六話

 外はもう日が落ちかけていた。雲が赤く染まっている。


「エセルはこれから何か用事ある?」


 ジークリットは寮へ向かおうとする後輩に声をかける。


「一緒に食事なんてどう? おごるよ?」


 エセルは少し考えた後、首を振る。


「ごめんなさい。夜は少し用事があって。」

「残念。じゃあ、また今度誘うから、その時はよろしくね。」


 少し歩き、大きな門に着く。

 目の前には蒸気機関車の駅まで続く大通りがガス灯に照らされていた。人通りはそれほど多くない。蒸気自動車から長く尾を引く煙が空を濁していた。


「先輩も寮に住んでいるんですか?」

「あっちの住宅街の端にあるところのね。」


 ジークリットは繁華街のある大通りの左側ではなく、右側を指差す。大通りから少し奥に歩いて行くと、高級住宅街がある。その端にジークリットの住む寮はある。


「中級飛空士以上が住めるっていうやつですか?」

「空いてさえいれば、下級の子でも住めるんだけどね。今住んでるのは独り身の中級だけ。」


 因みにアベルは寮住まいではなく、住宅街のそれなりにおおきな集合住宅に一室持っている、とジークリットは付け加える。


「じゃあね。明日も遅れないように夜遊びはほどほどにね。」

「そんな、夜遊びっていうほどじゃないですよ。」


 わざわざ立ち話をするほどの話題もなく口達者でもない二人は、ジークリットが体の向きを変えたのを区切りに別れた。




 高く結い上げた髪をおろす。手櫛で薄い金髪を軽く整える。エセルは上着を椅子にかけ、ランタンの明かりを灯す。よく言えば優しい光に部屋が照らされる。悪く言えばまだ薄暗い。ただ、さらにガス灯をつけるほどではない。




 吊りランプに照らされてジークリットの髪がいつもより赤く光る。


「研修先に偵察部隊という選択ができたってことは、エセルって結構優秀だったんでしょう? 本人もそれなりに成績は良かったって言ってたしさ。」


 ジークリットはワインの入ったグラスを揺らす。決して安くはない、渋みもコクもほど良いものだ。


「で、例年の成績優秀者はもっと上につながりが深い駐屯部隊だとか、兎に角、顔を覚えてもらえること期待薄のうち以外の部隊に行くじゃない。ただでさえ、手柄が稼ぎ用のない東なんだもの。」


 繁華街にある小さなレストラン。少々割高だが、客はそれほど多くなく落ちついた雰囲気の店だ。ジークリットとアベルは度々ここで夕食を共にしていた。この日はエセルを誘って、この店でそれなりに美味しいスパゲティを食べる予定だったのだ。

 アベルはレバーペーストを薄切りにしたバゲットに塗り、軽く目を瞑る。そして口を開いた。




 洗面所で顔を洗う。化粧は手馴れたものだった。香水は少しきつめに。見せるほどの胸はないので、かわりに背中の開いたワンピース。髪は下ろしたまま。財布と化粧道具だけ入れた小さなバッグ。少し奮発した毛皮のコート。それを隠すようにフードのついた暗色の外套。さっきまで履いていたブーツを横にどけ、黒いブーツを横におろす。かかとをこつこつとならし、しっくりときたら、エセルはもう一度鏡を見た。赤い口紅を引けば完成だ。




 アベルは左手の薄切りのバゲットを皿に置いた。


「ずいぶん口がうまいらしい、と。そして、ずいぶん交友関係が広かったらしい、とね。」

「そんなに口達者な感じではなかったと思うけど、それに友人の話なんて……」


 そこで言葉を止める。あまり気づきたくないことに勘付いてしまったのだ。ジークリットは目の前の男を軽く睨む。




 エセルは一時間半ほど前にジークリットと別れた場所の近くに来た。大通りの左側、ジークリットがさしたのと逆方向に繁華街がある。エセルの目的地はそこのさらに奥だ。地元の人でもあまり寄りつかない、いわゆる風俗街だ。エセルは数回東の風俗街には来たことがあったが、訓練学校のあった地区の隣、中央街の風俗街に比べればかわいいものだった。


 通りを照らす街灯と店の看板を照らす明かりがこの一角を照らしていた。街灯を背に葉巻を吸う売春婦は外套を羽織った女を怪訝そうに見ている。エセルは裏路地に入る。目的地はバーだった。上品なものではない。風俗街のバーだ。

 外套を脱ぎ、髪を軽く整える。扉は少し重く、ギィと音を立てる。


「おぉ、ブロンディの。」


 カウンターの向こう側の男が笑う。


「三日ぶりか?」

「あら? それしかたってないのね。とっても寂しかったから、もっとたっているのかと思ってたわ。」


 赤い唇が弧を描く。エセルは男に合わせるように笑った。

 店の奥から、少しだけ上等な服を着た若い男がエセルに近づく。そして、彼女の腰を抱いた。


「寂しかったのは、どこかなぁ?」


 かなり酒に酔っているらしい男は下品に笑うとエセルの金髪を軽く触る。


「やだもう。」


 体をくねらせてその手を解き、エセルはカウンター席に座る。


「ここには飾り窓なんてないんだがなぁ……」

「お金はとってないわよ?」


 男はカクテルの入ったグラスをエセルに出し、少し話し出した。


「そりゃあ、余計タチが悪いってもんだ。一夜限りの恋人探しか。まあ、別に構わん。ここをそういった目的で使う連中は結構いるしな。問題は起こすなよ。」


 薄い黄色のカクテル。縁には少量の塩。エセルはそれが「レディーキラー・カクテル」と呼ばれている代物だと知りながら、素知らぬ顔で飲むのだ。




「誰かに聞いたの?」


 ジークリットはテーブルの下でアベルを足で小突いた。手を組み、軽蔑を込めた目で見る。


「……どうせ、あの同期のやつでしょ? そんなこと言うのはそのくらいしか思いつかない。」

「正解だ。さっき、報告帰りに捕まった。そりゃあ見るも絶えない顔でほざくから、一発ぶん殴ろうかと。さすがに司令部の目の前で暴力事件起こす気はないけどな。」

「で、人が多ければ多いほどその……夜遊びがしづらいと? 二人からなら確かに隠しやすいかもしれないけど……」 


 グラスに残ったワインをジークリットはぐいと飲み干す。まいったと手を挙げていたアベルは、そのまま店員に顔を向け、「赤をそれぞれ一杯」とだけ注文する。


「俺は事件起こさない限りは口出しする気も、その権利もないがな。まあ、何か言ってやるなら、女同士のほうがいいだろ?」

 店員が新しいグラスをテーブルに置く。


「もう一杯飲むなら、最初からデカンターで頼めばよかったんじゃない?」


 仕事が終わる。寮に帰る。化粧と服で昼間の自分を隠してエセルは同じバーへ向かう。

 毎回違う人、男も女も関係ない。ただ絶対に同じ人とは連続で夜の街に消えることはない。それだけはエセルが絶対に守っていることだった。

 一週間経てば、バーの常連客はエセルのことを覚えた。

 二週間経てば、高身長の金髪美女が一夜の相手を探していると風俗街で小さく噂される。

 三週間経てば、エセルは自分目当ての男たちに少し辟易して、フッカーを買うようにもなった。

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