5
曜ははっと目を覚ます。その拍子に一粒涙が零れ落ちる。
記憶のリフレイン。背筋にぞっと寒気がした。嫌な夢を見るとどうしても身体が寒くなる。熱いコーヒーが飲みたいと思っていると、不思議なことに身体に温もりを感じた。
そしてようやく自分の状況に気が付く。この温もりの正体は悠だ。膝をついて絶叫していた曜を、悠は片膝をついて抱き締めていたのだ。
曜はすぐさま抵抗し、悠の腕を払う。
「な……何してんだよ」
悠は真顔で答える。
「ハグ」
「だから何でだよ!」
悠はふぅっと溜息をつき、少し呆れた口調で言った。
「落ち着かせる為に決まってるだろ」
決まってるのか? 曜は率直な疑問を小声で漏らす。それを悠は聞き逃さなかった。
「とっさにカッターの刃を掴んで止めたら、君が急に叫び倒しては正気を失うから、ひとまず落ち着かせようとして」
「ハグしてきた訳か」
曜は右手で額を押さえて言った。そんな方法で介抱されてもと、今度は悠に気付かれないように内心で文句を言う。
「で……どうする?」
右手から血を流し、それを見つめながらいきなり悠が訊いてきた。何の事かさっぱりわからない曜は訊き返す。
「な、何が?」
すると悠はまた真顔でこちらを向き、こう答える。
「俺のこの仕事場での、初めての依頼者になる?」
曜には話が見えなかった。悠の話は唐突過ぎて、理解するのに時間がかかってしまう。
悠はそんな彼の状況に少しだけ責任を感じ、しかし自分から説明する気はないのか、ヒントを出すという、遠回しなやり方をした。
「君……誰かに逢いたくないかい?」
悠は大きな木製の机から見覚えのない救急箱(悠が持ち込んだものの一つだろう)を取り出し、そこから包帯を手に取り、右手の傷に巻きつける。曜はとてつもなく嫌な予感がした。
「……まさか」
悠は不敵な笑みを見せる。
曜はその笑みを見て、背筋を凍らせた。
「ようこそ。逢わせ屋へ」
そう言って包帯を巻いた右手を真上に上げ、それを下して自分のお腹の方向に曲げると同時に、お辞儀をする。
「ちょ、ちょっと待て待て!」
曜は慌てて言った。悠は首を傾げる。
「どうした? 早く座ってくれよ。まあここに置いてあった物だけど」
そう言って悠は曜の持ち込んだソファを指差しながら言った。
とにかく曜は思案した。こんな奴に依頼? 冗談じゃない! そう思いながら曜は断る言い訳を考える。そして考えるうちに、ある事を思った。
いや、いやいやいや、落ち着け、落ち着いて考えろ。そもそも霊に逢わせる。その時点で信じられない。たとえさっきの霊が本物だとしても、孫と逢わせたエピソードなんて嘘かもしれないのだ。
「だから待てって。俺はお前に依頼する気はないんだぜ? そこんとこ理解してないみたいだな」
「何言ってるんだ。現状では君のことは理解しているつもりだよ。だから、君が最もしてほしい願いを、俺は叶えようとしてるのさ」
「どうやら根本的に間違えているようだな。俺の一番の願いは、『放っておいてくれ』だ」
「ほら、君みたいな捻くれ天邪鬼は、言ってることと思ってることが真逆になるじゃないか。だから、『構ってあ・げ・る』って言ってるんだけど」
「やかましい! とにかく、俺のことは放っておいてくれ! もう疲れたんだよ」
「このやり取りに? 人生に?」
彼の皮肉に、ついに堪忍袋の緒を切った。さすがにもう、切ったって怒られないだろう。
「両方だ!」
曜はだんと机に両拳を叩きつける。さすがの悠もこれには真顔で黙り込んだ。
「もう構わないでくれよ……」
「死ぬ気だから?」
無慈悲な声で、彼は訊いた。訊かなくてもわかるだろう。曜は無視した。外では鴉が鳴いている。
「どうしてだ?」
鴉は鳴き止まない。
「答えてくれ」
しつこい。うるさい。
「頼むからさ」
構うなって言ってるだろ。
「どうしてだって」
もういいだろ。
「答えてくれよ!」
悠もだんと机に拳を叩きつけた。しかも、包帯を巻いた右手で。さすがにこの反応は予想外だったので、曜はまだ無言で彼を見つめたまま動けなかった。
「どうして死にたがる。何も解放されず、何も解決しないのに」
蒼く染まった悠の目が、生気を失った彼の瞳を見据える。
じわじわと紅く染まる包帯を見つめていると、鴉の声はいつの間にか聞こえなかった。
「わかるだろ?」
知らず知らずのうちに、曜は声を発していた。
「逢える訳が無いんだよ……逢えるのは、俺が死んだ時の話だ。家族が死んで、大きなものを失って、生きる意味を見いだせなくなった。さっきだって見ただろ? 俺はもう死にたいんだ」
悠は黙って無表情のまま動かない。
「だから言ってるんだ。放っておいてくれって。構わないでくれって」
もう止まれなかった。止まる気にもならなかった。
「死を求めて何が悪い。手軽な道を歩むことの、何が悪いっていうんだよ」
駄目だ。耐えろ。こんなところで、こんな奴に見られたくない。目から熱い何かが溢れ出ようとしている。曜はそれを必死になって耐えた。悠はこの状況にもかかわらず、涼しい顔で曜を見据えている。
「死なせてくれ」
曜は左手で片目を強く押さえつけながら言った。
曜はこの場からすぐにでも立ち去ろうと、足を出口へと向けた。
「どうして死にたがるんだ」
曜は振り返る。そこには、蒼く染まった瞳に、紅い静かな、そして確かな怒りを宿した悠がいた。
「どうして皆死にたがるんだ。何も解放されず、何も解決しないのに!」
先ほどと同じ言葉を悠は紡ぐ。その口調は徐々に荒くなってくる。先程の奇妙な口調の面影は、一つもない。
「死んだところで、何になる? 何にもならない! 死んだところで……」
そこで悠は、言葉に詰まった。そしてしばらくしてから、背を向けていた机に身体を戻し、ばんと両拳を叩きつけ、両腕を震わす。右手の包帯から血がさらに滲みだす。
曜は表面では平静を装っていたが、内心では慌てていた。ここまで悠は、激情的になる素振りなど微塵も感じさせなかった。しかし、曜が死にたいと言うと本気で怒り、曜を叱りつけてくる。初めてのことに、曜は少しばかり動揺した。
「依頼してくれないか」
悠は手を戻し、曜に背中を向けながら言った。曜は目を見開く。
「話を聞いてなかったのか? 俺は……」
「君を助けたい」
悠は淡々とした口調で、当たり前のように言った。曜は悠の目を見る。
微かに蒼い目をした少年には、まだ怒りが宿っていた。ただ、曜には悠が怒っているのと同時に、何かを恐れているように感じた。死を恐れているのだろうか。自分ではなく、他人(ひと)の死を。
曜はこの時、心の奥底で何かの形が変わった気がした。面と向かって助けたいと言われたこと。それは嘘の無い、悠の率直な言葉に思えた。
「……わかった」
そう言った瞬間曜はあっと声を漏らす。勝手に自分の口が、了承してしまっていた。
「ええと……その」
悠はにこりと寂しそうに笑い、曜の言いたい事を代わりに答える。
「言うつもりはなかった……だろ?」
「…………」
悠は曜にまた背を向け、言った。
「まあいいさ。後々気が向いたら依頼してくれても良いし、そのまま依頼しなくても構わない。すまない。急に変な事を言い出して」
この場の時が止まり、曜はただ悠の背中を見つめている。とても長く感じる一分間。その間に曜は決心する。
「……俺の……両親に逢わせてくれ」
今度は無意識にではなく、意識して了承した。何故かは知らないが、そうするべきだと曜は思った。だが、それと同時に、ある決意も固める。
「ただし、一つ条件を付ける。承諾しなければ、この話は無しだ」
悠は振り向く。優しく微笑み、まるでそうなることを知っていたような顔を見せる。
「改めて、契約成立」
そう言って悠は親指を立てた。
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