第3話 疑惑と手掛かり
三学期が始まり、数日が経過した。周りを気にしながら生活していたが、これと言って怪しい人物には遭遇していなかった。犯人が女なのは確実であったが、異性ということもあり、なかなか情報収集が上手くいっていなかった。
「おい、そろそろ帰ろうぜ?」
卓人が俺の顔を覗き込んでいた。
「お、おう。すまん。少し考え事してた」
「へぇ~、珍しい。お前が考え事するなんてな」
俺よりも馬鹿な卓人に茶化されてしまった。しかしそんな卓人にも、俺がいつも通りでないことを悟られてしまっているということは、ほかの人からしても怪しく映ってしまう。作戦を立てるときは自室にいるときにしよう。
「悪かったな。それじゃ、帰ろうか」
帰り道でも特に不穏な影はなく。気づけば自宅の前まで来ていた。彩照は部活動があり、まだ帰宅していないようなので、鞄から鍵を出し、玄関を開けた。手洗いうがいを済ませ、俺は自室に籠った。
「もう一週間近く経つけど、何も変化がないな……」
ベッドに寝っ転がりながら独り言を呟いた。スマホを点けてみても、誰からの連絡もなく、進展のしようがなかった。それ以前に誰からも連絡が無くて少しへこんだ。
…………。
しばらく何も考えずに天井を眺めた。何かが浮かぶわけでもないが、考えていても何も浮かばないので、久しぶりに脳みそを無に帰してみた。ほんの数分ではあったが、体からすべてが抜け、俺の体は正真正銘無に帰した。これで脳がリセットされたのか、俺は大きなヒントを見逃していたことに気が付いた。
「あ、そういえば、あかりはあの女性と会話していたな」
俺に駆け寄ってきた後、女性のほうにも声をかけていたはずだ。ということは、狙われているあかり本人が、犯人と接触していることになる。なんで気が付かなかったんだ!
飛び起きて玄関まで颯爽と降り、靴を履いて外に出た。そしてそこでまた一つ思い出した。
「あ、あかり部活だ……」
寒い風が俺に吹き付けた。再び自室に戻り、ベッドに横たわった。
「メールでもしとくか」
俺はあかり宛てにメールを打ち始めた。
【この間のことなんだけど、不良に囲まれていた女性、どんな風貌だったか覚えてる?】
ま、こんな感じで良いだろう。あとはあかりからの返信を待つのみだ。
…………。
夕方五時を過ぎ、すっかり外は暗くなったころ、彩照が帰ってきた。ということは、そろそろ高校の部活も終わるころだろう。
「おかえり」
俺は階段を下りながら彩照に声をかけた。
「ただいま~」
久しぶりの学校と部活で、疲れているようだ。その姿を見て、さすがに晩飯を作らせる気にはならなかったので、
「晩飯、コンビニで買ってこようか?」
と、俺は聞いてみた。
「うん。それ嬉しいかも」
やはり疲労が溜まっているようだ。俺は部屋に戻り、温かい服装に着替え、リビングで休んでいる彩照に一声かけて、家を出た。
十字路を左に曲がるとすぐに、コンビニがある。このコンビニはつい最近できたばかりだが、ここら周辺にコンビニがなかったので、住宅街に住むほとんどの人が利用している。
まだ夜が深いわけでもなかったが、コンビニの前には高校生が溜まっていた。それも先日俺と対峙した四人組であった。とても入りづらい……。
自動ドアが開き、一人の女子高生が出てきた。なぜいつもタイミング悪く女が出てくるんだ。一度戦って分かっているが、あいつらなら然程強くない。最悪コンビニの前なので、捕まるのはあいつらだ。俺は覚悟を決めて一歩前に踏み出した。すると、
「姉御!」
「お疲れ様です!」
四人は二人ずつ挨拶をした。姉御と呼ばれる女子高生に向かって。
「なに。またあんたたちか」
姉御はだいぶ煙たがっているようだが……。そんなことより、あの姉御……。よく見たら黒澄じゃないか?
黒澄らしき姉御は、コンビニの入り口で不良に囲まれた。そしてそのさらに奥、コンビニの雑誌コーナーからその光景を見ていたのは、あかりであった。わたわたと慌てふためき、雑誌を置き、レジに向かった。店員さんに何か言っているようだ。店員さんは困ったような表情をしている。何を言ったんだろうか……。
何度か受け答えがあった後、店員とともにあかりがコンビニから出てきた。不良たちに何か言っているようだ。
「ちょいちょいちょい」
「違いますってば!」
「俺らなんもしてないっすよ!」
「ほんとほんと!」
お、今回は良いコンビネーションじゃないか。それにしても相変わらず声がでかい。駐車場に入ったばかりの俺のところまで聞こえてくるとは。
俺が感心していると、店員は店内に戻り、電話をかける動作をし始めた。四人組はそれを止めるように店内になだれ込んだ。入り口に残された二人は何か会話をしているようだ。しかしここからでは声が聞こえなかった。あかりは黒澄らしき人物の手を握り、熱心に話している。おそらくあかりが勘違いしてこうなったのだとは思うが、俺も買い物があるし、もう少し近づくことにしよう。
「なにもされてない!?」
「は? なんもされて無いけど……?」
「良かった~。あの人たち先週も女の人襲ってたから、見逃せなくて」
「襲う……? 私は襲われてたわけじゃ――」
「え!? もう何かされてるの!?」
「いや、そう言うんじゃなくて……」
近寄ったおかげで会話が聞こえてきたが、前から黒澄はあかりが苦手だったんだな。と、俺は教室の風景を思い出しながら微笑していた。
「あ、大神君!」
「え、あ、よう」
こんばんわ。と礼儀正しく言おうと思ったが、黒澄の前だからか、変な口調になってしまった。
「なんなんだよお前たち!」
黒澄は、握るあかりの手を振りほどいた。
「初対面なのに馴れ馴れしいな!」
「初対面!?」
俺は思わず声を荒げた。まさかこれがあかりと黒澄の初対面だったとは……。あかりの接し方からして、てっきりすでに友達なのかと思い込んでいた。
「え、あ、その。ごめんなさい! 私はあなたを救おうと思って……」
「別に頼んじゃいないだろ!」
黒澄は、茶髪のポニーテールを力強く振り、あかりとは反対の方向を向いてしまった。
「おい、初対面でそれも酷いんじゃないか?」
俺は悲しそうな瞳をする彼女を見て、無意識に弁護していた。
「なっ!」
黒澄は何か言い返そうとしたが、言葉が見つからないらしく、俺に論破された。
「あ、えと、どうしよ」
またもやあかりはわたわたとしながら、俺と黒澄の間を行き来していた。
店内は店内で、店員と四人組が揉めていた。
「……。ありがと」
黒澄は小声でそう呟くと、走って帰ってしまった。その言葉を聞き、あかりはその場に立ち止まり、その背中が消えるまで眺めていた。
「ねぇ、聞いたよね?」
「え? なにが?」
「あの子の言葉!」
「あ、あぁ。ありがと。って言ってたね」
「言ってたよね! うわぁ。嬉しいな~。ありがとう。って言われるとこんなに嬉しいんだね!」
「そうだね」
俺はそう言ってはしゃいでいるあかりを見ているのが、たまらなく幸せだった。もう一度こんなに弾けた笑顔を俺に見せてくれるとは、思ってもみなかった……。俺は少し涙ぐんでいた。あかりに見られてしまうかと思ったが、あかりは事の重大さに気づき、店内の鎮圧に向かっていたので、俺の涙は人知れず地面に染みを付けた。
四人組も無事に無罪となり、低レベルな罵声を喚きながら帰っていった。
「すみませんでした! 私の勘違いで!」
「いやいや、良いんですよ。僕たちもあの不良たちには困っていたので、いい機会でした」
店員は柔らかい笑みとともに、あかりに罪はないと許してくれた。
「ありがとうございます!」
あかりはペコペコと何度も頭を下げていた。その姿を見ていると、妙にほっこりと心が温まっていくのを感じた。俺はそのまま帰宅し、手ぶらで帰ってきたことに気づいたが、時すでに遅しで、彩照に怒鳴られ、再びコンビニに出向いたのであった。
寝る前にあかりから返信が届いた。
【帽子を目深に被っていたし、座って俯いてたから、顔と身長はよく覚えてないな~。あとは、髪の毛は私よりかは長かったかな?】
【そっか、ありがとう!】
深く追及はせず、返信した。曖昧な情報ではあったが、これを頼りに調査をしていこう。
…………。
翌日になると、コンビニ騒動が住宅街のマダムたちの間で噂になっていた。登校途中、住宅街を少し外れたところに住んでいる卓人も、その話をどこかで聞いたようで、俺に話を持ち掛けてきた。
「昨日近所のコンビニでひと悶着あったらしいな」
「あぁ。ちょっとな」
「え、なにその反応。お前が絡んでるの?」
「え、いや。そういうわけじゃ……」
「だよなー。お前そんな柄じゃないしな」
卓人は剽軽に話を括り、先に歩いて行ってしまった。
学校が見えてくると共に、多くの生徒たちが校門を通っている姿が目に映った。そんな中で、正門付近で立ち止まっている女子生徒が二人いた。あかりと黒澄のようだ。昨日の一件から一日も経っていないの、あかりは黒澄に猛アタックを仕掛けているように見える。
「昨日は悪かったね。それじゃ、私帰るから」
「え、ちょっと。学校は!?」
「めんどくさい。行かないよ」
「えぇ! なんのために来たの?」
「あんたにちゃんと謝るためにだよ。これで貸しは無しな」
「え、そんな貸しなんて……」
「それじゃ」
「待って、ちゃんと学校に来て……。そしたら貸し借りは無し!」
聞き耳を立てて近づくと、思いがけない会話が展開されていた。俺は無意識に歩くペースを遅めていた。
「はぁ……。お節介だな……」
「……。私が言っておいて難だけど、嫌なら無理に来なくてもいいよ……?」
あかりは帰ろうとしている黒澄の背中に向かって言った。
「いいよ。学校に来ればいいんだろ?」
「うん!」
そう言うと、黒澄は校門を抜けて下駄箱に向かって行った。あかりは嬉しそうにそれを追って行った。これが二人の出会いだったのだろうか……。変革を始めたこの世界では、以前と全く同じ出会いとは限らない。しかし黒澄とあかりを見ていると、どんな場面であれ、二人は絶対に出会っていたのではないかとも思えてきた。
「おい。なにちんたら歩いてんだよ。置いてくぞ?」
気づけば俺は立ち止まっており、卓人は数歩先に行ってしまっていた。
「悪い。ぼうっとしてた」
俺は卓人の横に戻り、下駄箱を目指して再び歩き始めた。
この世界の黒澄は、これからあかりに起こる不運を知らない。伝えるべきだろうか。考え辛いが、彼女が犯人ではないとも言い切れない。とにかく今は、不用心に周りを頼ることは出来ない。
それから毎日、校門を一緒に通るあかりと黒澄を目にした。そうしていつの間にか一月が終わろうとしていた。二月に入ると、三年生は自由登校になるので、注視することが難しくなる。とりあえずは、自由登校になってまで、登校してくるもの好きには目を光らせることにした。
二月に入り数日、三年生で登校してくる生徒は一人もいなかった。部活動の時間に指導をしに来る生徒はいたが、その人たちも毎日部活動に顔を出すわけではなかった。少し気を張り詰め過ぎているのかもしれない。犯人は校外の可能性だって――!? 気を抜いた一瞬、どこからか鋭い視線が俺の背中を刺した気がした。鳥肌を立てながら振り返ったが、校舎の窓にはこれと言って怪しい人物はおらず、やはり勘違いだったのかと、冷や汗を拭った。
卓人は珍しく部活動に出ると言って、今日は一人寂しい帰宅となった。あいつが真面目に部活動をやっているとは思えないので、確認次いでにグランドを見てから帰ることにした。しかし校門を出てしまっていたので、外側から見ることにした。
校門を出て右に曲がり、少し歩いた先にある角をもう一度右に曲がる。するとその一本道はどこからでもグラウンドが見えるようになっている。
角を曲がった先に、妹が通う中学校の制服を着た女子生徒が立っていた。俺もその中学校出身だったので、制服は一目で分かった。小柄で、お団子ヘアが特徴的な子であった。グラウンドを覗きこんでいるようだが、なにか用があるのだろうか……。俺は思い切って話しかけてみた。
「君、ここで何をしてるの?」
「ひゃい!」
突然声をかけられれば俺だってこんな反応をするだろう。
「あー。ごめんごめん」
すっかり警戒してしまった子に、驚かせたことを謝罪した。しかし彼女が口を開く気配はなかった。
「えっと、高校に何か用かな?」
俺は優しい口調で問いかけた。
「すみません! 見てただけなんです!」
女子中生はいきなり頭を深々と下げた。
「分かった! 分かったから頭を上げて!」
周りの目も気になったので、俺はすぐさま頭を上げさせた。
「数か月後、私ここに入学するんです。それで……」
彼女が言わんとすることは分かった。しかし流石にグラウンドを凝視する姿は目に留まってしまう。
「その、そこまでがっつり見てると、部活中の人も気が散っちゃうかなぁ。と思うんだけどね……」
俺は思っていたことを少しオブラートに包んで、女子中生に指摘した。
「そ、そうですよね……。今度からは怪しまれないように、この高校周辺をランニングしながら見ます!」
「いや、一層怪しくなってるよ!」
「ほんと……ですか……?」
女子中生は、すっかり肩を落としてしまった。
「にゅ、入学してからの楽しみにして置けば良いんじゃないかな?」
俺はへこむ女子中生の励ますように言った。
「はっ! それもありですね!」
女子中生は、その手もあったか。と、目を輝かせて俺を見つめた。純真無垢な瞳が俺の荒んだ心に突き刺さった。
「ハ、ハハハ。そうでしょー」
わざとらしい愛想笑いと、とてつもない棒読みで誤魔化すしかなかった。
「はい! ありがとうございました!」
「うん。気をつけて帰ってね。ええっと――」
「
名前を言おうと口ごもったのを察してくれたのか、自ら名乗ってくれた。
「き、気をつけてね。百野木さん」
俺は引きつった笑みを浮かべながら言った。
「はい!」
気持ちいい返事をすると、俺が名乗る前にバタバタと慌ただしく走って行ってしまった。それにしてもこの走り方……。あ、花火大会の日に住宅街を走っていた子だ! あのパワフルなランニング……。間違いない。後輩だったのか。俺はその背中を見送ると、なんだか自分も走りたくなってしまい、久しぶりに全速力で走った。物の数秒しか持たなかったが……。
無駄に疲れてしまったが、なんだか久しぶりにいい気分がした。張りつめていた気が、少しほぐれたようであった。
玄関のカギを開け、することを済ませて自室に籠った。机に向かい、いつものように今日あった出来事をノートに書き始めた。今日会った百野木楓の容姿を書いているときに、ふと気が付いた。彼女も例外ではないと。頭をお団子で結っていたが、下ろせばあかりよりかはロングヘアになるはずだし、女性でもある。意識していたわけでもなかったので、声もよく記憶していない。頼れるのは、女性ということと、髪が長いということのみだ。
シャープペンで頭をつついた。もちろん芯が出ない方で。こんなに少ない情報から犯人を探し当てるのは至難の業だ。やはり誰かに協力を仰ぐしかないのか……。そうか。卓人がいた。あいつなら女性でもないし、髪もあかりより長くない。当たり前だが。声もうろ覚えだが女性のものだったはずだ……。卓人を事件に巻き込むのは申し訳ないが、深く関与しない程度に協力をしてもらおう。
ここ最近は、特に大きな出来事もなかったので、数日振りにノートに多くを書き込んだ。夢中で書いていると、彩照が帰宅する時間になっていた。
「ただいま~」
時計を見た瞬間、彩照が帰ってきた。彩照はまだ二年生だが、今日会った子のことを何か知っているかも知れないと思い、俺はリビングに向かった。
「おかえり」
リビングでは既に彩照が夕飯の支度を始めていた。冷凍食品が主だが。
「ただいま~。おなか空いてる?」
「いや、そこまで」
「えぇ~、何よ。私は空いてるのに~」
「じゃあ作ればいいじゃないか」
「いい。ちょっと休憩する」
そう言って彩照は椅子に腰かけた。丁度いい間が出来たので、俺は百野木楓について聞いてみることにした。
「あのさ、お前の先輩に百野木楓って子いる?」
「あぁ、うん。知ってるよ。テニスで関東大会に出場したとかなんとか……」
「テニスねぇ~」
「先輩がどうかしたの?」
「あ、あぁ。それがさ、今日高校のグラウンドを凝視してたんだよ」
「え……」
まぁそう言う反応になるよな。
「聞いてみたら、あと数か月後でうちの高校に入学するらしくてさ、それで見てたんだってさ」
「それ、理由になってるの?」
「ま、まぁ悪さはしてなかったし……」
「お兄の高校、テニス強かったっけ?」
「いや、そんなには」
「うーん、やっぱりバカって噂は本当なのかなー?」
「誰が?」
「ん? その百野木先輩が」
なるほど、そんな噂も立つわけだ。実際に話をした俺が反論できないほど、その噂の信憑性は高い。俺が何も言い返してこないので、彩照も何となく察したようだ。俺の高校そんなにバカだったっけ? そう思う俺の頭には、卓人の顔が浮かんでいた。
…………。
あれから数日が経った。あの日以来百野木さんが現れることはなかったが、グラウンドを使っている運動部の連中は、何かに見られている気がする。という人が増えたという。あの卓人でさえもそれに賛同していた。中高ともに噂の絶えない子であった。
三月を前にして、卒業式の練習のためにチラホラと三年生が登校してきた。俺たち一年は、出ても出なくてもいいので、出る人はほとんどいない。運動部は上下関係の都合上か、参加を強いられている生徒もいる。逆に、二年生はほとんどの生徒が参加する。強制ではないが、明日は我が身ということで、大多数の生徒が参加するらしい。
授業もどこか引き締まりがなく、緩い授業が展開されている。
「はい。じゃあ今日はここまで、あとは自習してろ~」
そう言うと、授業担当の教師は出て行ってしまった。
「今日も楽だったな~!」
前席の卓人が、俺のほうに振り返りながら言った。
「あぁ、そうだな。この後は卒業式の練習があるし、教師もかったるいんだろ」
「確かに~。ま、どうでもいいけどな」
「そんなことより、卓人は卒業式出ないのかよ?」
「あ? 俺は良いんだよ。幽霊エース部員だからな。誰も口出しはしないぜ!」
自信満々に卓人がそう言うので、絶対にこいつは卒業式に出ないだろう。
「ハハハ。そうっすか」
「お、もう授業終わるぞ。帰ろうぜ~」
そう言いながら、卓人は帰りの支度を始めていた。丁度支度が終わった頃に、チャイムが鳴った。卓人は待ちくたびれて貧乏ゆすりをしていた。
担任がダルそうにホームルームを締め、それと同時に卓人は教室を飛び出した。
「おい! どこ行くんだよ!」
「トイレ!」
卓人は鞄を机に置いたまま、トイレに向かってしまった。あの貧乏ゆすりの原因はこれだったらしい。
卓人は腹を下しているのか、しばらく帰ってこなかった。スマホは持って行っていたのか、メールが届いた。
【先に帰ってても良いぞ……】
【分かった】
そう返事をしたものの、俺の視線は前席の鞄を捉えていた。卓人の鞄を残して帰れるわけもなく、結局卓人を待つことにした。
廊下はとても静かで、歩いてくる人がいれば、足音が反響して気づくほど静かであった。その時、足音とは思えない大きな音が廊下に響いた。俺はその音に誘われるように、教室から頭を出した。そこには図書委員長が、たくさんの本とともに倒れていた。
「いったたた……」
先輩は小声で痛みを訴えていた。
「大丈夫ですか!?」
俺はとやかく考えず、彼女を助け起こしていた。
「え、えぇ大丈夫よ」
俺が助け起こすと、先輩はまるで誰も助けが来ないのを予想していたかのように、戸惑いつつ安否を俺に伝えた。
「すごく大きな音がしたので……」
「そこの階段の、最後の一段を踏み外してしまったの」
上からの下り階段をちらりと見ながら、丁寧な口調で説明してくれた。
「あの、俺でよければ図書室まで運びますよ?」
「え、あ、本当に?」
先輩は驚き困惑していた。こういう経験をしたことがなかったのだろうか。このままでは埒が明かなそうだったので、俺は本をまとめ上げ、図書室に向かって歩き始めた。
「その!」
背後からかかった先輩の声に振り向いた。
「図書室、こっちです」
俺が進もうとしていた反対側を指さして言った。
「あ……。すみません」
俺は羞恥心が勝ってしまい、頬を赤らめながら、頭を軽く下げた。
「こっちです」
平静を取り戻した先輩は、立ち上がって俺の道案内を始めた。俺は先輩の長くきれいに伸びた黒い髪を見ながら、山積みの本を運んだ。
「ありがとう。ここまででいいわ」
図書室を開け、一番近くのテーブルに山積みの本を置いた。
「あとは私一人でやるわ」
「はい。助けになれて良かったです。委員長」
「委員長? 私は副委員長よ?」
しまった。まだこの時は副委員長だったのか。
「そ、そうだったんですか! いや~、とてもしっかりした方だったので、てっきり委員長なのかと思ってました」
俺は笑いながら先輩を煽てた。
「ふーん。そう」
嫌そうではなかったが、明らかに不審な目を向けられていた。
「それじゃあ、俺はこれで……」
「待ちなさい。貴方、名前は?」
俺は驚きのあまり、その場でジャンプをしそうになった。しかしここで答えなければさらに疑われてしまう。
「はい。大神真也って言います……」
俺の声は徐々に小さくなっていった。
「そう、分かったわ。私は
しっかり者で、頭も切れるので、借りを作ってしまったのはデカいが、逆にこれを機に先輩と接点が増えてしまうとなると、逆に恐怖心を増大させた。
「そ、それでは……」
俺は怯えた小動物のように図書室を出た。
「えぇ、それではまた」
先輩の冷ややかな声が背後から俺の耳に届いた。図書室が見えなくなるや否や、俺は小走りで教室に戻った。教室に戻ると今度は卓人が俺のことを待っており、退屈そうにスマホをいじっていた。
「おう。どこ行ってたんだよ?」
「あ、あぁ。ちょっとな」
「メールもしたのによ~」
卓人は不満げに立ち上がった。
「悪かった。教師に手助けを頼まれちゃってさ」
俺は咄嗟に嘘をついた。
「そっか。ならしゃーないな」
卓人は俺の鞄を手に取り、俺に向かって放った。俺は軽い自分の鞄をキャッチし、卓人とともに教室を後にした。
卓人と別れ、一人帰宅すると、珍しく彩照が先に帰宅していた。
「ただいま~」
しかし返事はなかった。何か用事をしているのか、これまた珍しく、彩照は部屋に籠っていた。勉強でもしているのかと、気を使って声をかけずに自室に戻った。
今日も新たな出会いがあったので、漏らすことなくノートに書きとどめた。それにしてもここ数日で出会った二人とも、髪はあかりより長く、女性であるので、犯人の可能性も考えられる。あの挑発的なセリフを俺に言ってくる正確からして、自ら俺に絡んでくる可能性はゼロではない。
「うーん。困ったな……」
よくよく考えてみれば、あかりはボブカットで結構短い髪型なので、あかりより髪が長い人のほうが多いのは当たり前なのだ。特に女子高生はおしゃれ盛りなので、ロングヘアのほうが目に多く映る。
事件は再び迷宮に入り込んでしまった。いや、そもそも抜け出した試しなど無いのだが。
両手を後頭部にあてがい、背もたれに大きくのけぞった。真っ白な天井がどこか羨ましく見えた。一度この天井のように、すべてが真っ白に戻ってしまえばいいのに……。俺は考えることをやめて、ベッドに寝転んだ。最近はこの繰り返しが日常のほとんどを占めている。
隣り合った彩照の部屋は、壁が薄いのか、独り言が少しでも大きいと、時折聞こえてきたりする。今日はその珍しい日に直面した。
「八月まで……。だから……。外れのアパート……」
夏休みの計画をもう立て始めているのか、八月やら、人の寄り付かない住宅街外れのアパートやら、独り言を呟いているようだ。たしかにあそこは人が来ないから、夏休みに肝試しや花火をやるのはいいかもしれない。住宅街を出て、左に行き、コンビニを通り越して、そのまま真っすぐ歩き続けると、誰も所有していない、ボロアパートが一つ存在するのだ。ちなみに卓人の家はそのボロアパートとコンビニの中間ほどに位置している。
耳を澄ましているうちに、壁に耳を当てていたようで、彩照が大きな声で、
「やばっ! 夕飯作らなきゃ!」
と言ったときは、鼓膜が破れるかと思った。
彩照は勢いよく扉を閉め、リビングに駆けて行った。俺はしばらく、耳鳴りが収まるまでベッドに寝転んでいた。
数分経って、耳もだいぶ良くなってきたので、俺もリビングに向かった。何も言わずにリビングに入り、何も言わずにテレビをつけた。
「あ、お兄。帰ってきてたんだ」
彩照は俺が帰ってきていたことに気づいていなかったらしい。
「あぁ、だいぶ前にな」
「マジか……」
彩照は一瞬考えるような素振りを見せたが、きっと俺の見間違いだろう。
テレビを見ていると、夕飯がテーブルに並べられていた。俺はそれを確認し、椅子に座り、食事を始めた。
「うちの壁って案外薄いよね」
「あぁ、薄いな」
「たまにお兄の独り言が聞こえるよ」
「え、マジか」
「うん。マジマジ」
「今度からは聞こえないように悪口言わないとな」
「え、悪口言ってるの!?」
「嘘嘘。冗談だよ」
久しぶりに、彩照と他愛のない会話で盛り上がった。ここのところ、俺が考え詰めていたせいか、あまり兄妹間の会話に花が咲いていなかったので、彩照も嬉しそうであった。
「それじゃ、私お風呂先にもらうね」
そう言って、彩照はおさげ髪をほどいた。束から解放された髪は、背中を覆った……。
リビングのドアが物静かに閉まった。いつもは力強く閉まるドアが、今日は俺を冷笑するように、パタリと閉まった。部屋は突然、静寂に飲み込まれた。俺はテーブルに肘をつき、口元で手を組み黙った。
時間だけが刻々と過ぎ、彩照は風呂から出てきた。テレビもつけずに数十分リビングにいた俺を、彩照は笑った。無邪気な笑顔だった。やはり俺の考えすぎな気がする。彩照が犯人の訳がない。
しかしそれから、毎日毎日妹の動向が気になって仕方がなかった。ゴミを出しに行くも、夕飯を買いに行くも。外出する妹が恐怖になるとは思ってもいなかった。
三月に入り、卒業式も間近に迫っていた。雑に練習をしていた男子生徒たちも、流石に気を引き締めて登校するようになっていた。
生徒たちが慌ただしく体育館に向かう中、天峰先輩だけが図書室に向かっていた。俺はその姿を隣の教室棟から眺めていた。丁度俺のクラスの対角線に図書室が位置しており、無意識に目がいってしまった。実習棟は人気が少なく、見回してみても、廊下を歩いているのは先輩ただ一人であった。
「式練習に参加しない生徒は、速やかに帰宅してください。繰り返します……」
校内放送が流れた。教師も含め、全員が体育館に集まってしまうので、犯罪防止用にこのような呼びかけが毎日行われている。
俺もさっさと帰ってしまおうと、振り向いて階段を下った。
階段では俺の足音が寂しく響いた。今日卓人は早退してしまったのだ。授業は昼までしか無いにも関わらず、仮病めいたことを言い残し、あいつは帰ってしまった。俺はそれが少し腹立たしかった。
階段を下り終え、下駄箱を開けた。そして革靴を取り出そうとしたとき、背後から声をかけられた。
「大神君?」
声はとても透明で、空気の中をすべるように俺の耳まで届いた。
「はい?」
俺が返事をしながら振り向くと、そこにはあかりがいた。とても久しぶりに会った気がする。俺は先ほどまで腹立てていた卓人のことは、彼女の顔を見ることで、すっかり忘れてしまった。
「今帰り?」
「あ、うん。そうだよ」
「フフフ、そうなんだ。その、一緒に帰る?」
まるであの日のような赤らんだ顔を俺に向けていた。
「……。うん」
俺は少し口ごもったが、一緒に帰る選択をした。
「じゃ、私靴取ってくるね!」
あかりは俺の下駄箱の裏に回った。ガチャン。バタン。という金属音が鳴り、俺の目の前に現れた。
「行こっか?」
あかりは無意識にか、手を差し出していた。小学生のころは人目もはばからず手を繋いだものだ。俺はその手を目掛けて手を伸ばした。するとあかりは手を引いて行ってしまった。
「やっぱ恥ずかしいね」
おそらく真っ赤に染まっているであろう顔を背け、先に昇降口を出て行ってしまった。俺はその小さな背中を追いかけて走った。
横まで追いつくと、あかりは俺のいない右側に顔を向けた。
「どした?」
「何でもない」
その声は高く震えていた。にやけているようだ。何が嬉しいかはさっぱり理解できなかったが、あかりが嬉しそうで何よりであった。
二人で校門を通り、校外に出た。するとあかりは、俺から取っていた距離を縮め、手と手が触れそうな位置まで接近してきた。
「私たち、小さい頃はこのくらい近かったよね……」
「そうだったね……」
「探してた女の人は見つかった?」
そう言いながら、あかりは俺と少し距離を取った。
「いや、まだだよ」
俺は開けられた距離を不思議に思いながら答えた。
「そっか……。見つかると、いいね……」
言葉の後半、あかりの声は消えていた。浮き沈みの激しいテンションに、俺はどこか不安を感じつつ、彼女との距離に謎を抱えつつ、彼女と住宅街に向かって歩いた。その時、以前にも感じた、刺さるような視線が俺の気を逸らした。前よりも鋭い視線が俺とあかりに向けられている気がした。と言うよりかは彼女を守らなくては、と俺の気が無駄に前に出てしまっていた。
「どうしたの?」
突然立ち止まった俺に気づき、あかりは歩を止めた。俺の右斜め前に立っていたあかりは、俺のことを覗き込むように、目の前に近づいてきた。
「白羽根、俺の後ろに誰かいるか?」
俺は丁度後ろを向いているあかりに、人がいるかを尋ねた。
「ううん。誰もいないよ?」
あかりはキョトンとしていた。
「そうか。じゃあ行こうか」
この場からすぐさま立ち去りたく、俺は無理矢理に話を切って歩き始めた。
「あ、ちょっと、きーにーなーるー」
あかりは俺の横について、服を引っ張った。その行動がさらに視線を鋭くさせたような気がした。いや、流石にそれは無いか……。俺が周りの目を気にし過ぎているのだろう。俺は気を取り直して、歩きだした。
「また今度教えてあげるよ」
「えーー。いじわる~~」
あかりはすっかり拗ねてしまった。
それから深い会話は一切なかった。天気の話やら、卒業式の話やら、まったく進展がないものばかりが題材に上がってしまった。そして自然と言葉は消えていった。
「それじゃ」
「うん。またね~」
住宅街に少し差し掛かったところで、俺はあかりと別れた。自宅前に立ち、鍵を取り出そうと鞄を探っていると、後ろからいきなり肩を掴まれた。いや、ぶら下がられた?
「お兄おかえり~。そしてただいま~」
彩照であった。中学校も式シーズンに入ったのか、部活動も無く、下校も早いようだ。
「うぐぐ。お、重い……」
「は!? 失礼ね、レディに対して重いとは!」
逆鱗に触れたようだ。そのうち機嫌を直すだろう。と、いつもの如く無視を決める。
「ははぁん。今見てたことをバラしていいんだね?」
「は? なんのことだよ?」
「またまた~。あかりさんと帰ってたくせに~。このこの~」
「お前! 見てたのかよ!」
「へっへっへ~、スクープスクープ」
彩照は鍵を開け、家に逃げ込んだ。俺は鍵を探していた手を止め、彩照を追いかけてリビングに向かった。
「そもそも誰にバラすんだよ!」
「お母とお父!」
「母さんと父さんは関係ないだろ!」
「ほら~、嫌なんじゃん」
「分かった。今回は俺の負けだ。謝るよ」
「分かれば良い」
「重いとか言って、すんませんでした」
俺は妹に頭を下げた。屈辱だ……。
「それじゃ、私は部屋に行くね~」
彩照はご機嫌で部屋に戻っていった。
……。あいつ、見てた。って言ってたよな。どこから見てたんだ……。妹への不信感は募るばかりであった。
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