第5話 壊れる自我

 陽平と兎鞠が謎の女を抑えているさなか、勇仁と雪月は、光平の治療に専念していた。


「どうですか?」

「最善は尽くしましたが……」


 光平の体には、既に外傷はない。


「衝撃で気絶しているだけなんですかね……」

「そうだと願いたいですね……」


 鏡屋の空気は重くなる一方であった。それに重ねるように、店外から大きな物音がする。何か物を破壊するような音であった。


「今のは!?」

「狭戸様はここで待っていてください」

「あなたは?」

「俺が見てきます」


 勇仁はそう言うと、螺旋階段を下っていく。


「私も行きます! もう足手まといにはなりません」


 ……。勇仁は返事をしない。しばらく考え込むと、黙って勇仁は階下に下って行ってしまった。雪月は下り終えた勇仁の後を追い、螺旋階段を下り始める。


「一ついいですか?」


 勇仁は下り始めた雪月に、忠告するように話し始める。


「身の危険を感じたら、光平さんの命を優先して下さい。そしてなにより、貴方様の命を一番に考えてください……。お願いします」


 勇仁は店の戸を開けた。


「……分かりましたわ」


 雪月は階段を下りる足を止め、勇仁の背中に誓いを立てた。

 二人は音に誘われるように大通りに出る。左右を見回すが、特に目に留まるものは無い。それどころか先ほどの音が無かったように、通りは静まり返っていた。


「妙に静かですわね……」

「そうですね。しかしあそこを見てください」


 勇仁は最近人気のカフェを指さした。日向宅側の通り、鏡屋を出て左側に位置している。


「あれは……。店の戸が壊されているわ」

「こちらに現れたのは普通の魔者のようですね。いや、そうだと願いたいですね」

「でも、理性があるものだとしたら、無差別にカフェだけを破壊なんてするかしら?」

「あの店に恨みがあるか……あるいは、しらみつぶしに俺たちを探しているか……」


 静寂を切り裂くように、何かが外れた音が通りに響く。


「来たか?」


 勇仁はその音に身構える。しかし敵の姿を捉えることは出来ない。


「学校のほう、なのでしょうか」

「いえ、音は近いです。さらに爆発音はしていない。近くにいるはず――」


 勇仁が左右を見ていると、鏡屋の上から大きな看板が落ちてくる。


「危ない!」


 雪月は咄嗟に勇仁を突き飛ばす。


「狭戸様!」


 看板は大きな砂煙を立て、雪月の姿を隠す。煙が晴れると、そこには分厚い木に包まれている雪月がいた。


「大丈夫ですか!?」


 勇仁はすぐさま雪月のもとに駆け寄る。


「えぇ、大丈夫ですよ。咄嗟に妖術が出るよう兎鞠さんが訓練してくれましたから」

「そ、それは良かった……」


 勇仁は心の底から安心した。しかし謎の攻撃に思考を止めることはできなかった。


「それよりも」

「そうでした。敵はどうやら上のようですね」


 二人は揃って上を見る。


「ブラボーブラボー!」


 声は鏡屋ではなくカフェの上からであった。二人はその声に振り返り、怒号を飛ばす。


「誰だ!? 何が目的だ!?」

「はぁ? 答えると思ってんの?」


 男は黒いシルクハットをかぶり、黒いタキシードに黒いマント姿であった。顔は遠目でよく見えず、そんな中会話は進んでいく。


「お前も封魔師か!?」


 勇仁は声で気を取りながら、左手に妖神符を持った。左手に冷気を纏うと、勇仁はいつでも迎撃できる体制を取った。


「封魔師……。そんな馬鹿なことはしないさ! 僕たちは、愚かな人間界を滅ぼす救世主になるのだから! ハッハッハッハッ!」


 男は気持ちよさそうに高笑いをし始める。勇仁はその隙を狙い、左手に力をためていく。


「俺たちに用があるのか!?」

「用……。そうですねぇ~。後ろの女の子は貰いたいですねぇ~。そしてあなたには、私からプレゼントがありますよぉ~!」


 男は腰に備えていた鞭を右手に持つ。丸まっていた鞭を解き、男はその鞭を振るい始める。


「何をするつもりだ……。狭戸様は下がっていてください」

「は、はい。でも貴方一人では……」

「いえ、大丈夫です。あいつの狙いは狭戸様ですから。ここは俺が引き受けるべきなんです」

「分かりましたわ。援護は任せてください。私に魔を制する力を」


 雪月は妖神符を弓に変え、相手の行動を伺う。勇仁は依然として左手に冷気をため続ける。


「さぁ、ショータイムですよ!」


 男は空いている左手で、パチンッ! と指を鳴らす。すると二体の魔者が現れる。


「あれは、魔者か?」


 弱い魔は、陽平たちの間では魔物と総称しており、目が赤く、口が緩く、映画に出てくるゾンビのようにフラフラと揺れている状態が多い。今回男が呼んだ二体も、それに当てはまっていた。


「あの二体はなるべく早く倒しましょう。俺が前を張るので、狭戸様は男を見ながら援護してください」

「はい、私だって強くなったもの……」


 雪月は、自分の気持ちを落ち着けるようにそう呟く。


「さぁ、面白いものを見せてくださいね!」


 男は大きく鞭を振り、二体の魔者の背を引っ叩く。それに二体の魔者は大きく身悶え、徐々に姿を変えていく。


「な、なんだあれは……」


 右の魔者はみるみる狼人間に変化していく。一方左の魔者は、大きな翼が生え、鳥人間へと変化した。


「ど、どうしましょう……。これではこちらが不利ですわ」

「た、確かにそうですね……。しかしここで引いてはあのバカに見せる顔がありません。あいつもあっちで踏ん張ってるんです」

「でも――」

「俺はやります! あいつにばかりいいところは持っていかれたくありませんからね」


 そういう勇仁の顔は引きつっていた。恐怖、興奮、そして少しの歓喜が勇仁をそうさせていた。


「敵は二体。俺ならできる。ここで修行の成果を出すんだ」


 勇仁は自らを鼓舞すると、二体の魔者が襲い掛かってくるのを待った。


【ガ、ガギガ】

【グァグギガ】


 魔者はおぞましい変化を遂げると、狼人間の赤い目が勇仁を睨む。勇仁はその眼を睨み返すと、自らの肝を座らせた。しかし勇仁はすぐに異変に気が付いた。


「……鳥の方は!?」


 勇仁が気づいた時には、すでに雪月と魔者の戦闘が始まっていた。


「こちらは大丈夫です!」


 雪月は飛ぶ魔者を弓で迎撃する。雪月はそのままじりじりと距離を詰められ、カフェとは反対側へ追い詰められていく。


「マズい、俺が守らないと――」


 雪月の救援に回ろうとした勇仁だが、もう一体の魔者が後ろから襲い掛かる。


「くそっ!」


 勇仁は素早く身をかがませ、狼男の攻撃を避ける。しかし魔者はすかさず乱舞を仕掛けてくる。


「ここで使うかっ!」


 勇仁は乱舞を大きく後ろに避けると、左手に溜めていた冷気を一気に放出し、氷柱で槍生成した。


「光平さんに倣ったこの槍で!」


 勇仁は左手の槍を相手に向かって投げつける。


「うおおおお!」

【クゥン】


 槍は魔者の肩に命中し、敵は動きを止めた。勇仁はそれを確認すると雪月のもとに向かう。

 そのころ雪月は、厳しい戦いを強いられていた。防戦一方で、空を素早く飛ぶ標的に狙いが定まらずにいた。


「はぁはぁ、集中、集中しなくては……」


 雪月は疲弊しつつも、魔者を一人で抑えていた。


「良いですねぇ~。頑張ってますねぇ~!」


 男はカフェの屋根から降り、狼男のそばによると鞭を入れる。


「ったく情けないですね。しっかり働いてくださいっ!」


 狼男は鞭を受けると、再び数秒身悶えし、傷はみるみるうちに塞がっていく。


「狭戸様!」


 勇仁は小さな氷柱をナイフのようにして、連続して空飛ぶ魔者に投げつける。


【グギャァァァア!】


 そのうちの一本が羽根に当たり、鳥の魔者は地に落ちた。


「大丈夫ですか!?」

「はぁはぁ、大丈夫です」

「良かった。さぁ、ここはひとまず引き上げましょう」


 勇仁は雪月を担ぎ、店内に戻ろうとする。


「まったくお前もか~。これでお仕置きです!」


 男は魔者のそばによると、先ほどのように鞭を入れる。すると魔者の傷は次第に癒えていった。


「何なんだあの能力は」

「あの鞭で魔者を操っているのでしょうか……」

「とにかく今は逃げましょう」


 雪月を鏡屋まで運ぶと、勇仁は再び刀を構えた。


「今は逃げるのではないのですか?」

「誰かが足止めしなきゃいけないですから」

「あなた一人を残すわけには」

「良いんですよ。俺にもカッコつけさせてくださいよ。さぁ、行ってください。光平さんはまだ俺たちに必要な存在なんですから」


 そう言って勇仁は鏡屋の戸を閉めた。


「ちょっと……。私だって、でも今は……」


 雪月は階段を上り、光平とともに思念世界を出た。


「あれあれあれ? 可愛い子ちゃんがいなくなっちゃいましたね?」


 男は鞭を再び二体の魔者に入れる。


「お前は戦えないビビりなのか?」

「む、何を言っていらっしゃる。僕が出る幕でも無いというわけですよ! ほら、いってらっしゃい!」


 鞭を打たれ、再び凶暴化した魔者は容赦なく勇仁に襲い掛かる。


「速い!」


 先ほどとは打って変わり、二体の魔者のスピードは段違いであった。


「くっ、さばききれるのか?」


 勇仁は体制を立て直し、刀をしっかり構える。


「そういえば、言っていませんでしたね~。その二体の魔者の名前」

「魔者に名前なんか付けているのか? おっと」


 勇仁は敵の攻撃を躱しながら男の会話に応える。


「この人たちのお名前は……」

「そんなもの聞く必要はない!」


 襲い掛かる二体を切りつけ、地面に左手を着き、そのまま地面を伝わせ二体の足を凍らせる。身動きが取れなくなった魔者は、それでもなお理性なく勇仁に襲い掛かろうと蠢いている。


「あらあら、そんなことしちゃっていいのかなぁ~?」

「何のことだ?」

「そいつらの名前、宗治そうじ優佳ゆうかって言うんだぜ。確か苗字は……」

「おい……それ以上言うな」

「え、なんて?」

「それ以上言うなって言ったんだ!」

「……そうですか。心当たりでもあるんですかね~」

「ゲス野郎が!」


 頭に血が上った勇仁は、考えもなくマントの男に向かって行く。


「良くないですよ~。良くない良くない。ほら後ろ見て~」


 足止めしたはずの魔者は、自力で氷を抜け、勇仁の背を追いかけるように走ってくる。


「なんで、なんでこうなるんだ……」


 勇仁は速度を緩めずマントの男に向かって走っていく。このまま魔者とマントの男を衝突させようと考えついたのであった。


「おやおや、後ろから来てますよ?」

「このプレゼントは、返品だ!」


 男に切りかかるふりをし、勇仁はそのまま男の横を素通りする。


「あらら、考えましたね?」


 マントの男と魔者は、大きな音とともに激突した。


「いたたた~。ひどいことをしますね~。ま、こんなのみんな思いつくんですけどね?」


 男は二体の魔者の衝突を避けていた。男は再び二体の魔者に鞭を入れ、大通りにそって走っていく。


「くっ、待て!」


 勇仁は男を追って走り始める。そしてその勇仁を追って魔者二体は走り始め、大通りを学校方面に走り去っていった。


 …………。

 勇仁の背中が消えるころ、陽平一行が大通りに到着した。

 二人は鏡屋の戸を開け、店内では二人の会話が静かに続いていた。


「え、マズいって何が……」

「ふぅ、現世の彼女、あれは彼女の本当の体じゃないのよ……」

「どういう……ことっすか……」

「どうもこうもないわ。言葉のままよ。つまり、彼女の魂は本体に戻る確率が高いわ。ふぅ、めんどう……」

「面倒って、こんなことしてないで早く行きましょう!」


 陽平は慌ただしく階段を上っていく。


「ふぅ、待ちなさいって……」


 兎鞠はため息交じりにそう言うと、階段を上る陽平を追いかける。


「なにかあったんですか?」

「あー、えっと、急用で、早く現世に戻らなきゃいけないんですよ」

「そ、そうなのですか……。私もここに来たように、再び鏡に入れば戻れるのですか?」

「そうです! だからそこをどいてください!」


 千亜希は鏡の前に立ち、陽平は現世に戻れずにいた。そんなことをしていると、兎鞠が悠々と階段を上がってくる。


「待ちなって、私たちが行ってもどうにも出来ないよ。ふぅ、光平か幸蔵がいないとね」

「何なんですか! はっきりしてください!」

「だから待ちなって言ってるんだ。馬鹿なんだからしっかり事の次第を理解してから行きなってことよ」

「わ、私たちもここに残っている方がいいですか?」


 千亜希は不安そうに千夏の顔を見ると、そのあと、訴えるように兎鞠の顔を見る。


「あんたらはいいよ。ふぅ、それに今日のことすべて忘れたいんだったら、明日こいつの家を訪ねなさい」


 兎鞠は陽平を指さした。


「俺ん家ですか?」

「そこであたしがその呪いを解呪してあげるわ。ほら、わかったら行きなさい」

「は、はい……。力のことは、正直ビックリしました。少し時間をくれませんか?」

「ふぅ、仕方ないね。それだったらこのバカの下の部屋があたしの家よ。そこを訪ねてきなさい」

「はい! そ、それでは」


 千亜希は千夏の腕にミサンガを巻き、千夏を抱いて鏡を通っていった。


「ふぅ、それじゃ、あたしたちも早速、狭戸宅に行きましょう」

「は、はい!」


 千亜希の後に次ぎ、陽平と兎鞠も鏡を通り思念世界を後にする。


 …………。

 現実世界に戻ってくると、二人は走って学校に向かった。

 保健室に着くと、そこには勇仁と雪月の体だけが残っていた。


「親父がいない……?」

「ふぅ、あいつも気づいたみたいね」

「ってことは……」

「えぇ、きっと狭戸宅ね」


 二人は再び走り出した。学校を出ると、右に曲がり大きな山の上に建つ狭戸宅を目指した。


「ふぅ、疲れたわ。おんぶして階段上って」

「えぇ!? マジすか?」

「ふぅ、マジマジ」


 陽平は兎鞠をおぶり、長い石段を上っていく。

 息を切らせながら門前にたどり着くと、門が人一人分の隙間を開けて待っていた。


「ふぅ、やっぱりね。行くわよ」

「はぁはぁ、さすがに下りてください……」

「おぉ、ご苦労だったわね」


 二人は深夜の狭戸宅に侵入する。雪月の居場所を知っている。と言う兎鞠の後に続き、陽平は静かに廊下を進んでいく。


「何処に向かっているんですか?」


 陽平は声をなるべく小さくし、兎鞠に尋ねる。


「地下よ」

「ち、地下? この家にあるんですか?」

「えぇ、だから立派な山の上に家が建っているのよ。雪月の本体を隠すためにね」

「狭戸さんの本体って……」

「ふぅ、言いそびれていたわね。簡単に言えば、半身を魔に侵食されているの」

「魔に……侵食?」


 兎鞠はそれ以降口を開かなかった。陽平も未知の恐怖に言葉を忘れていた。しばらく無言で歩き続け、廊下の最奥にたどり着いた。兎鞠は身をかがめ、廊下を三回叩いた。そして立ち上がり、右の壁に近づくと、そこも三回ノックする。すると最奥の壁のど真ん中の一部が回り、赤いレバーが現れた。


「ふぅ、それよ。それを引いて」


 陽平は言われるがままにレバーを倒す。すると足元が揺れ始め、廊下が最奥の壁側に吸い込まれ始める。


「下がりな、落ちるよ?」


 陽平は左側の壁に寄り、レバーによって開かれた穴を見た。


「ふぅ、相変わらず勝手の悪い造作ね。レバーの真下に階段が出る仕組みなんて」

「た、確かにそうですね。ハハ」


 陽平は驚きの連続で、頭の回転がいつも以上に鈍っていた。


「さぁ、行くわよ」

「は、はい」


 現れた階段を下り始める二人。少し下ると入り口は静かに閉まり、二人は暗闇の中階段を下り続ける。行き先はただ一つ、真下の扉の先である。その扉から洩れる光を頼りに階段を下り終え、とうとう狭戸家の秘密の扉を前にした。


「ふぅ、久しいわ、ここに来るのも」

「緊張します……」

「ふぅ、柄にも無い。少しびっくりするだけよ。そんなに固くなる必要はないわ」

「そ、そう言われましても」

「開けるわよ」

「ちょちょ――」


 兎鞠は陽平の気も考えず、扉を押し開けた。陽平の視界に広がったのは、だだっ広い研究室であった。その部屋の真ん中には、大きな球体型の水槽があった。そしてその中には、拘束された雪月の姿があった。


「こ、これは……」

「ふぅ、雪月よ。これが本当の体……。魔を浄化しようとこれに入れているんだけど、正直無理だわ。これだけでは到底……」


 研究室内は静まり返った。二人の会話が無くなると、不気味な機械音が室内にこだました。


「まだ、目覚めてないみたいですね」

「ふぅ、そうね……。いっそ目覚めてほしくないくらいだけどね……」

「そ、そんなに凶暴なんですか?」

「ふぅ、正直分からないわ」

「……。俺に止められますかね?」

「ふぅ……、それも分からないわ……」


 雪月は静かに呼吸を続けている。見た目では全く魔の侵食は見受けられない。恐らく魔は心を蝕んでいると思われる。

 陽平と兎鞠は黙って水中に浮かぶ雪月を眺めていた。すると水槽の向こう側から物音がし始める。自動ドアが開くような音がし、その後に足音が聞こえてくる。


「誰か来たみたいですね」

「ふぅ、そうね」


 足音は二人のようであった。部屋が広かったこともあり、話し声はしばらくしてから聞こえてきた。


「なんで違う鏡から脱出させたんだ!」


 奥からは幸蔵の怒号が聞こえてくる。


「んなこと俺に言われたってな、お前だって娘にちゃんと説明してりゃ、まずあんな世界に入らなくて済んだだろ?」


 先ほどまでのびていた光平は、やはり狭戸宅に訪れていた。


「それもそうだが、私は、雪月自身に自分の境遇を理解させ、そして解決してほしかったんだ」

「お前……。それでも親か!? 自分の体が作られたものと知り、自分の体が戦っている魔に侵食されていると知り、それでもなお、前に進めると思っているのか!?」

「……。私には分からなかった。娘へどう接すれば良いのか、どう声をかければ良いのか。だからかもしれないな、だから雪月は、私にくっついて、思念世界に迷い込んでしまったのだろうな……」

「……今更遅いぜ。赤ん坊のまま向こうに行って、命があっただけ良かったってもんだぜ……」


 二人の会話はそこで止まった。再び室内には不気味な機械音が充満した。すると先ほどまで大人しかった雪月が、急に大量の泡を吹き始めた。意識が帰ってきてしまったらしい。


「ふぅ、まずいわね」


 兎鞠は会話が止まった二人のもとに走り出した。


「狭戸さん……」


 陽平はいつものように兎鞠の背中を追う気にはなれず、今にも暴れだしそうな雪月を見守った。


「ちょっと、大人二人がしんみりしてんじゃないよ! ふぅ、さっさと手を打つよ!」

「と、兎鞠なのか!?」


 幸蔵は久しぶりに見た顔に驚きの声をあげた。


「あぁ、今はあの子の師匠だぜ」

「ふぅ、聞いてた? さっさと手を動かして?」

「あいあいさーっと」


 光平は、雪月が向いている陽平側に走ってきた。


「私は……。そうだ、念のために作った薬を持ってこよう」


 幸蔵は入ってきた扉から出ていき、自身の書斎に向かって行った。


「あ? 何やってんだガキ?」


 こちら側に回ってきた光平は、立ち尽くす陽平に気が付いた。


「親父……。狭戸さんは大丈夫なのか?」

「ったりめーよ。もう、俺の前で何かを失いたくねぇからな」

「……俺もなんか手伝えるか?」

「お前はそうだな……。黙って見てろ。それも勉強だ」


 光平はそう言うと、陽平を扉の近くまで下がらせる。


「いざとなったらお前は逃げろ。そして住民を避難させるんだ。それがお前の仕事だ」

「分かった。もうへますんなよ、親父」

「……あん時はちと腹が痛かったんだよ。本気の俺があんな奴に負けるわけねーだろ」

「そうだと信じてるよ」

「っしゃ! いつでもかかってこい!」


 光平は武器もなく、ただ拳を構えて水槽に立ち向かった。


(なにをするつもりなんだ。こっちでは神具も妖術もないはずだよな……)


 陽平は父が心配であった。いつも調子こきで、それでもって強い父が、思念世界で敗北しており、会話には神妙な声色を出していた。陽平はわずかな恐怖を感じ始めていた。家族を失うという。


「ふぅ、あとはいつ暴れだすか。ね」

「暴れたらすぐ出してやれよ。水でも飲んだら大変だからよ」

「ふぅ、分かってるわよ。あたしが作ったもんなんだから」


 二人が水槽越しに会話をしていると、雪月の手が痙攣し始める。それに続いて足、顔。全身が短い痙攣をし、再び静まった。


「帰ってきたみてーだな……」

「ふぅ、やるわよ!」

「あぁ! 失敗は出来ねーからな」


 その時、兎鞠側のドアが開き、幸蔵が姿を現す。


「薬を持ってきたぞ。雪月はどうだ?」

「ふぅ、もう恐らく意識は帰ってきたわ」

「そうか……。光平! 頼む、娘を救ってくれ!」

「おう、言われなくてもそうするぜ!」


 幸蔵の大きな声に光平は大きな声で返事をする。そして背後で見守る息子にいつもの笑顔をして見せた。

 兎鞠は機械の操作を幸蔵に任せ、光平の隣に走ってくる。


「今度はちゃんと一発でやってよね?」

「あん時はちー子がいて助かったぜ」


 二人が昔話に浸っていると、再び雪月の様子がおかしくなり始める。


「開けるぞ!」


 幸蔵がその様子を察知し、二人はそれに答える。幸蔵は機械のボタンを押し、大きな球体は縦に真っ二つに裂け、大量の水とともに雪月が流れ出た。光平と兎鞠はその水に動じることなく、雪月をキャッチする。


「よし、後は魔を抑えるだけだな」

「ふぅ、寝かせるわよ」


 雪月をその場に寝かせると、光平は自らの右手を抜き取った。


「えぇ!?」


 陽平は思わず驚きの声を漏らした。

 光平は取った右手を雪月の顔を握らせ、兎鞠はその右手に謎の液体をかけていく。それを終えると、光平と兎鞠は三歩ほど下がり、雪月の動向を伺った。しかし雪月は一向に動き出さない。二人はゆっくりと雪月に近づいて行く。


「ふぅ、どういうことかしらね?」

「俺にもさっぱりだ。……成功したってことでいいのか?」

「どうでしょうね――」


 二人の会話に水を差すように、雪月は突然動き始める。顔を掴む光平の右手を掴み、強い力で引き剥がす。二人はそれで数歩下がり、戦闘態勢をとる。


「十数年眠ってた体で、いきなりこれは出来ねぇよな!?」

「ふぅ、残念ながら実力行使しかないわね」


 雪月は徐に立ち上がる。


「はぁはぁ……。苦しい……。何が起こったの……?」


 雪月としての意識も存在しているようであった。


「おい、喋ってるぜ?」

「異例ね……」


 二人の会話から察するに、取りつかれた人間が、自らの意思で言葉を発することは初めてのことらしい。

 雪月は立ち尽くし、何かをしてくる気配はない。ただ「苦しい。ここはどこ?」を繰り返すばかりであった。

 光平と兎鞠は、陽平を守るように彼の前に立った。


「浄化の露は効き目が無かったのか?」

「そんなはずはないわ。おそらくアレのおかげで自我を保てているんだわ」

「なるほどなぁ。しっかしあの子の精神力もえげつねーなぁ」

「ふぅ、黙って集中して」


 そうは言っているが、二人の顔は真剣そのものであった。

 しばらくにらみ合いを続けていると、先ほどまでユラユラと揺れていた雪月の動きが突然止まった。


「なに……。何なの……。誰なの!?」


 雪月は両手で頭を抑え、叫び始めた。


「ふぅ、抑制が止まったようね」


 雪月は枷が外れた虎のように暴れ始める。


「やめて! 私から出て行って!」


 雪月は悶えた挙句、その場にしゃがみ込んだ。


「あぁーあ。ほんと苦労するわ~。さっさと体よこせばいいのにさぁ~」


 しゃがみ込んだ雪月は、日ごろ使わないような口ぶりで話し始める。


「下手に傷でもついたらどうしてくれんだよ。今回は幸い無くてよかったけどさぁ~」


 明らかに雪月ではない人格が入り込んでいるようで、目の前の、魔者。と呼んでいいか定かではない人物は、こちらに気づかず独り言をぼやき続ける。


「陽平、ちと上から武器取ってきてくれねーか?」

「お、おう。それくらいなら全然」

「よし、俺は棒状のもので頼む。箒とか、物干し竿とか!」

「ふぅ、そうね。私は何もいらないわ。あの子を傷つけるわけにはいかないからね」


 陽平は父の背中を疑心の目で見る。


「え、あ、いや、俺も自衛に使うだけだからな!」


 光平は急いで弁明した。


「ま、親父がそんなことするとは思ってねーけどな。んじゃ、行ってくるよ!」


 陽平は入ってきた扉を開け、階段を上っていった。もう少しで上り終えようとしたところ、自動で階段を隠す床が開き、陽平は驚きながら狭戸宅を走り回った。

 庭に置いてあった物干し竿を見つけ、陽平は急いで廊下の最奥を目指す。


「くっそ。遠いな……。家が広いのも考えもんだな」


 陽平は愚痴をこぼしながら、ようやく地下に繋がる階段に戻った。


「ここを三回叩いて……。赤いレバーを……」


 陽平は兎鞠の見様見真似で階段を出現させ、急いで階段を下っていく。

 階段を下り終え、最初は躊躇した扉を勢いよく開けた。


「親父、持ってきたぜ!」


 扉を開けると、光平と兎鞠の姿は見えなかった。


「あれ……?」


 陽平が扉の前で止まっていると、目の前の大きな球体の背後から、左右に一人ずつ飛んでいく人影が見える。


「え……。親父に兎鞠さん!?」


 陽平は急いで父のもとに駆け付け、物干し竿を突き付けた。


「おい、大丈夫か親父?」

「あぁ、見ての通り無傷だ。ただ幸蔵があぶねー。さっさとそれ貸しな」


 光平は竿を受け取り、機械近くで幸蔵の首を絞めている雪月のもとに走る。

 陽平は続いて、対角線で倒れている兎鞠のもとに向かう。


「大丈夫ですか?」

「えぇ、まさかここまで力がついているとは思ってもいなくてね。ふぅ、参っちゃうわ」


 兎鞠は思念世界での戦闘で、相当体力を消耗しているらしく、すぐに立ち上がることが出来ない。


「あぁ~。また体が動かないよ」

「とりあえず入り口まで運びますよ!」

「悪いわね……。でもここで見守っていたいわ。彼女が助かるところを」

「そ、そうっすね。俺も隙があれば加勢します」

「気を付けなよ。あんたも相当体力ないでしょ?」

「そんなこと……」


 陽平は中腰から立ち上がろうと足腰に力を入れたつもりだが、なかなか立ち上がれない。


「あれ、マジか」


 挙句の果てにはその場に座り込んでしまう。


「ほらね。ふぅ、あんたも黙って親父さんの仕事っぷり見てな」


 光平は左手のみのまま雪月と戦闘を開始する。


「嬢ちゃん。そろそろ正気に戻ってくれねーかな!?」


 光平は物干し竿で雪月の足を払う。雪月はそれによって掴んでいた幸蔵を離す。


「痛いわね……。何すんのよ!」


 雪月は光平にストレートをお見舞いする。


「どわぁ!」


 光平は再び大きく後ろに吹き飛ばされ、壁に体を強打する。


「ったくいてーのはこっちも同じだよ。でも、ようやく帰ってきたぜ」


 運よく投げ捨てられた右手のもとに吹っ飛ばされ、光平はそれを拾って右手に装着する。


「ここからが本番だ。行くぜぇ!」


 利き手に持った物干し竿は、先ほどより威力を増して雪月を襲う。しかし、雪月はそれを左手一本で受け止める。


「ぬるいわね?」


 光平は唯一の武器を奪われ、再び飛ばされる。


「あの、親父ぼこぼこなんですけど?」

「ふぅ、結構ヤバいかもね」

「えぇ!? ノリ軽いっすね!?」

「あいついつもそうだからね」


 兎鞠はタバコをポケットから取り出し、ライターで火をつける。


「なら信じますけど。ゴホゴホ」

「ふぅ、ごめんなさいね」


 飛ばされた光平は、しっかり受け身を取っており、すでに雪月に向かって走っていた。しかし雪月を通りすぎ、光平は幸蔵のもとに向かった。


「おい、薬よこせ」


 光平は倒れた幸蔵を起き上がらせる。


「あぁ、これだ」


 幸蔵はポケットから数個の錠剤を取り出し、光平に手渡した。


「へっへっへ、ありがとな」


 光平はそれを右手に握り、再び雪月に殴りかかる。


「傷つけられないのはキツイぜ!」


 そう言いつつも光平は、思い切り雪月に殴りかかる。


「ちょっと、オッサン誰? 私は父を殺すためにこの世に来たの、邪魔しないで?」


 雪月は軽い身のこなしで光平の攻撃を躱していく。そして光平に反撃を開始する。光平はその攻撃を避けずに受け、右手で雪月の顔面を鷲掴みする。しかし雪月のパンチは重く、光平の体は背後に飛ぶ。


「任務は完了だ!」


 光平は体が飛ぶと同時に、再び右手を切り離した。


「なに、これ……。不味い!」


 雪月は右手を顔から離そうとする。


「ここだ!」


 陽平はその右手を離される前に、雪月を羽交い絞めにする。


「やめろ! 離せ! 離せ……よ……」


 雪月の体から力が抜けていくのを感じる。陽平はその場に雪月を寝かせ、父の右手を回収した。


「収まったみてーだな!」


 飛ばされた先で光平が叫ぶ。


「ゲホゲホ。すまんな陽平君……」


 幸蔵は陽平と雪月の近くに寄ると、涙ぐみながらお礼を述べた。


「いえ、みんな無事でよかったです」

「ふぅ、でもみんなボロボロね……」


 兎鞠がタバコを吸い終え、陽平のもとに向かってくる。


「とりあえず、日が昇ったら病院に行きましょう?」

「ふぅ、そうね。それも良いけど、ここは……」


 兎鞠は細い目で幸蔵を見る。


「わ、分かっている。うちに泊まっていけ。医者は私が呼ぶ」

「ふぅ、ありがと」

「俺の右手もまた作ってくれ! もう動きそうにねーだろ!?」


 光平の言う通りで、右手の五指は不完全になり、関節も戻らなくなっていた。


「今度はもっと丈夫にしてもらおう!」

「あぁ、よろしく頼むぜ!」


 光平と幸蔵は、安心もあったのか高笑いをした。


「ふぅ、呆れる。ほら、さっさと雪月を上に運ぶよ……。その前に抱きしめてもバレないかな?」

「やめてください。俺が運びますので」

「ちっ、さっさと運びな」


 兎鞠は一足先に階段のもとに向かう。幸蔵は光平に肩を貸し、兎鞠の後を追う様に階段に向かう。


「よいしょっと」


 陽平は雪月をお姫様抱っこし、階段に向かって歩き出す。


「陽平……君……」


 雪月は寝言のように陽平の名を呼んだ。


「ん? 今、俺の名前を……」


 陽平はいつもと違う呼び方に、若干の違和感と嬉しさがこみ上げた。


「早く休ませてあげないとな」


 陽平は少し、歩く足を速め、階段を上っていった。

 …………。


「すまない。ここで良いかな?」


 幸蔵が案内したのは、日向親子が暮らすアパートより、何倍も良い部屋であった。


「全然大丈夫です!」

「ま、ここしかねーなら仕方ねーな」


 光平は相変わらず憎まれ口をたたく。


「私と雪月は隣の部屋にいるわ。陽平君、ちょっと向こうまで運んでくれる?」

「はい……、あの、君つけなくてもいいですよ?」

「さっさと運びな、陽平」

「対応はや!」


 陽平は指示されるがままに雪月を運び、再び自分の部屋に戻る。


「悪かったな、面倒ごと起こしちまって」


 光平は珍しく神妙な声色で陽平に話しかける。


「え、いや、俺は平気だけど幸蔵さんは――」

「良いんだよ、あいつは。謝りてーのはな、思念世界でのことだ。俺が戦った女、その……母さんに、千恵子にそっくりだったんだ」

「え、それって……」

「あぁ、もしかしたら、魔界に到達したことで、操られてるのかもしれねー」

「いや、でも……」


 ここで陽平は口を止めた。隣に住む千亜希の母であった。と父に伝えようとしたのだが、彼女が思念世界に入ったこと自体伝えてはならぬ気がしたのだった。それに父を全否定することも、陽平にはし難い行動であった。


「どうした?」

「ん、いや、なんでもない」


 陽平は適当にはぐらかし、布団に入った。


 …………。

 翌朝、父に揺すられ陽平は目覚めた。


「何だよ……?」

「勇仁が来たぜ」

「あ、そういえば忘れてた!」


 陽平は文字通り飛び起きると、隣の部屋にいると言われ、兎鞠と雪月がいる部屋に向かった。

 数回ノックをし、日向親子は部屋に入る。


「お邪魔します」


 襖を開けると、そこには眠る雪月を眺める勇仁がいた。


「勇仁……。お前もちゃんと脱出してたんだな?」

「……あぁ。それより、今回は話があってここに来た」


 最初から感じてはいたが、陽平は気を引き締めて勇仁の話を待った。


「俺は……このチームを抜ける」

「勇仁、本気なのか?」


 陽平は雪月を起こさぬよう、静かに問う。


「あぁ、俺は狭戸様を守れなかった。それに……。すみません。今日からは単独であっちの世界を調べます」


 勇仁は唇を噛みながら、光平に頭を下げる。


「ま、しゃーねーな。気が沈んだら戻ってこい。いつでもお前の席は開けておくからよ……。それにな、俺も一時離脱する」

「親父も!?」


 突然の告白に、陽平は少し声を荒げる。


「あぁ、なんせ右手がねーからな」


 光平はそう言うと、腕の通っていないシャツを揺らして見せた。


「ふぅ、それなら仕方ないわよね」


 兎鞠はすべてを分かり切っていたかのように、壁に体を預けながらそう言った。


「じゃあ……これからは俺と兎鞠さんだけなのか?」

「そうなっちまうな」


 光平はそう答えたが、勇仁はだんまりを決める。


「分かった。お前らがいねーうちに、もっともっと強くなって、俺がこのチームのエースになって待っててやる。……だから、ぜってぇ戻って来いよ」

「けっ、せいぜい張り切りすぎてへますんなよ」


 光平は襖をあけ、廊下に出ていった。


「……俺もそろそろ行く。じゃあな」


 勇仁は少ない別れの言葉で部屋を後にした。


「ふぅ、災難続きだねぇ。さてと、あたしも行く場所があるから、失礼するよ」


 あっという間に部屋には陽平と雪月だけとなった。


「ううん。ううん……」


 雪月は少しうなされているようであった。陽平はそんな雪月のそばにより、腰を下ろした。


「大丈夫だよ……。狭戸さんの、ゴホン、雪月の居場所は、ぜってぇ空けて待ってるから」


 陽平は力強くそう囁いた。彼女に言い聞かせるように、自分に誓いを立てるように。その言葉を聞いた雪月は、静かに寝息を立て、わずかに笑った。

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