かを求めているのか、何かから逃げ出しているのか、それとも、終わりへと向かっているのか。
誰もわからない。走っている本人もわからない。
少し前に、真上にある灰色の雲から、いくつもの水滴が降り注ぎ始めていた。
雨が降り始めていた。恐らく通り雨だろうと曜は思った。次第に強く激しくなり、曜は髪も服もびしょ濡れになった。半袖で少し寒く感じたが、それでも走るのを止めない。
傘も差さずに走る曜を、何人かの通りすがりは不審そうに見たが、曜は無視し、延々と走り続ける。やがて走り疲れた曜は立ち止まる。
人気が無く、あまり意味の無い街灯が薄暗く照らす道の真ん中に立っている曜。
彼の予想では通り雨の筈だったが、雨は止まず、依然と強さを変えなかった。
どうせ降るなら、嵐のようなもっと強い土砂降りにしてほしかったと曜は思う。
現実の雨も、曜の心の雨も止まない。
暗い上に雨の降る視界の悪い景色を、ぼーっと眺める。道には車どころか、人っ子一人通らなかった。
「心は洗われたかい?」
後ろから聞き覚えのある声がした。慌てて曜は振り返る。悠が立っていた。悠も傘を差さず、雨粒の広範囲の落下地点に身を晒している為、全身が濡れている。
曜は悠の蒼い目から目線を逸らす。悠は曜の後ろの道の遠くを見る。しばらく見てから悠は、右手を下ろした状態で指をぱっぱと動かす。やがて手の動きを止めた悠は、曜の顔に視線を戻す。曜は悠の指の動きに気付いていないようで、そのまま質問に答える。
「さあ。お前の顔を見て、泥にでも塗れた気分になったけど」
「死ぬ気じゃなかったのかい?」
曜は目線を戻し、悠をきっと睨みつける。
悠は真顔で曜の眼を見つめ返す。
二人はそのまま静止し、雨に打たれつつ睨み合っていた。
周りの音は、雨がアスファルトを叩く音しか聞こえない。
誰もいない道。たった二人の世界。これが異性同士だったのならさぞドラマチックだったことだろう。しかし、今の二人の間には、重苦しい空気しかない。
「俺が死にたいと言ったら殺すのか?」
「君は霊になりたいの?」
「ああ、なりたいね」
曜は真顔で答える。悠はすうっと眼を細めた。
「死は怖いかい?」
「解放されると思えば怖くない」
「解放……か……」
悠は目線を曜から変えて、右斜め上に顔を向けて、ただ水滴を作る雲しかない空を見上げる。曜は何故かわからないが、理由もなく悠と同じ方向を見上げてみた。
やっぱり何もない。空は雨雲だけで構成され、そこから創られ降ってくる水が、時々目に直接入って、二人は何度も瞬きをした。
「何に解放される?」
悠は顔を元に戻し訊く。曜もゆっくりと悠に目線を戻す。眼を少し驚いたように見開いて。
「え?」
「何に解放されたい?」
「いや……」
「君が死ぬ目的は、両親に逢う為?」
「…………」
「そこまで死にたいなら死ねばいい。それで両親の元に行って、殴られてこい」
悠は真顔で言った。
「死ぬというのは、己の全てを無くすという事だ。魂が身体から出てって、今までの人生も、これからあったであろう人生も、全てそこに置いてきてしまう。もし自殺するというのなら、己の全てを捨てるということ。つまり、己を否定するのと同じだ。お前は自分を否定して、自分を産んで育ててくれた両親をも否定するのか?」
曜は何も言えずに顔を下に向けた。生きる事に絶望を感じているのに、死ぬ事で自分の両親を傷つけ、否定する事になってしまう。では、自分はどうすればいいのか? 全くわからない。生きるのなら何の為に生き、死ぬのなら何の為に死ぬのか? 曜は縋るための理由を見失ってしまった。
「ごめん。死を否定したいわけじゃないんだ。でも君の望む死は、駄目だと思う」
「なら教えてくれ。俺はどうするべきだ?」
悠は答えない。それは当然の事であり、曜もわかっていた事である。曜は小さな溜め息を吐く。ただでさえ雨が服を重くしているのに、さらに肩も重くなってしまった。
「一つ、訊きたい事がある」
おもむろに悠が言いだす。曜は急に訊かれて戸惑い、結局口を閉ざしたままだ。
悠はそれを、訊いても良いという意味と、勝手に判断した。
「お前の親父さんの友人、知ってる?」
「何でそんな事を」
「答えて」
曜は再び沈黙し、しばらくしてから答える。
「知らない」
悠は頷いた。大体予想していた答えだったようだ。それから悠は曜に何かを話し始めた。曜が目を見開き、悠に声を発する。そのやり取り全てが、雨がアスファルトを叩く音で周りには全く聞こえずに、声は闇へ旅立っていく。
それから二人は頷きあい、同時に水の溜まった地面を蹴り出す。ばしゃばしゃと水しぶきを上げ、未だ降り止まぬ雨を浴びながら走っていった。
それまで悠と曜が話していた場所の近くで、暗い所では目立たない黒いベンツがエンジン音を上げ、ライトが点けられる。
暗い雨の道を走る二人。そこに後ろからエンジン音が微かに聞こえた。
「聞こえるか?」
息を荒げながら曜は悠に問う。悠も少し荒い声で答える。
「ああ。嫌な予感だけしかしない」
徐々にエンジン音は大きくなる。そして強いライトの光が二人を照らし出す。
二人は後ろを振り返る。それと同時にベンツのエンジンが一気に唸りを上げる。
運転手は一気にアクセルを踏んだのだろう。二人の近くに来た途端、スピードが一気に上昇した。
二人はぎりぎりのところで曜は左、悠は右に飛び退く。間一髪でベンツの車体をかわした。
そのままのスピードで走り去って行ったベンツの後ろを見ながら、悠は動揺もせずに言う。
「狙ってたね」
「……得があるのか? 俺らが死んで」
「あいつにとっては得なんじゃないかな?」
曜の質問にのらりくらりと答える悠。
やがて二人は考えるのを止め、再び目的地へと走り出す。
二人がいた道には、闇と静寂だけが残存(ざんぞん)した。
悠の目的の場所に着いた時には、二人は既に息切れし、呼吸が乱れていた。
雫が二人の髪や顎から滴り落ちる。
外ではまだ雨は降っているようだ。二人のいるとある地下駐車場にも微かに雨音が聞こえる。
とてつもなく広く、薄暗い灰色のコンクリートと様々な色と形をした車しか眼に入らない、何の特徴もない地下駐車場だ。
二人は地下駐車場をぐるぐる当ての無いように歩き回っている。
やがてある場所が悠の眼に留まる。
駐車場所のナンバーはC―5。そこには黒いベンツが駐車されていた。
曜はベンツを睨みつけながら訊く。
「悠。これは俺らを……」
「ちょっと待って。調べる事がある」
そう言って曜の言葉を遮り、ポケットから残り少ない霊氛粉を取り出す。そして粉を止めてあるベンツの近くに振り掛ける。
ベンツの丁度真後ろ、トランクの近くの床が光り出す。
「これって……」
曜は黙って手形の青い光を見つめる。そして、すでに完治した右手の人差し指を額に当て、ゆっくりと目を閉じる。そして曜の方を見ずに言った。
「上に行こう」
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