2

 曜はむすっとした顔で、目の前の白いタイルを眺め続けていた。

 その隣で悠はにこやかに適当な鼻歌を歌っていた。

 正反対な彼ら二人に、今共通していることは、一糸纏わぬ姿で湯に浸かり、頭には冷水で冷やし、折り畳んだタオルを乗せていることだ。

「なんで此処にいるんだ?」

 曜の質問に、悠は知らん顔で鼻歌を続ける。

「な・ん・で・こ・こ・に・い・る・ん・だ?」

 一言一言区切って強調。それに対し悠の反応は、

「俺の口調の真似かい?」

「てめえみたいなわけわからねえ話し方の真似なんざするか!」

 曜の声が壁中に乱反射して、悠の鼓膜を襲う。

 黎明と別れ、邂逅町にある銭湯に、閉店一時間前のほとんど人のいない時間を狙ってやってきた二人。

 悠の急な提案で、ほぼ無理やりと言っていいほど強引に連れてきたのだった。

 浴槽は三つに分けられていて、一つはぬるめで効能のある湯。一つは熱めでジェットマッサージなどのある湯。それから最後に水風呂だ。二人はその中の熱めの湯に、悠は縁に腕を置き、片肘かたひじを突いて頬杖を。曜は縁に背をもたれ掛けている。

「裸の、付、き、合、い。というじゃないか。しんぼく、には、ヌードが一番だ」

「聞きようによっては最悪の言葉だな」

「あれ、気付かなかった? 今のはムードとヌードを掛けた洒落だったんだけど」

「知るか、気付くか、興味ねぇ」

「堅物だねぇ。こ、こ、は、笑うとこ」

「生憎、低レベルのネタに笑えるほど、俺は知性は低くない」

「そういう問題じゃあないんだけどね」

 悠の口調が変わる。真面目モードへ突入。

「多少のリフレッシュは必要だよ。俺達の状況は、極めて芳しくない」

 どこかで水滴の垂れる音。

「君の両親に関する情報は少ない。まだ現世うつしよにいることは間違いないのだけれど、何処へ行って何をしているのかを限定するまでには至らない」

「訊きたいんだが。その言い方をするってことは、常世とこよは存在するのか?」

「意外とそっち系の知識もあるんだね」

「お前のせいで、昔の嫌な記憶が蘇っただけだ。深くは訊くなよ。訊いた瞬間お前を湯船に沈める」

「こ、こ、が、温、泉、だったら。肌も艶々になった、だ、ろ、う、ね。……そうだな。ついでに、ここでいくらか説明したほうがいいか」

 悠は頭に乗っけたタオルで顔を拭いた。

「まず現世は俺達のいるこの現実世界。これはまあ、詳しい説明は無用だよね? 次に常世は死者の逝く世界のこと。これも言葉を知ってたから、多少の知識はあるんだろう?」

幽世かくりよとも呼ばれ、日本神話や古神道こしんとう神道しんとうの重要な二律する世界観の一方、だっけか」

「そう。で、ここからが問題。霊は向こうへ逝く前に、幾つかの権利を得る」

「権利だって?」

「まずは現世滞在の権利。基本的には期限付きでだけど。家族の様子を見守りたいとか、生前の心配事の確認とかの理由で、現世に残るパターンが多い。さらに、それらとは一線を画すアウトサイドな理由として、怨恨とかの強い恨みによって現世に留まるってパターン。これはテレビとかでよくやる心霊現象だとか呪いだとかの原因の一つとなる。これらによって守護霊になったり、地縛霊になったりと、霊の性質に変化がもたらされたりするわけ」

「性質が変わらずに、始めに言った期限ってのを過ぎるとどうなる?」

「一定の期間が過ぎれば、前者は強制的に常世に連れてかれる。たまに拒んで逃れようとする人もいるんだけど、そうなると魂自体がどちらの世界からも消える。基本、霊ってのは長期的に現世に居続けることは不可能なんだ。水は器が無ければ、形も何もかもが崩れてしまうだろ? それと同じ。魂の形を保持する肉体が無ければ、その魂は徐々に崩れ、その人の全てが消える」

「でも、例外がある。そうなんだろ?」

 湿ってぺたっと顔に張り付いた髪を掻き上げる曜。

 悠はにっと笑って、ばしゃっと曜に水を掛けた。

「その通り。後者の場合は、例えば誰かに恨みを持ってて、その人が今もなお生きている。そうした状況で、その魂は死してもなお恨みを持ち続けていくこととなる。その強い感情が、肉体の代わりとなって魂の形を形成しだす。憎しみだけじゃない。愛情、哀惜あいせきなんかの、とにかく強い感情が、現世に根を張ってゆく。まあ大抵の人は死んだという事実への悲観が強かったりするから、さほど強い結び付きを作れない。だから無理に現世へ残ろうとすると、消えてしまうってわけだ。逆に、それ以上の思いや感情があれば、より長い間、魂は現世に残ることができるということ」

 要するに、気の持ちようってことか。曜は納得して頷いた。

 と、その時、くらっと一瞬曜の目の前が揺れた。のぼせるぎりぎり手前。ひとまず上がろう。そう思い、じゃばっと水飛沫をあげ、湯船から立つ曜。

「大丈夫かい」

「平気だ。続けてくれ。その他の権利は?」

 ひたひたと洗い場へ移動する曜の背中を見ながら、悠は湯の中で腕を組む。そして、呟くように言った。

「行動制限の解除」

「? なんだよそれ」

「簡単に言えば、死んだので何やっても許されますよーって権利のこと」

 思わず曜は滑って、一面真っ白なつるつる滑る床へ尻餅を突いた。裸の尻に直接の衝撃。のぼせかけのこともあり、曜の視界はますます地震状態へ。

「馬鹿な話を言い出すな! 生前に善行を行っていても、死後に罪を犯したら意味ねぇだろ!」

「いわゆる、天国と地獄か。そんなものがあると思うのかい?」

「何?」

 打ったところを押さえながら、曜は立つ。

「俺は常世と言っただけで、天国と地獄、

「どういう意味だよ」

「常世の世界に行くという意味を、まず理解してもらわないとね。実際の死後の世界って、天国と地獄っていう区分ではなくて、常世の世界一つに、現世の居残り組を除いた、ほとんどの霊が集まる。そこで霊達は、新たな生活を始めるってわけ」

「………………………………は?」

「簡単に言えば、人生とは現世と常世、二つの世界でそれぞれ一度楽しめるものだということだね」

「ちょっと待て!」

 さすがにこの話題は止めなくてはならない。そう曜は思った。

 常識の破壊。悠の話題は凶器へと変わる。

 今までそうだと信じて疑わなかった幻想を、証明できる人間が『違う』と一蹴してしまう。

 それがどれほどひどい混乱をもたらすのか、悠はまるで理解していない。

 しかし、悠は止まらなかった。

「いや、これからの話を理解する上での、言わば下敷きなんだ。これを君は理解し、受けいれなければならないよ」

 そう言って一拍置き、悠は続けた。

「現世で過ごす期間と常世で過ごす期間。この二つはそれぞれ生きる……いや、常世の場合で生きるはおかしいと思うけど、気にしないでくれ。二つはそれぞれ生きるという意味合いが変わっているんだ。現世では世界のエントリー。常世では輪廻の準備。こう分けられる」

「今度は輪廻転生かよ。話題は尽きねぇな」

「宗教の話ほど、最古の歴史はあまり無いからね。常世での生活は基本、現世と変わらない。あっちでも働いて、食べて、寝て。生前と全く同じ生活を送ることになる。そして、そっちでの行動が、そのまま査定の得点となる」

 査定? その言葉に、妙に現実味が湧き始めた。曜はケロリンと底に書かれた桶に、お湯を溜める。悠は浴槽についている蛇口を回し、その冷水で顔を洗う。

「ぷぁ。それで、例えば真面目に働いたり、誰かを助けたりすると加点。罪を犯したりすれば、減点。そのポイントの数に応じて、輪廻に差が出る」

「あの世でも偏差値教育が流行ってんのか?」

 冗談めかして曜が言うも、取り合わずに悠は続ける。

「アカシックレコードを決定づけられるのさ」

「アカシックレコード?」

「そう。人類の魂の活動の記録の概念と言われるもの。要するに、その魂が今までしてきた行動をすべて記録したものってわけだ。俺は普段、レコードって略して呼んでるけど」

「それが、その査定と何の関係が出てくるってんだよ?」

。常世は魂が生きる世界。そこで生きた記録が、そのままレコードに記録される。そしてその魂が輪廻し、地上へ肉体を持って新たな性を授かる時、その瞬間から、未来は約束される」

「…………まさか」

 シャワーを浴びながら聞いていた曜は、はっとして悠へ顔を向ける。

 湯船の中で、悠は真顔になっていた。

「そう。つまり、常世で生きた一生が、現世での一生にも影響される。常世で善行を働けば、現世でもある程度の優遇が。悪事を働けば、ある程度の苦行が待っている。まあ、逆に良い事してもつらい人生が待っているかもしれないし、悪事働いてなおかつ、幸せに暮らせる可能性だってあるし、そういった振れ幅もあるんだけれど。そして、輪廻した時、当然常世での生活の記憶は消え、生まれた瞬間、レコード以外の、全ての情報、性格、容姿などがリセットされる。そうなれば当然、性格も容姿も、何もかもにレコードの記録が影響を及ぼす。常世で遊んで暮していれば遊び好きに、みたいな具合で成長を果たす。でも、あくまでもこれはわかりやすく説明するための例で、そうそう単純じゃないし、さっきの振れ幅みたいに、こういったものに完璧なんてないから、例外も星の数ほどあるけれど」

「…………」

「簡潔に言えば、常世での行動を記録したレコードを、輪廻の時に背負わされ、現世に生まれる。そして、多くも少なくも、レコードに人生が影響されながら生きることになる。そして、現世で死んだ後、また常世へ行って、レコードをリセット。そして常世での生活を再び始める。人生っていうのは、この繰り返しなんだよ」

 絶句。返す皮肉も、問い詰める疑問も、拒絶の否定も、曜の言葉から出てこなかった。曜は目の前の鏡を見つめる。髪から水をしたたらせながら、戸惑いの表情が張り付いていた。

 ばしゃっと水音がする。どうやら悠も湯船からあがったらしい。ひたひたと水気のある足音が近付き、曜の隣の洗い場に座った。

「さて、こ、こ、で、クイズだ」

「……なんだよ?」

 曜は横に顔を向ける。にこっと微笑む悠が見つめ返している。

「この無限ループの中で、唯一レコードの影響を受けない期間がある。それは何時いつだと思う?」

 レコードの影響を受けない期間?

 常世ではないのか? いや、常世ではそこでの生活を記録するという意味では、充分に影響を受けていると言える。

 では、何時のことを言うのだろうか。悠の話から考えれば、常世でも現世でも、共にレコードの影響下にあるはずだ。まさか、ここにきて悠が更に第三の世界があるとは言い出さないだろう。そんなことになれば、もはやこの世界の常識は、何でもありになってしまう。

「本来は存在してはならない場所にいることで、その影響が看過されるんだよ」

 悠は悩む曜に、ヒントを出す。

 本来は存在してはならない場所にいる?

 そのまま言葉の意味で考えるなら、現世の人間が常世に。常世の人間が現世にいるという意味になる。

 常世の人間が現世に存在。曜ははっと気付いて、思ったことを口にしてみる。

「現世で死んで、霊になった時に現世に滞在している期間か?」

「せーいーかーい」

 悠はぱちぱちと軽く両手を叩いた。

「これがさっきの答えだ。霊は現世で存在する以上、なんでもありの存在になる」

 悠は真顔で言う。飄々とした態度と打って変わったその様子は、曜を信じさせるには充分な要素であった。まるでありえない話を大真面目に話されても、ここまで信用できる話ではない。それはひとえに、曜が見たあの霊の光景と、悠が説明、捕捉し、霊の存在を証明してしまったことにあった。そのどれか一つが欠けていれば、曜は彼の話の全てを拒絶していただろう。


「さて、その他諸々の設定はまた今度だ」

「設定言うな設定って」

 ズボンだけをはいて包帯の巻かれた右手で掴んだ牛乳を飲んでいる悠を、曜は後ろから叩こうとしたが、タイミング良く飲み干して首を戻すと、悠はまたもいとも簡単に掌を避ける。

「どんな反射神経してんだお前は」

「運が良いだけさ」

 ふんと鼻を鳴らして、曜は腰に巻いたバスタオルを取っ払い、服を着始める。

「お前に神がついているのなら、そのご利益を分け与えてくれよ」

「残念。俺につ、い、て、い、る、の、は、死神とか、そういった類(た、ぐ、い、)だ、よ」

 着替え終わった曜は、相変わらずの口調の悠の座った着替え置き場の大きな椅子に、お互いが背中合わせになるように座った。

「なあ。まだ質問は受け付けてるか」

「答えられることであれば」

 悠の軽い口に、噛み付くように曜は疑問を投げつける。

「なんで黎明を巻き込んだ?」

 悠は何のためらいもなく黎明に事情を説明した。それがどうにも腑に落ちなかった。何故ここにきて無関係の人物を巻き込む必要があるのか、いまいちわからなかったのだ。

「その前に、僕からも一つ良い?」

「……なんだよ」

 とてつもない嫌な予感しかしなかった。曜はできれば外れてほしいと願ったが、あからさまなフラグは、超高速で回収された。

「あいつさ、だろ?」

 曜は本日何度目かもわからない溜息を吐いた。どうしてこうも胸騒ぎというのは的中するのか疑問であった。

「はいはい正解だ。あの大馬鹿野郎はだ」

 光墨黎明は霊を時々見ることがあるらしい。そして、その話題は出来得る限り避けたかったが、後ろに座る少年にばれてしまえばもうどうしようもない。

「素直に話せば良いのにそんな大事なこと」

「大事かこの話は?」

「大事さ。君が、霊に関する情、報、網、を、持、って、いる、ことは、言わば、武器、なん、だから」

 そんなの知ったことかと、内心で曜は毒づく。

 曜は元々、霊の存在は全くと言って良いほど信じていなかった。小学時代に、黎明と出会って、彼から霊の話を聞かされても、ほとんど聞いてはいなかった。だが、中学に上がっても高校に上がっても未だに黎明は、霊に逢ってだらだらと喋っていた、授業中にずっと誰かに肩を掴まれていた、寝てると枕元に足だけが出ていたと、話題はどうにも尽きやしなかった。そんな長い期間霊の話を聞いていても、悠と出逢うまでは霊の存在をほどんと信じていなかった。だが、何度もそういった話を聞く内に、その手の知識だけは脳の記憶領域を侵食してゆき、先程の風呂場で悠の話に多少なりともついてゆけたというわけだった。

「どうにもあいつの話では、今回の俺の両親みたいにしっかりと姿がみえるのは少し珍しいらしくてな。基本あいつは、霊をサーモグラフィみたいな感じで存在を感じ取ってみるんだとよ」

「サーモグラフィねぇ……」

「あいつが霊が見えるとわかったから、巻き込んだのか?」

「両親を見たって情報は、おそらく彼だろうと読んだだけさ。一度みえたのなら、またみえる可能性だってある。早いうちに協力を取り付けるのはなかなか効率が良いと思うんだけど」

 曜はバスタオルを手に取り、髪を乱暴に拭き始める。

「だからといって、巻き込んでほしくなかった」

「それは君のエゴだろ」

 ぴたりと曜の動きが止まる。悠は両手を絡めて掌を天井に上げ、軽く伸びをした。

「まあ彼の方もエゴと言えばエゴだけど。彼は本気で心配してるよ。君が自殺するんじゃないかってね」

「わかってる。だからどうしようもないんだ」

「?」

「どうしようもなく……苛立つんだ」

「……気遣いに対する八つ当たりかい?」

「ずけずけといってくれて助かるよ」

 珍しく悠のあからさまな皮肉に食って掛からず、曜は頭にバスタオルが掛かったまま両手を下ろした。

「あいつは良い奴だよ。だから、今は関わってほしくない。とてつもない、理不尽な話だけど、俺はもうどうすればいいのかわからないんだよ。このままあいつの優しさに甘えればいいのか? そんな単純な話じゃないだろ。それだけで心の傷が癒せるとでも思っているのか?」

「無いよりはましだよ。優しさは良く心に沁み渡る消毒液みたいなものさ」

「だからこそだろうが。優しくされれば、ある程度は心の傷に影響はあるだろうが……それだけだ。完全な治療にはならない」

「……まだ、死を考えてるね」

 曜は無言で頭のバスタオルを取っ払った。

「本当にこんなんで見つかるのか」

 曜の声は冷え切っていた。

 事実、それが一番聞きたいことであった。

 霊だのなんだの、ありえるかありえないかだの、そんなことはもうどうでもよかった。

「本当に、逢わせてくれるんだろうな」

 縋ったものはただの藁か、それとも枝か。もはやどちらかなどわからない。

 霊に逢わせる逢わせ人。ここまで付き合わされてもなお、曜は悠を信じようとはしなかった。むしろ、もしここまでやっておいて、『できませんでした』、『嘘でした』などと言われれば、曜は間違いなく悠を殺すだろう。半殺しではない。確実な死を与えることとなる。それほど曜の感情は、心の底で高ぶりを見せていた。もはや死んだ両親と再び出逢うこと以外に、自分が救われる希望というものは存在しえないと思っているのだ。

 しかし、その一方で曜は、冷静に自分の中で渦巻く感情に別の答えを見出していた。答えは、『裏返し』だ。愛情の裏返し。それと似たような感覚だ。

 本当は、両親に逢わなくても良いのだ。何かの理由に縋りたいのだ。一時的でかつ重度の依存だ。誰かに生きる希望を与えてもらいたい。あるいは、誰かに死ぬ理由を与えてもらいたい。

 曜は自ら思考の放棄を行っていた。誰かに自分の行くべき道を、決めてもらいたかったのだ。

 曜はがっくりとうな垂れる。もはやこのままずるずると彼との契約を続けていくことに、何の光明も見いだせなくなってしまった。馬鹿みたいだ。親が死んだからあの世へ行こうとすれば、今度は勝手に胡散臭い人に頼って生き意地汚くなる。まるで自分の行動に一貫性がない。

「……はは…………は……」

「?」

「自己主張の無い糞野郎だな。俺は」

「そりゃ今さらというものだね」

「お前に俺の何がわかる」

「わからないさ」

 悠は即答して、立ち上がる。ひたひたと歩き出したかと思うと、古めかしい銭湯には不釣り合いにしか思えない最新型のデジタル体重計に乗ってみる。二人は尚も背を向けたままだ。


「言っちゃ悪いけど結局他人事だろう? 誰も君の本当の気持ちを完全に理解することは出来ないし、綺麗事を言ったところで何の解決にもならない。所詮人は、他人に干渉するなんて不可能なんだよ」


 何時か何処かで聞いた言葉。黎明と連絡していた時に言われた言葉。

 言われたくなかった。こいつにだけは、言われたくなかった。

 そう思った割に、曜の心の奥にすとんと八八文字が綺麗に収まった気がした。

 何故彼が同じ言葉を言ったのか。そんな理由などもうどうでもいい。知る気も起きない。

 これはただの引き金だ。誰も自分と同じ気持ちを味わえない。誰とも共感を得ることはできない。同情さえも出来ない。

 誰も自分を救えない。霊という幻想を用いても、結局は自身の力で何とかしなければならない。彼らの言った言葉は、極端に言えばそういうことだ。

 曜は何の気なしに笑い始めた。朗らかであって、何処か掠れている。そんな声だった。

 笑いながら曜はシャツを羽織ってボタンを留める。悠はそんな状況でも、彼に背を向けたまま動かなかった。すると笑いは止み、曜は振り返って言った。

「やっぱりお前は、救えないや」

 ひたひたと曜は出口へと歩き出した。その足取りは、最初に自殺を図った時と同じ、ふらついていて、何処に行くのかもわからない。そんな足取りだ。

 悠は今度は追いかけるどころか、一度も振り返ろうとはしなかった。代わりに、独り言を零し始める。

「ああ。確かに救えないね」

 苦笑しながら悠は言った。体重計は、五〇キロちょうどを刺していた。

「いいや。そう言う意味じゃないんだ」

 

では救えない。だから彼にとって必要な人と逢わせるのさ。それが逢わせ人の仕事なんだ」

 口調も真面目へと変貌。

「結局のところさ。僕に出来ることは逢わせることだけ。後はその人次第なんだよ。このまま死ぬことを選ぶのも、生きることを選ぶのも、自分次第でどうにでもなる。前に彼にも説明したことだけど、死んだ後に天国や地獄に行くってわけじゃない」

 誰かにそう言って悠は体重計から降りる。そして、右手の包帯を解く。傷口はもう治っていた。それどころか、傷跡の一つも残っていなかった。

 買っておいた二つ目の牛乳に口を付ける。半分ほど飲むと、瓶を自分の目の前の斜め下、悠の腰辺りに差し出す。しばらくして手を放すと、牛乳瓶が宙を浮き、誰かが牛乳を飲むかのように瓶が傾き、中の牛乳は床に落ちることなく入口で虚空へと消えていった。

「天国も地獄もあの世にあるんじゃない。この世に全てあるのさ」

 ぽたぽたと瓶から牛乳が僅かに床に零れ落ちる。

 しばらくそれを無言で見つめ、やがて悠は言った。

「零すなよ」

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