第4話 離れる想い

 妹を監視する生活が続き、気がおかしくなり始めていた。何が本当で、何が嘘か。そんな精神状態になり始めていた。これならいっそ、敵なら敵と区別したいほどであった。

 そんな中、式はとうに終わり、学校は短い春期休暇に入っていた。


「お兄。起きて。朝だよ~」

「分かった。今起きるよ」


 ったく、休みなんだから寝ていても良いだろ。俺は朝からご機嫌斜めであった。妹をいかに遠ざけず、近づけさせずの中で、俺の精神は休暇を求めていた。


「ほら、お兄。買い物行くよ!」


 まだ階段を下りている途中の俺を催促する。俺はゆらゆらと洗面所に向かい、洗顔と歯磨きを済ませ、自室に戻って着替えた。


「お兄! まだ!?」


 階下からは彩照の怒号が聞こえてきた。


「今行くよ!」


 俺は服の袖に腕を通しながら、腹いっぱい声を出した。


「全く。のろまさんなんだから」


 彩照はすっかりお怒りモードだ。

 しかしこうして二人で買い物に行くのは久しぶりである。疑惑をかけている妹と行く買い物は、罪悪感が胸の奥をチクチクと刺しているようであった。

 十字路のバス停に着くと、二人でバスを待った。いつもなら、十字路を右に曲がった、山に着く前にあるスーパーで買い物を済ませてしまうのだが、隣町にできたショッピングモールに行きたいと言って、彩照が聞かなかったのだ。


「それで、そのショッピングモールとやらで、何を買うんですかね?」


 俺はかしこまった口調でそう言った。


「んーとね。いろいろ。かな?」


 なんだか無性に腹が立った。しかしこの腹の立ち方は昔と変わりない、俺の妹。といった感じであり、少し緊張感が解けた。

 しばらく待つと、排気ガスを出しながら、一台のバスがやってきた。俺たちはそのバスに乗り、隣町を目指した。

 見えてきたショッピングモールは、地元のスーパーの何倍もあり、俺は度肝を抜かれていた。それは彩照も同じだったようだが。

 隣町が終点となっており、バスに乗っていたほとんどの客がここで降りていた。中間あたりに座っていた俺たちは、人がある程度減るまで大人しく待った。


「うわー、蘭丘町らんきゅうちょうとはまるで違う!」

「確かに、俺らの地元とは比べ物にならないな」


 訪れた隣町「翡翠町ひすいちょう」は閑散とした住宅街とは対をなし、繁華街のような賑わいを見せていた。それもこれもショッピングモールのおかげのようだ。


「行こ、お兄!」

「おう。今行くよ!」


 先に歩き出した彩照の背中を追いかけ、俺も走り出した。駅からは数分も立たずにショッピングモールに着いた。中には、おしゃれな洋服店や、子供用のおもちゃ屋さん。スーパーも内在しており、子供から大人まで楽しめるショッピングモールとなっていた。休日には、ショッピングモールの中心部に位置している広場に、有名人が来たりする予定らしい。

 俺は彩照の要望に応え、連なっている洋服店を次から次へと回った。俺にはどの洋服店も同じに見えたが、女性からすると、それはまるで宝石がたくさん並んでいるのと同じなのだろう。現に彩照は目を輝かせながら店舗を行き来していた。この服も良い。あの服も良い。と、同じような店を見て回っていた。

 しばらく彩照の後を保護者のように付いて行き、純粋に楽しむ彩照の姿を見て、やはり俺は自分の妹を疑ってしまうほど病んでいるのだと分かった。

 一人考え込んでいると、紙袋にたくさんの洋服を詰め込んだ彩照がやってきた。


「お兄。これ持って~」


 やはり俺は荷物持ちらしい。俺は彩照の両手から紙袋を貰い受け、静かに彩照の背中について行った。

 それから数時間モール内を歩き続け、俺の両手は荷物でいっぱいになっていた。もうこれ以上持てない。というほど手が埋まっていたが、それでも彩照は買い物をやめなかった。これだからこいつの買い物に付き合うのは嫌なんだ……。


「流石に持てないか……」


 彩照は独り言のように呟くと、自分の両手も埋まるまで買い物を続けた。


「よーし、それじゃ帰ろっか!」

「や、やっとか……」


 これは明日筋肉痛だな……。そんなことを思っていると、あかりと黒澄の姿が目に映った。二人も流行に乗ってここに来たらしい。俺がよろけながら荷物を運んでいたせいか、通りすがる人は俺の姿を面白そうに見た。そのせいか、あかりと黒澄もこちらに気が付いた。あかりがこちらに来ようとすると、黒澄はあからさまに嫌そうな顔をして、渋々俺のほうに歩いてきた。


「荷物持つの手伝おっか?」


 あかりは予想以上に俺の顔に顔を近づけた。疑問の最後に頭をわずかに傾けると、ほの甘いシャンプーの匂いが、無抵抗の俺の鼻を通って行った。


「あたしは手伝わないからね?」


 黒澄は、あかりの匂いに夢中だった俺の顔を、蔑むような目つきで睨んだ。あかりはそんなことはまったく気にしない様子で、俺の両手から紙袋を一個ずつ取っていった。そして黒澄に渡した。


「はい! これくらいなら持てるでしょ?」


 紙袋を無理矢理黒澄に渡した。当然黒澄に拒否権はあったが、舌打ちを一度鳴らしただけで、黒澄はその二つを持って歩いて行ってしまった。


「それじゃ、その代わりに私がいっぱい持つね~!」


 あかりは重いものを選び、両手に一つずつ持った。数歩俺の前を歩いたが、一歩進ごとによろけるあかりを見て、俺はすぐさま重い荷物を回収した。


「重いのは、俺が持つから良いよ!」


 そう言いながら、俺は紙袋を持ち直した。


「え、でも巴ちゃんは二個持ってるから、私も二個は持つよ!」


 あかりはそう言って聞かなかった。今朝彩照にごねられたのと同じように、彼女が引き下がることは無かった。結局軽い二つをあかりに渡し、四人でバスに乗って帰った。車内では当然静かにするのが礼儀だと分かってはいたが、前に座るあかりを見ていると、なにか話題を見つけなくてはと、必死になっている自分がいた。


「何考えてるの、お兄~」


 横に座っていた彩照が、俺の目使いで気付いたのか、小声で話しかけてきた。


「別になんでもねーよ」


 俺も前の二人に聞こえないように小声で返した。


「ふーーん」


 その時の彩照は、勝ち誇ったような表情を浮かべていた。まるで俺の気持ちが分かっているかのようであった。

 しばらくバスに揺られ、その間前の席ではひそひそと会話しており、その二人を見る俺を、彩照がクスクスと笑いを堪えながら細目で見ていた。

 バスは十字路に着き、いつものようにそのバス停で降りた。家まで運ぶと言い出し、もちろん俺が断ろうが、さっさと歩いて行ってしまった。あかりは彩照と横に並び、俺の先を歩いていた。そしてあかりと俺の前後間に黒澄が歩いていた。俺は少し歩くペースを上げ、黒澄に追いついた。黒澄は嫌そうに少し横に一歩ずれた。


「白羽根とはあの日から仲良くなったの?」

「……」

「あぁ、ごめん。俺は大神真也。よろしく」

「……。今日これを家に運んだら、こないだのことはチャラだからな……」

「お、おう」


 黒澄から出た意外な一言に、俺は少しどもった。あかりと話していた時もそうだったが、黒澄は貸し借りが嫌いなのだろうか。俺も好きというわけではないが、人間助けあっていく生き物なのだから、多少は仕方ないのに……。黒澄の横顔は、チャラついた外見とは異なり、か弱い乙女の顔を覗かせていた。

 結局あかりと二人きりで会話をすることは無く、自宅に到着してしまった。荷物を玄関に置き、二人を見送った。


「あかりさん良い人だよね……」


 彩照から漏れた何気ないその一言は、どこまでも無限に続く井戸にコインを投げ入れたように、暗く深い印象を俺に与えた。無意識に言ったのか、故意に言ったのか……。どちらにせよ、その言葉はまるでこれからのあかりの未来を知っているかのような口調であった。

 それ以降も、彩照は俺の気に触れるようなセリフを何度か口にした。そのすべてが、俺の思い過ごしならいいのだが……。

 短い春休みを終え、四月を迎えた。始業式の一日前に入学式が行われ、翌日から俺らが登校することになっている。彩照はまだ高校には入学しないので、俺は入学式に出るつもりは無い。しかし何を思ったのか、卓人は入学式に出る。と言って、昨日も学校に行っていた。


「入学式はどうだった?」


 俺は登校中、卓人に尋ねた。


「どうもこうもねーよ。クソつまんなかったよ」

「やっぱりな。だから言ったんだよ」

「つまんなかったとは言ったが、可愛い子は何人かリサーチしてきたからな」


 卓人はそう言うと、横目をギラつかせて俺を見た。久しぶりに見たどや顔であった。


「そ、そうか……。よかったな……」


 俺は少ししり込みしながら答えた。

 卓人の口は止まらず、多分あの子は何組だ。そしてあの子は何組だ。と卓人好みの子がどのクラスになるかの予想を永遠と聞かされ続けた。俺が聞き飽きてきたころ、ようやく学校が見えてきた。学校が見えたことが、始めて嬉しく思えた瞬間であった。


「なぁ、聞いてるか?」


 卓人は不満そうに俺に問いかけた。


「あぁ、聞いてるよ」

「嘘つくな! 棒読みだぞ」

「そ、そんな馬鹿なー」

「はぁ、俺が悪かった。もうくだらない予想話はやめますよ~」

「そうだそうだ。そんな話より、今日でお別れかも知れないんだぞ?」

「あ、そっか。クラス替えか……。じゃあな親友! 大神真也よ!」


 そう言うと卓人は走っていった。しばらく走ったところで止まると、再び走って俺のもとに戻ってきた。


「おい、なんで止めないんだよ!」

「え、だって、あっさり俺のこと見捨てたやん?」

「はぁ、分かってねぇな~。そんなんじゃ彼女出来てもすぐ離れちまうぞ~。あ、その前に彼女なんて出来ないか!」


 卓人は笑いながら俺の横を歩いた。この言葉は、思いのほか俺の胸に刺さった。俺が鈍感だったから、あかりを助けられなかったのかもな……


「あれ、真也? え、ごめん。結構キタ?」


 俺がだんまりを決め込んでしまったので、卓人は心配して俺の前に立った。


「あ、いや、こっちこそすまん。お前の言う通りかもな。って思ってたところだよ」

「そ、そっか。だとしても言い過ぎたよ。ごめんな親友」


 卓人はそう言うと、俺の肩に手を回し、話を続けた。


「しんみりしないでさ、また俺らが同じクラスになることを祈ろぜ!」

「あぁ、そうだな」


 流石卓人。気さくな奴だが、空気が読めるいいやつだ。俺も親友の肩に手を回し、まるで酔っ払いのように下駄箱までの道を歩いて行った。

 長ったるい始業式が終わり、一度一年時の教室に戻った。机には一枚の紙が置いてあり、そこに新しいクラスが記されていた。もちろん俺はこの紙の結果を知っている。


「おぉ! また俺ら一緒じゃん!」


 卓人は飛びながら喜んでいた。


「おう。やったな!」


 俺は精一杯の演技をした。結構棒読みだったが、卓人は気づかず他の友人のところに走って行ってしまった。俺も不審がられないように卓人に付いて行くべきだったのかもしれないが、俺はひとまず先に、あかりの名前を確認した。その名前はしっかり俺と同じ、二年二組に記されていた。俺はほっと胸を撫で下ろし、卓人やほかの友人が集まる場所に向かった。

 ピンポンパンポーン。


「生徒たちは、速やかに新しい教室に移動してください。繰り返します……」


 校内放送がかかった。なかなか移動を始めない生徒たちを促すためだろう。生徒たちは渋々移動を始めたが、固まってゆっくり移動しているせいか、あとが詰まり、結局移動には数十分かかってしまった。

 新しいクラスには、俺と卓人以外の生徒が全員集まっており、申し訳なさそうに俺と卓人は教室に入った。

 見慣れた窓際の席に、前の席は卓人、右隣は黒澄、そしてその横に、あかりがいる。新しいクラスに興奮しているのか、あかりは目をキラキラと輝かせている。これは鮮明に記憶に残っていた。


「それじゃあ、まずは点呼をとるぞ~」


 体育の教師で、やけにガタイが良い懐かしの担任が、一人一人名前を呼んでいき、全員の名前が呼び終わった。相変わらず声がでかかった。


「えー、それでは。今日はこれで終了だ!」


 担任のその言葉に、生徒は一斉に立ち上がった。部活に行くもの、帰宅するもの。様々ではあったが、いつの間にか教室には、俺とあかりの二人きりになっていた。


「あ……」


 あかりと目が合い、二人とも、話題を探し始めた。


「その、おんなじクラスになれたね?」

「あ、うん。そうだね」

「私は嬉しかったなぁ~。なんて」

「お、俺も嬉しいよ!」

「え、ほんと?」


 あかりは頬を赤く染めた。自分で話を振ったのに、自分が辱めを受けてしまっている。


「ほんとだよ。嘘はつかないよ」

「むぅ~。信じるからね?」


 あかりは赤らんだ頬を膨らませながら、俺を言及した。


「あぁ、信じていいよ。君には嘘をつかないよ」

「そっか……。じゃあさ――」


 その時、教室のドアが開いた。


「あかり! いたいた。もう、吹部のみんな待ってるよ?」


 吹奏楽部の友達が、あかりを迎えに来た。


「あ、うん。ごめん! すぐ行く!」

「は、話は今度にしようか?」

「うん。そだね。それじゃ、私いくね」


 あかりはそう言うと、スカートをひらつかせ、教室から出て行った。

 俺はなぜか安堵感に包まれた。それはあかりに隠し事があったからだ。彼女が今年死ぬなんて、口が裂けても言えなかった……。


「真也!」


 ドアが勢いよく開き、卓人が教室に入ってきた。


「うわっ! なに!?」

「はぁはぁ。……。今日、先帰っていいよ」

「え、えーっと。それだけ?」

「うん。それだけ」


 卓人は満足げな笑顔を浮かべながらそう言った。


「今日は部活に出るってことだな?」

「あぁ、そう言うことだ!」


 卓人は要件を俺に伝えると、走ってグラウンドに向かった。


「そそっかしいやつだな……」


 急に来た卓人に体は少し強張っていたが、誰もいない教室に、窓越しで散る桜の花を見て、大きなため息を一つついた。

 教室を出ると、窓の向こう側の実習棟に目が行った。一つ上の階、つまりは図書室前の廊下である。そこに二人の人影が見えた。それは部活動中のはずのあかりであった。もう一人は図書室に入ってしまい、良く見えなかったが、髪の長い女性のように見えた。

 気になった俺は、図書室まで様子を見に行くことにした。渡り廊下を行き、そして実習棟の階段を上がった。廊下にはすでに誰もおらず、見た限り図書室の電気も消えているようだ。廊下では吹奏楽部の演奏だけが響き、人の話し声が聞こえてくることもなかった。

 念のために図書室を覗いたが、やはり中には誰もいなかった。入れ違いで音楽室に戻ってしまったのだろうか。図書室前の窓から、教室棟のほうも見てみたが、どの階にも人影は無かった。


「あれは見間違いだったのか……?」


 思いにふけっていると、吹奏楽部の演奏が止まっていることに気が付いた。休憩時間に入ったのだろうか。俺は静かな廊下を歩き、三階の渡り廊下を使用し、教室棟に向かった。すると、後ろからする高い声が俺を止めた。


「大神君!」


 あかりが走ってきた。やはり吹奏楽部は休憩中だったらしい。


「休憩中?」

「はぁはぁ。うん。そうだよ」

「どうしたの、そんなに急いで?」

「大神君が見えたから。何してるのかなって」


 あかりは息を上げながら、歯を見せて笑っていた。


「俺はこれから帰るところだよ」

「そっか、でもなんで実習棟に?」

「あ、あぁ。図書室前に人影が見えたんだけど、それが白羽根に見えたから、何してるのかなって」

「あ、そのこと? 図書室の前で委員の人が立ち止まってたから、図書室のドアを開けてあげただけだよ?」

「そっか。何も無かったならいいんだ」

「うん。特に何も無かったよ」


 しばらく沈黙が渡り廊下を流れた。


「えっと、それじゃ俺は帰るよ」

「あ、え、うん! そうだよね、それじゃあまた明日ね!」

「うん。また明日」


 あかりは何かほかのことを言おうとしていたが、それを飲み込んで音楽室に戻ってしまった。振り返る間際のあかりの顔はどこか切なそうであった。

 再び渡り廊下を歩き始めたとき、下から視線を感じ下駄箱のほうを見た。するとそこには天峰先輩がいた。遠目からでもはっきりと分かる先輩の顔立ちは、少し微笑むと俺を呼ぶように手招きをした。明らかに俺しかいないので、俺は急いで下駄箱に向かった。


「どうかしたんですか?」


 俺は靴の踵を踏みながら外に出た。


「あら、ずいぶん早かったわね?」

「先輩が呼んでいたので……」

「嬉しいわ。少し話があってね」

「はい?」

「この間の借りを返そうかと思ってね?」

「あ、あぁ。そんな話ありましたね~」

「別に返してほしくなければ返さないわよ?」

「い、いや。それはまぁ……」

「ハッキリしない子ね。まぁいいわ。また今度話しましょ」


 きつい言葉を発しながら、綺麗な髪を大きく振り、校門に向かって歩き始めた。


「あ、帰るんですか?」

「えぇ、それ以外何か?」

「何もないです!」


 どうも先輩の雰囲気には付いて行き難い。


「そうね。では私が紅茶でも淹れましょうか?」

「えーっと、どこでお淹れになるんですか?」

「貴方の家よ」

「いやー、それでしたらまた別の機会にお願いしても良いですか?」

「えぇ、私はいつでもよろしいわよ」

「あ、ありがとうございます!」

「あと、そんなに畏まらなくてもいいわよ?」


 と、先輩は俺に顔を近づけて、真っ黒な瞳で俺の目を見つめた。


「は、は、はい……」


 近くで見れば見るほど、先輩は綺麗な顔立ちをしていた。肌は絹のように白く、光沢があり、鼻は高く筋が通っており、時折唇を舐める仕草が、女王気質を漂わせていた。


「それでは、また後日」


 そう言うと、俺が返事をする間もなく、先輩は帰ってしまった。苦手意識を持っていたが、話してみると意外にいい人なのかもしれない。

 俺は先輩のことで頭がいっぱいになりながら、校門を通った。すると黒澄が校門に寄り掛かっていた。


「あんた、あいつと仲いいの?」


 通り過ぎようとした俺に、黒澄から話しかけてきた。


「いや、そんなに仲が良いわけでは……」

「へぇ~。あんなに鼻の下伸ばしておいてね……」

「い、いや! 別にそんな目では見てないよ!」

「あっそ、まぁ良いけどさ。あんまりあかりに気を遣わせるなよ」


 黒澄は渡り廊下のほうを見ながらそう言った。俺は黒澄の視線に誘われるがままに、その方向を見ると、渡り廊下に佇むあかりの姿が目に入った。


「あ……。勘違いしちゃったかな……」

「どうだろうね。でも、知っての通り、あの子は勘違いをよくする子だよ」


 黒澄はその言葉を言い残し、俺の前を横切って行った。


「あ、ありがと……」


 礼を言おうとしたときには、黒澄の背中は遠くに行ってしまっていた。再び渡り廊下に視線を戻したが、あかりの姿はもうそこには無かった。

 心はスッキリしないまま、俺は帰宅した。彩照はまだ帰宅しておらず、俺はいつも通り、鞄から鍵を出して、玄関を開け、手洗いうがいを済ませ、自室に籠った。

 下校時間をとうに過ぎているにも関わらず、彩照は帰ってこなかった。彩照も中学三年生になり、部活動で後輩に教えることがいっぱいあるのかもしれない。しかしそれにしても遅かった。

 連絡もないまま夕飯時を迎え、俺は致し方なく、コンビニに向かう準備を始めた。そこまで寒くもないので、部屋着から少し厚めの服を選び、靴を履いた。ドアに手をかけようとしたとき、ゆっくりとドアが開いた。戸締りを忘れていたのかと一歩退いたが、開いたドアの向こうには大きなエナメルバッグを持った彩照がいた。


「た、ただいま……」

「おう。遅かったな……」


 彩照は気まずそうに俺の横を通り過ぎてリビングに向かってしまった。元気がない妹を心配して、俺もリビングに戻った。


「おい、大丈夫か?」

「うん。大丈夫だよ……。ご飯はコンビニででも買って来て。私のはあるからいいよ……」


 彩照はとても疲れているようだ。これ以上口を出さないほうがよいと、俺の勘がそう言っていた。部活であんなに疲れるなんて考え辛いが、責任感のある彩照なら無いことも無いか……。俺は複雑な感情のまま家を出た。

 今夜は弁当購入者が多かったようで、俺のお気に入りのカルビ弁当はすでに売り切れていた。仕方なく残っているのり弁当を買い、足早に帰宅した。

 リビングに彩照の姿はなく、キッチンのゴミ箱には、スーパーで買ったと思われる、安物の弁当の容器が捨てられていた。晩御飯はしっかり食べたようだ。気が緩んだのか、急に腹の虫が鳴った。俺も相当腹が減っていたようだ。それもそのはずで、時刻は八時になろうとしていた。

 黙々と弁当をむさぼり、物の数分で食べ終わってしまった。正直空腹は満たされてはいなかった。食べ終わりと同時に、リビングのドアを開けて彩照が入ってきた。俺と目が合うと、口を尖らせてリビングには入ってこなかった。


「風呂、空いたよ……」


 彩照はそう言うと、階段を速いテンポで上り、自分の部屋に籠ってしまった。せっかく伝えてくれたので、俺は早速風呂に入ることにした。

 浴室は湯気で満ちており、いかにも誰かが前に入っていた状態そのままであった。つまり寒さをあまり感じず服を素早く脱げた。


「ふぅ~。いい湯だな~」


 久しぶりの学校で俺も疲れが溜まっていたのか、思わずおやじ臭いセリフが口から洩れてしまった。肩まで浸かり、体の芯まで十分に温まった。そろりと片足を浴槽から出すと、足先から徐々に冷えてくるのが分かった。春になったとは言え、全裸では厳しいものがあった。

 湯冷めしないように体を手早く拭き、パジャマを身にまとった。灰色の薄い長袖長ズボンで、暑い時もあるが、今日は気候に合った服装に思える。

 リビングでの用を済ませ、歯を磨いて自室に戻った。毎日のことをつぶさに記録しているノートを取り出し、数日振りに濃厚な内容をノートに綴った。今日は進級して、あかりと再び同じクラスになり、先輩に絡まれ、黒澄にも絡まれたな……。そしてそこをあかりに見られたな……。変な勘違いをしていなければいいが……。

 それから数日間、彩照の帰りが遅い日々が続いた。流石に一週間近くこの生活が続いているので、俺は彩照を問い詰めてみることにした。


「最近帰り遅いな、部活忙しいの?」

「あぁ、うん。まぁそこそこ」


 彩照は口に白米を含みながら答えた。俺は箸を止めて話しかけたが、彩照は止める気は無いようだ。


「あの、真剣な話なんだけど?」

「珍しい、お兄が真剣な話なんて」

「あのな、俺もお前の兄貴として――」

「そんなこと言って! 何も分かってないじゃん!」


 箸を机にたたきつけ、リビングの扉を壊れるほど大きな音を立てて閉め、階段を駆け上がって行ってしまった。


「俺の……せいなのか……?」


 また悩みの種が一つ増えてしまった。リビングに食べかけの食器を残し、彩照の部屋前まで行くことにした。


「彩照、ごめんって。もう一度話そう!」

「話したってなにも変わらないよ……」


 俺に届くか届かないかの、境をさまようような声であった。


「悪かったって。なんか気に障ることをしたなら謝るよ!」

「そういうことじゃないの……」

「じゃあどういう……」

「こないだ、ちょうど一週間前くらい」


 彩照は徐に話し始めた。


「学校の帰り道、少し遅くなったから急いで家に向かってたんだけどね……。十字路の公園にあかりさんがいたの。泣いていたわ」

「え……本当か……?」


 丁度一週間前となると、俺が先輩に絡まれた日だ……。やっぱり勘違いしていたようだ。


「本当だよ。言わないでほしいって言われてたけど、傷ついているあかりさんを放って置けないもん」

「そっか……。ありがとう彩照。あと、ごめんな」


 俺はそう言い残し、あかりの家に向かって走り出した。今日も今さっき彩照が返ってきたところなので、あかりも今頃帰宅しているはずだ。俺は無我夢中で走った。早くあかりの誤解を解かなくては。早くあかりに会いたい。早くあかりの声を聴きたい。俺の想いは体とともに、あかり宅前に到着していた。家の前に立つと、走った疲れか、はたまた緊張からか、俺の指先は震えていた。そしてその指でインターホンを押した。


「はい? どちら様?」

「えーっと、大神です。あかりさんの幼馴染の……」

「フフフ。また騙されたね? 私だよ」

「え……?」


 あかりはよく親の真似をしてインターホンに出た。今回もまんまと俺は騙されたようだ。

 俺が立ち尽くしていると、部屋着姿のあかりが玄関から顔をひょこりと出した。


「こんばんわ。寒いでしょ、中入って行ってよ」


 あかりはそう言うと顔を引っ込めて、玄関は閉まりそうになっていた。完全に閉まる前にドアノブを掴み、あかりの家にお邪魔した。


「えーっと、上がっていいの?」


 俺はどうしたらいいか分からず、玄関で立ち往生していた。


「上がって良いって言ったでしょ?」


 あかりの声はリビングと思われる場所から聞こえてきた。曖昧な表現をしたのは、家の構造は俺の家とほとんど一緒なので、おそらく今あかりがいる場所は、リビングだと予想しての話だからである。


「夜分遅くにお邪魔します!」


 少し大きめの声で言ったが、すかさずあかりが答えた。


「家には私以外いないわよ~」


 その声は少し笑っていた。俺も不思議と笑顔になり、未だに綺麗なフローリングの床に足を着き、あかりの声がする場所を目指した。

 ドアは開けっぱなしになっており、中には冷蔵庫から何かを取り出すあかりがいた。


「誰もいないって――」

「ひゃっ!」

「あ、ごめん」


 あかりは腰を抜かして尻もちをついた。


「ごめんね。突然後ろにいたから驚いちゃって」


 あかりは後頭部を手でわしゃわしゃと掻きながら言った。


「こっちこそごめん。誰だっていきなり声かけられれば驚くよね」

「そうね。フフフフ」

「ハハハ。だよね」


 二人とも照れ隠しで笑顔になったが、どうもぎこちなかった。


「あ、そこにかけて」


 あかりは椅子を指さしながら言った。


「分かった」


 俺は素直に従った。何か手伝おうかと聞こうと思ったが、他人の家では図々しいと思ったからだ。


「はい。麦茶」

「ありがと。いただきます」


 器まで冷たくなりそうな麦茶をいただき、沈黙が訪れた。

 真っ白いキャミソールの上に、灰色のパーカーを羽織っている。正直とてもエロい。しかしその反面、目のやり場が無く、逆に挙動不審になってしまった。


「どうしたの? 寒い?」

「あ、あぁ。いや、そういうわけじゃ……」

「でも、キョロキョロしてるし、なにか探し物?」

「あ、いや、えと、その。話題? なんちゃって」

「えぇ~、何それ。真ちゃんらしくない」


 そう言うと、あかりは間違いを訂正するように、焦って言葉を続けた。


「あ……。ごめん……。その……」


 幼いころ、俺とあかりは下の名前で呼び合っていた。最終的にあかりは、真ちゃんという愛称で落ち着いたのだ。


「えっと、俺らしくない。か」

「え、そこなの? 今のは良いの?」

「あ、あ、あかりなら……いいよ……」

「……。あり……がと……」


 雰囲気は良くなってきたものの、今度はお互いに羞恥心が勝ってしまい、次の言葉が出てこなくなってしまった。


「そ、そう言えば。なんで今あかり一人なの?」

「実は、私を置いて旅行に行っちゃったんだよね~。本当は私も行くはずだったんだけど、やっぱり勉強は大事かなって思ってさ」

「そっか……。実は俺の家も今両親とも仕事で海外に行っててさ、家では彩照と二人きりなんだ」

「えぇ~! そうだったの!?」

「うわっ、そんな驚くこと?」

「だって今一人きりってことでしょ!?」

「ま、まぁ。そういうことになるけど……」

「早く帰ってあげないと!」


 あかりは立ち上がり、せかせかと準備を始めた。


「ちょ、なんの準備!?」

「え、何って。泊まりに行くんだよ?」

「えぇ~~!?」


 結局成り行きであかりはうちに泊まることになった。彩照もそれで機嫌を取り戻したようで、あかりと一緒に帰宅したときは、普段のテンションに戻っていた。


「部屋はどうすんの?」


 リビングでゆっくり茶を飲みながらくつろぐ二人に聞いてみた。


「はぁ? お兄の部屋にでも行くと思った?」

「いや、そんなことは考えてはいなかったけど!?」

「え、なになに? なんでそんな焦ってるの?」


 彩照はここぞとばかりに煽ってきた。正直薄い期待は持っていたので、ショックも大きかった。あるわけが無かったのだが。


「私は別に……」

「え、ちょっとあかりさん。本気?」

「あ、アハハ~。なんちゃって~」

「だよね~。アハハ~」


 完璧に女子会が始まっている。俺の付け入る隙は無さそうだ。


「それじゃ、俺は部屋に戻るからな。二人とも夜更かしすんなよ?」

「は~い。言われなくても~」

「うん。おやすみなさい」


 全然二人は思っていないだろうが、俺は今、なんだか一家族になったような気になった。小生意気な娘に、優しい妻。ありふれた家庭のような温かさを感じ、俺は部屋に戻った。

 間もなく二人も部屋に戻ったようで、部屋からは話し声が聞こえてきた。女子が二人でも揃うと、相当声がデカくなるらしい。内容はなるべく聞かないようにし、俺は早めに眠ることにした。


 夜も深まり、深夜に目覚めたときは、隣の部屋も静かになっていた。ふと目覚めてしまった俺は、トイレに行こうと体を起こそうとしたが、なぜか仰向けに寝転がったまま、身動きが取れなかった。あぁ、これが金縛りか。と、俺は人生初の金縛りに興奮したのも束の間、真っ暗にして寝ている弊害が今起きてしまった。誰かに侵入されている。


「はぁ、はぁ、はぁ」


 相手の息はとても荒い。今にも殺されそうだ。


「くそっ、はな――」


 叫ぼうとした瞬間、顔を抑えられ、俺にかかる体重が増した。前かがみになったようだ。俺は必死に抵抗したが、そのまま唇を奪われた……。うん、唇?


「ん。ちゅ。はぁ」


 俺はされるがままに、何度かキスをされた。そして俺はいつの間にか抵抗することを止めていた。暗闇に慣れてきたのか、だんだん周りが見えてきた。キスを終え、離れた瞬間に顔を確認してやろうと企んでいたが、そのまま抱擁されてしまい、顔を見る隙は無かった。少し冷え込む夜だったからだろうか。相手の体はやけに火照っていた。頬と頬が触れ合い、その熱で俺の体も火照り始めていた。

 俺はすっかり襲われていることを忘れ、馬乗りになる相手が落ち着くのを待った。その間。抱きついて来た相手は、耳元で何かを囁いていた。


「ごめんね……。ごめんね……。相手がいるって分かっていても、自分を止めることが出来なかったの。本当にごめんなさい……」


 耳元でそう囁くと俺の顔の横に手を着き、立ち上がろうとした。俺はその両手を掴み、逃げられないようにした。


「ひゃ!?」

 明らかに女性の声であった。相手は顔を見られまいと左右に何度も首を振った。しかし俺はもう気づいていた。声で気付いてしまっていた。


「あかり……」


 暗さに慣れた目には、涙を目いっぱい含んだあかりの姿が見えた。バレないようにフードを被ったのかもしれないが、今さっき見たパーカーを忘れることもなく、それは裏目に出てしまっていた。


「いじわる……。聞いてたの……?」

「うん。全部……。ごめん……」

「それじゃあ、私戻るね……」

「待って、もう少しだけ……」


 俺はあかりを引き寄せて抱いた。しかしあかりは泣いていた。俺に聞こえないように泣いているのだろうが、すすり泣く声は耳元で続いた。


「それじゃあ……」


 一分経つか経たないかで、あかりは俺の手を抜けた。


「うん。このことは……」

「そうだね。もちろん忘れて……」

「え、忘れるなんて――」

「いいえ、忘れなきゃ。私が怒られちゃうもの……」


 あかりはそう言うと、俺の部屋から出て行ってしまった。俺は全身から力が抜け、深いため息を一つ、天井に吐いた。


「そうだ、トイレに行こうとしていたんだったな……」


 今にも洩れそうだったので、俺は急いでトイレに向かった。

 翌朝、俺はどんなテンションでリビングに入ればいいか分からず、しばらく自室に籠っていた。時計を見ると、既に七時半を回っていた。八時には家を出ないといけないので、俺は気合を入れてリビングに向かった。


「おはよ~」

「あ、おはよう」


 あかりはあまり気にしていないようだ。それどころか、彩照は昨日の出来事をまったく知らないんだよな……。口を滑らせないようにしないとな……。


「おはよ。いやぁ、良く寝た」

「ほんとだよ。もっと早く起きてきてよね。あかりさんもいるんだから」

「い、良いんだよ私なんて気にしなくて!」


 あかりは謙遜した。しかし昨夜のセリフが俺の脳内に蘇った。


「――忘れなきゃ――」


 あれは俺に言っているようだったが、自分に言い聞かせていたのか……?


「お兄、早く座りなよ?」

「お、おう」


 あかりは当然彩照の横に座った。俺はあかりを直視出来ず、ずっと俯いて食器とにらめっこを続けた。


「ご馳走様でした」


 全員で声を合わせて食事を済ませた。一人増えただけで食事は何倍も美味しく感じられた。


「私先に行くね~」


 彩照はさっさと準備を済ませ、出て行ってしまった。あかりと二人きりにされてしまった。


「そ、それじゃ、行こうか」

「うん。行こっか」


 普段より長く感じる登校。こういう時に限って現れない卓人と黒澄。この最高に気まずい雰囲気をどうすればいいんだ……。


「あの~、昨日の夜のことなんだけど……」

「……。どうしたの?」

「いや、俺としては、簡単に忘れられる出来事ではないというか……」

「……。そうだよね。私もだよ」

「だから、忘れろとか言わないでほしいんだ」

「私だって忘れてほしくないよ。でも、君はいつか忘れちゃうよ……」

「あ、いや……」


 情けないことに、言葉が出なかった。俺の中で、何かが揺らいでしまった。あかりへの愛が揺らいでしまったのか。俺の忘れないことへの自信が揺らいだのか。いずれにせよ、今の俺ではあかりは守り切れないという確信が生まれてしまった。あかりは止まらずに歩いて行った。俺を置いて、振り向きもせず、真っすぐに……。


「うぃ~。どした相棒!」


 俺の肩を強く叩き、俺の肩に手を回してきた。卓人であった。


「どした、しけた面して?」

「いや、何でもないよ。なんでも……」

「え、なにそれ。絶対なんかあるパターンじゃん!」

「本当に何でもないよ……」

「まぁ、その目の下のクマを見れば、寝不足だって俺には分かるけどな!」


 卓人は満足げに笑いながら、俺の横を歩いてついてきた。こいつは俺の味方でいてくれるよな……。きっと……。

 学校はあっという間に終わっていた。夢現で全く授業の内容が頭に入ってこなかった。教室には誰一人として残っておらず、静かな教室に俺はただ一人取り残されていた。ここのところ卓人は真面目に部活に行ってしまうし、あかりとは当分口を聞けそうにないし、黒澄は元々仲良くないし、彩照はハッキリしないけど怪しいし。俺はどうしたらいいんだ……。

 ガラガラ!

 勢いよく教室の扉が開き、小さい女子生徒が俺の視界に飛び込んできた。


「はぁ、はぁ、いました!」

「えーっと……。誰?」

「ノー! 忘れたんですか!?」

「はい。すみません」

「私です。わたし! グラウンド見てた!」

「あぁ、あの子か!」

「思い出しましたか?」

「うん。覚えてる覚えてる。本当にうちに入学したんだね」


 俺は久しぶりに来た賑やかな客に、すぐに笑みをこぼしてしまった。


「はい。ここに入れたのも、ほとんどスポーツ推薦みたいなものですけどね」


 確か百野木と言っていた中学生だ。すぐに面白い噂が立つ。それにしてもどこか雰囲気が違うような……。


「なんですか? そんなに見つめちゃって?」

「うおっ! 近いよ!」


 いつの間にか俺の目の前まで来ていた。


「私の顔を見るから、そんなに見たいなら近くで見せてあげようと思って!」

「そういうわけじゃ無いから!」

「えぇ~。私ブスですか?」


 いきなり涙目になってしまった。


「いやいやいや。そういうわけでもなくて。前にあった時より雰囲気が変わったなって思ってたんだよ」

「あ、気づいちゃいました?」

「はい?」

「私、入学して髪下ろしました!」

「それだ!」


 以前あったときは、お団子ばかりに目が行っていたが、ほどくと肩なんて余裕で届いちゃうんだな……。


「え、気づいてなかったんですか?」

「え、えーっとまぁ、薄々……」

「ふーんそうですか。まぁこの際どうでもいいですけど」

「で、俺に何の用?」

「それがですね、私に勉強を教えてほしくて!」

「クラスの子に頼んで下さい。それでは」

「そんなこと言わないで下さいよ~。先輩~」

「じゃあ、なんで俺なのか理由を教えてよ」

「そ、それは……及川先輩に言われて……」

「卓人!?」

「はい……。その、私及川先輩が好きで、アタックしたんですけど……。『勉強なら、俺の友達にいい奴いるから紹介するぜ!』って追い返されてしまって、その人が先輩だったわけです……」

「なるほど。卓人も馬鹿だな。可愛い子には目が無いとか言ってた癖に」

「へ!? 可愛い!?」

「あ、あぁ、いや、なんでもないよ?」

「可愛いって言いましたよね!?」

「まぁそこは置いといて! 本題に入ろう」

「え、勉強ですか?」

「それ以外ないだろ?」

「やりたくないです」

「え、そっちから言ってきたのに?」

「私は及川先輩に近づきたいだけなんです!」

「いや、そんなどや顔で言われても……」

「だーかーらー。勉強は勉強でも、及川先輩の勉強です!」

「なるほど。そう来たか! まぁそれなら数日で済むし、やってもいいかな」

「本当ですか!?」

「あぁ、良いよ。俺も暇だし」

「やったー。やったー。わーい。わーい!」


 子供みたいにはしゃぐ百野木さんを見て、癒される俺であった。


「あ、でも先輩。私が部活ない日にお願いします」

「日にち言ってくれれば、ここで待ってるよ」

「わっかりましたー。それでは!」


 さすが運動部と言わんばかりのスピードで、部活動に戻っていった。今の会話で少し気が和み、俺は軽い足取りで帰宅した。

 家の鍵は珍しく開いていた。彩照が先に帰ってきているようだ。


「ただいま!」

「おかえり~!」


 彩照の声は二階からした。俺は靴を脱いで家に上がり、彩照の部屋まで行った。


「おーい。なにしてんだ?」

「何って、あかりさんがいつ来てもいいように掃除してるの!」

「おいおい、また呼ぶつもりか?」

「当たり前でしょ? 女の子が家で一人とか危険すぎ!」

「た、たしかに……」

「はい。じゃあお兄は自分の部屋にでも籠ってなさい!」

「言われなくてもそうするよ」


 面倒なことになったようだ。彩照は言い出すと聞かないからなぁ。あと数回は泊まりに来ることになるぞ……。

 俺の予想は的中し、それから二日置きぐらいであかりが泊まるようになった。俺はいつものように会話してくるあかりに、だんだん距離を感じていった。俺はあの日のことがいまだに忘れられないのに、あかりは平然と俺の前で、俺に普通に話しかけてくる。忘れたいならあんなことしてほしくなかった……。

 あの日以来、俺はあかりの前で本当の笑顔が出なくなった。あかりも同様で、俺に向ける笑みは、どこか作った笑いのように寒くなってしまった。

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