二人目 殺める人 ―または、欲へ手を伸ばし血を手に入れた者へ捧げる復讐の話―
1
こんな人生になるはずではなかった。そう曜は思った。もちろん、何もかもが幸福で、全てに満足のいく人生。そんな夢の有るような無いようなわからない人生を想像してもいなかった。
ただ、適度に満足して、適度に絶望して、そんな、ほとんどの家庭にありそうな人生を描いていた。
こんな血なまぐさい人生なんていらなかった。
紅い海に横たわる母と、首でブランコする父のいる人生なんていらなかった。
まるで赤い服が溶け出したかのように、絨毯を赤く染め続ける女性を発見する人生なんて。
「いらなかったよ」
「…………」
一階の休憩所のソファに座る悠と黎明は、唐突な曜の発言を聞く。悠たちは特に何も尋ねなかった。訊くべきではないし、言葉の真意を理解するべきでもない。そう二人は同じように思った。
社長室で、全身毒々しい赤の服を着た女性がうつ伏せに倒れている。
化粧の濃い顔は、死に対する恐怖で染められた表情になっていた。
周りには、赤い服が溶け出しているかのように紅い液体が少しずつ、確実に広がっていた。
右手にはアーミーナイフを握っていた。自ら腹部を刺したのだろうか。赤い服が少し厚めに作られている様なので、犯人がいると仮定して、返り血は期待できないだろう。
悲鳴を上げようとした曜を、悠はすぐさま抱き締め宥めた。強く抱き締められた衝撃で、叫ぶことも忘れて呆けていると、気が付いた曜はフックを叩き込もうとした。無論、抱擁を解いて避けられたが。
自我を取り戻した曜だが、それでも彼女の死の衝撃はさほど消えず、腰を軽く曲げて、自分を掻き抱くように両手で反対側の二の腕をそれぞれ掴んで、がたがた震えていた。
「歩ける?」
黎明の質問に、震えながらも曜は頷いた。
「なら廊下に出てなよー。このままこの部屋にいるのは辛いだろー。床に座っててもいいから、そこで深呼吸でもしてたらー。警察の連絡も、こっちでしておくからー」
黎明の口調はなおもおどけていたが、声は震え、鈍感な曜でも流石に強がりだとわかった。
「気にするんじゃない。一番メンタルに不安があるのは君なんだ。素直に休んでた方が良い」
悠にまで同じことを言われ、確かに曜が無理に此処にいる必要も全く無く、二人の好意に素直に甘え、曜は出ていった。
「君はどうするよ、黎明」
自分と共に残った黎明に問い掛ける。彼も曜程ではないが、真っ青な顔でじっと死体を見つめている。黎明は一呼吸おくと、左目を隠していた前髪を片手で掻き上げる。
「警察に連絡しておくよー。生憎僕は調査員には向いてないからねー」
そう言って唯一の出入り口であるドアの右側の壁にもたれ掛かり、そのままずるずると背中を壁に付けたまま、ゆっくり腰を下ろした。黎明も相当この状況に堪えたらしい。
「そうかい。それじゃ、頼むよ」
さて、と悠は呟くと、警察だけではなくこの会社の社員たちにも状況を伝えるべきと考え、デスクにある多機能電話へと向かい、電話を本体ごと手に取ろうと、手を伸ばした。冷静に曜達に言葉を交わしていたが、内心では心の余裕が無くなっていて、落ち着かなかった。だから電話本体ごともって、部屋を歩き回りながら連絡しようかと考えていたのだが、どうやらネジでデスクに直接固定されているようで、やむなく諦めた。
改めて受話器に手を伸ばすが、はっとしてポケットからハンカチを取り出した。ハンカチ越しに受話器を取り、長袖で右手を隠し、指紋が残らぬよう本体に書かれていた警備員室の番号を押す。ぱたんと後ろから音がしたので振り返ると、黎明は警察に連絡し終えたようで、ガラケーを折り畳んでふぅと一息ついていた。
およそ十分ほどで事情と場所を伝えると、今度はデスクを調べ始めた。とはいえ、手袋がない以上、うっかり指紋を残す可能性もあった為、デスクの上を少し探ったり、引き出しの中を覗き込むくらいで、さほど詳しくは調べることはできなかった。
徹底して調べられたわけではないが、高階の調べた咲間夫妻の資料は見当たらなかった。詳しく捜索して現場を荒らすわけにもいかず、二人は諦めて廊下に出て、後のことは警察に任せることにした。
廊下を慌ただしく駆けてきた警官達に、三人が高階を殺害したのかと最初は疑われたが、曜の様子と、悠と黎明の落ち着いた対応を見て、ひとまず疑いは晴れたらしい。それから三人は警官に連れられ、一階の休憩所までやってきて、今に至るというわけだ。
「とりあえず、お話いいかな?」
ばたばたと警察と事務職員が駆けずり回るBGMをよそに、不意に誰かが二人に話し掛けてきた。悠と曜は同時に声した方へ向くと、二十代前半で短い髪をし、青いフレームの眼鏡を掛け、眼のぱっちりとした若いスーツ姿の男だ。
「事情徴収担当の刑事さんですか」
「そうゆうこと。というわけで、あんなのを見て落ち着いていられないかもしれないけど、状況の説明をしてもらいたいんだ」
「わかりました」
「りょーかいです」
刑事の軽い口調に悠と黎明は頷く。曜は俯いたまま何も答えなかった。三人は対面のソファに座る。
それから数分、二人が刑事に事情を説明した。曜は終始うわの空でその様子を眺めていた。
「すると君達は犯人の姿を見ていないってことだね」
「そうですね。俺達が社長室に来た時には、すでにあの状態で」
「なるほど。…………ねえ。そっちの君は、大丈夫?」
不意に呼ばれ、我に返った曜は頷く。
「……すみません」
「いや、無理はないよ。あんな姿の人を見るなんてことになったら、誰だってそうなる。むしろ、事情を話す二人のほうが不思議だと思うよ。それなりに冷静だもの」
「まるで僕らが疑われているような言い方ですね」
「えー、僕ら容疑者ですかー?」
「い、いやいや! 別にそういうこと言ってるわけじゃないよ!」
刑事は慌てて言い繕う。曜がちらりと視線を横に向けると、悠と黎明は微笑みながら刑事の様子を見ていた。どうやら本気ではなく、からかいの言葉だったようだ。曜は二人のあまりの冷静さに、よもやどちらかが本当に犯人ではないだろうなと疑いそうになった。
「あ!」
突然素っ頓狂な声を上げる刑事。
「どうしました?」
「名前聞くの忘れてた。ごめんごめん。今更だけどお名前伺ってもいいかな? と、その前に、僕の名前は立川新一。改めてよろしくね」
立川刑事はにこにこと三人を見つめる。悠は苦笑しながら名乗った。
「泉悠です。
そう言って悠はポケットから出した財布から、白月高校の学生証を取り出した。曜と黎明は思わず悠の顔へ驚いた表情を向ける。
白月高校は、曜達の地元である邂逅町の近くの駅から三つ先の駅程に離れた町の高校だ。
どうやらさすがに警察の事情聴取で、自分の職業を『逢わせ人』というわけにはいかなかったのだろう。しかし、白月高校一年というのも、学生証に記載されている通り、本当の話だろう。やはり高校生ということは当たっていたのか。
だが、また初めの疑問に戻ってきてしまった。何故彼は高校生でありながら、こんな奇妙な仕事をしているのだろうか。曜は頭に不快なしこりを残したまま、黎明と共に自己紹介する。
「浅倉黎明でーす。
「咲間曜。同じく幽逢館高校一年です」
立川は曜の名前を聞くと、眉間にしわを寄せ、その眉間に人差し指を押し当てた。
「どうかしました?」
「もしかして、君は咲間栄治さんと遥さんの息子さん?」
『どうしてそれを』と訊こうとして、悠と曜は止めた。ニュースになる程、事件(あれ)はかなり大事になっていた。一介の刑事が知っていたとしても、特に不思議はない。
「ええ、そうです。……あの、両親のことで何か進展はありましたか?」
立川はきょろきょろ辺りを見回す。それから声のトーンを落として言った。
「実は、初動捜査の見立てが、どうやら覆りそうでさ。なんでも奇妙な点があってね」
びくりと曜は身体を震わせた。以前の悠の言葉を思い出したのだ。
『第三者は確実にいるね』
あの言葉が正しければ、誰かが曜の父を殺し、もしかすれば母をも殺したことになる。そして警察が最初に考えていた無理心中説は無くなった。では、一体何故あんなことが起きたのだろう。
曜の記憶の限りでは、曜の父、栄治はさほど敵を作ってはいなかった。ほぼ無名だった建築家が、いきなり成り上がったことに多少の嫉妬が存在したとして、犯人の行動原理がそれを理由とした怨恨であっても、殺人という手法に直結しない。それがそのまま殺人へと繋がりをみせるには、あまりにも細すぎる糸(弱い動機)だ。
何処かに理由がある。では、何が見えていないのだろう? どうすれば、殺人という手法に繋がるのだろう?
ふと、曜は思い直してみる。
何故自分はこんなことを考えているのだろうと。
何故自分は霊を信じ始めているのだろうと。
曜はいつの間にか、今まで信じていなかった霊の存在を、悠に教わった霊の知識を前提に知った情報を元に、考えを巡らせていた。
まずい。いよいよこれは末期症状だ。『藁にも縋る思い』というが、ここまで自分の心は追い詰められていたと思うと、情けなく思えてきた。
曜は今までの悠の行動を見ていても、霊の存在を信じ切ることはできなかった。たとえどんなに悠が曜の為を思っての行為でも、そして、本気で死んだ両親に逢わせようとしていても、心の奥底では、空虚な慰めにしか思えずにいた。
そして悠もこの時、彼の雰囲気から、そんな曜の心情を幾ばくかは理解できていた。だからこそ、逢わせなければならないと思った。死んだ人に逢わせるという言葉を、虫の良いただの幻想として終わらせたくはなかった。悠は、彼を両親に引き逢わせ、彼を必ず生かすと、また新たに決意を固めていた。
曜がうな垂れ始めたのを見ると、悠は立川に向き直る。
「立川さん。あなたはどう思います?」
「へ?」
「あなたはあの事件が、父親の無理心中だと思います?」
ぎょっとして曜と黎明と立川は悠の顔を見る。特に表情という表情はない。真顔だ。どうやら真剣に訊いているらしい。曜は慌てて悠の肩を叩く。
(何考えてんだお前はよぉ! 急にそんな質問したって答えてくれるわけないだろ!)
(聞けなきゃ聞けないでいいだろ? いずれにしたって、情報が無、さ、過、ぎ、る。このままじゃ、間違ったまま打ち止めだぜ、この事件)
(それにー、なんか軽口で言っちゃいそうな雰囲気だしねーこの人―)
小声で話す三人に目もくれず、立川は腕を組んで考え込んでいる。それからまたきょろきょろ辺りをを見回したかと思えば、今度は腰を曲げて態勢を低くし、小声で悠の質問に答えた。
(……違うんじゃないかと思うんだ)
立川が予想よりもあっさり答えてくれたことに呆けてしまった三人だが、やがて悠も態勢を低くして訊き返す。曜と黎明もそれに従い、腰を曲げる。
(違う……というと?)
(さっきも言ったけど、自殺と考えるには奇妙な点が見つかってね。これはあくまで僕の直観の話になるんだけど、咲間君のお父さんが、自殺する一時間前に仕事の連絡をしているんだよ)
(連絡……ですか)
曜は唇を噛み締めて立川をじっと見ている。
(内容が確か……明るい声で『設計図がもうすぐ出来るから、明日にでも持っていく』、だったかな。それで栄治さんの書斎を調べたんだけど、まだ完成してなかったんだ)
二人は顔を見合わせる。これはまだ知らない新事実だ。彼の話は重要と思った二人は、立川の次の言葉を待つ。そのことを察したのか、立川はすぐさま語り出す。
(おかしいと思うんだよ。仕事で上手くいってないなんて話は、周りの人も聞いた事が無いらしくて、『もうすぐ出来る』と言ったなら、本当にあと少しで出来るはずだったと思う。実際、書き途中の設計図を見る限り、後は仕上げと調整くらいでほぼ完成していた。それなのに仕事を途中で放棄するのはあり得ないと思う。もし本当に自殺するつもりでいても、あんなこと言ってたくらいだ。設計図を完成させてからする筈)
さらに決定的なのが、と前置きを置いてから、立川は一息に語った。
(死亡推定時刻がおかしい。栄治さんは死後硬直するくらいの、つまり死んでから発見されるまでの時間があるのに、遥さんはまだ血が流れていた。その事実から起こったことを考えてみると、栄治さんが首を吊った後に、遥さんは刃物で刺されたってことになる。これじゃあ時間的にも矛盾が生じる。それでこれは、無理心中に見せかけたお粗末な殺人じゃないかって話が警察内部で出てきたんだ)
少し興奮しながら推理を展開する立川。その顔には刑事ドラマなどからの憧れなのか、子供のように無邪気さが表れていた。
一方悠はというと、未だに髪を弄りながら、真剣な顔で考え事をしている。
曜は嬉しそうに自分の推理を話す刑事を軽く睨みつけている。
黎明はいつ曜が立川を怒鳴り散らすのかを不安そうに見つめている。
それでもお構いなしと言わんばかりに、声量を戻して立川は話し続ける。
「とまあ、あくまでも想像の話だからね。自殺だと考えられてたから、司法解剖もまだだし」
「確かに、興味深い話ですね」
おもむろに悠が言う。曜と黎明はばっと悠の顔を見る。悠は微笑みを浮かべていた。しかし、目だけは笑っていない。代わりに僅かな怒りを宿していた。
「ただ、人の気も知らずに嬉しそうに事件の話をするのはどうかと思いますよ」
悠は淡々と立川にそう告げた。刑事はあっと小さな声を上げ、申し訳なさそうに頭を下げる。
「ご、ごめん。またやっちゃったよ。ドラマや小説の中の刑事に憧れて、この職に就いたから、たまにこういう事しちゃって、しょっちゅう怒られてるんだ」
「そしてまた怒られることになるんだよ」
へ、と間の抜けた声を上げ、立川が振り返ろうとする前に、声の主から拳骨を食らう。あっと曜は気付く。拳骨を喰らわした男は、捜査中に曜に途中経過を教えた小太り刑事だった。
「事情聴取にどれだけ時間かけてやがる、馬鹿野郎!」
「――――っ。……すいま、せ……」
つむじ辺りを両手で押さえながら、立川は謝罪するが、掠れた声で言葉にならない。
「ほら、報告しろ」
「はっはい!」
立川は勢いよく立ち上がり、事情聴取のメモに使っていた手帳を慌ただしくめくる。
「えーと、被害者は高階静代、五十六歳。下腹部を一度深く刺され、失血死」
「おい」
小太り刑事が止めたが、まるで耳に入らぬかのように進める。
悠と曜と黎明の三人は、黙って耳を澄ましていた。
「断定はまだですが、凶器は被害者の右手に握られていたアーミーナイフと推測されています。鑑識の見立てでは、死亡推定時刻は午後六時から七時前後。第一発見者の三人の証言と併せて考えれば、七時半よりは前に殺害されたと考えられます」
「おい」
「自殺の線も考えられましたが、遺書が無いことなどを理由に、可能性は低いかと。なお被害者の所持品は、凶器らしきアーミーナイフの他に、プラスドライバーが一本、上着のポケットに入っていただけでした」
「市民の目の前ですでに報告を受けた機密情報をべらべら喋るな大馬鹿野郎!」
数秒後に立川がどうなったかは言うまでもない。
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