両天使vs絶対悪
硝煙が舞い上がる。
黒き硝煙は渦を巻いて昇り、甲高い摩擦音を立てて唸り、うねる。
地面に潜り、爪を突き立てる漆黒が石の床を抉りながら、
「傾け、
咄嗟に展開した光の障壁に魔術を上乗せし、より防御力を増した障壁で防ぐ。
直後、
硝煙を防いだと同時、窒素と量を代えられた酸素と言う猛毒が絶対悪を害す。すぐさま察した絶対悪が距離を取り、両天使の魔術が関与していない領域にまで遠ざかったが、翼を広げて飛行する天使相手に、機動力で勝てる訳がない。
「傾け。重さを上位に、耐久を下位に」
上階に跳び上がった絶対悪の乗った床が、重さに負けて崩壊する。
落とされた絶対悪は、すぐさま態勢を立て直して着地。舞い上がる黒き硝煙にて攻撃するが、上位に置かれた純白の障壁に防がれ、圧し潰される。
しかし障壁と壁の隙間とを黒い蛇がすり抜け、障壁の範囲から完全に抜け出すと顎を外し、ズルリと蛇の規格に合わない姿で絶対悪が這い出て来た。
「あぁ、気持ち悪い。気色悪い。唾液塗れだ、汚物塗れだ。悪い、悪い、悪い……! あぁ……だから私は絶対悪。この世全ての悪の根本。すべては私のせいなのです」
「傾け……善を上位に、悪を下位に!!!」
魔術を展開。止めの一撃とばかりに、光の礫を率いて落ちる。
流れ落ちる礫が絶対悪の体に叩き込まれ、原型がわからなくなるほどグチャグチャに叩き潰した。
呼吸が乱れ、魔力が乱れる。ずっと保っていた気配探知と魔力感知のセンサーが乱れ、掻き回された頭の中が鈍痛で満たされる。
本来連続で使うべきではない魔術の連続使用によって、重く圧し掛かる疲労感に招かれた吐き気に抗えず、その場で大きくえづいて嘔吐した。
だが倒した。倒したのだ。
放置するわけにはいかなかった。いかなかったのだ。
「あぁ、悪い子だなぁあなたは。本当に、悪い子だなぁ」
気持ち悪い。気色悪い。より吐き気を誘われる。
あろう事か、たった今吐き出した吐瀉物の中に絶対悪の顔が映し出され、徐々に黒ずみながら広がり、ゆっくりと起き上がって絶対悪の姿に形成されていった。
すぐさま魔術を展開しようとするが、行使出来るだけの魔力が無い。
激しさを増す吐き気に体を揺らされ、飛行もままならずにフラついていると、硝煙が刃の如く伸びて来て、躱し損ねた両天使の片腕を切り飛ばした。
硝煙に呑まれた腕が身の毛もよだつ音で咀嚼されて、跡形も無く消滅する。
「悪いな悪いな悪いな悪いなぁ……本当に、悪い子だなぁ。だけどすべては私の罪。私の咎。私の罰。私の、悪――故に私は絶対悪」
片腕を失い、魔力も枯渇。勝機はもう蜃気楼の彼方。
逃走しようにも、間違いなく追い付かれる。翼が両断されなかっただけ、まだ可能性こそあるものの、あるだけで限りなく低い。
出過ぎた真似だったと後悔しても遅いが、懺悔するつもりはない。
言葉を借りる訳ではないが、悪いのは目の前の災厄に違いないのだから。
「しかし悪い子だ。悪い天使だ。悪を虐げる自身を善とする。戦争のルールを害し、勝手に振舞う自分を善として、正当な参加者たる私を悪などと、悪い冗談だ。悪辣にも程がある。しかし仕方ない。何せ私は絶対悪。全ての悪の権化なれば、全ての罪は私の罪」
そのような言葉が、慰めになるはずもなし。
たった今、生死の瀬戸際にいるのだから仕方ない。
が、最悪な事に対峙しているのは邪悪の化身にして諸悪の根源。そんな状況が通じるはずも無く、殺すか殺されるかの結末しか用意されていない。
本当に、最悪だ。
「しかし天使よ、理解出来ていまい。善と悪は相反する存在なれど、上下の位置には存在しない。当然だ。事の善悪は表裏の存在。相対、対峙する存在ではなく、背を預け合う存在なれば。上も下もなく、良いも悪いもないのだ」
「何を仰っているのか、理解出来ません」
「完全な善も完全な悪もない、と言う事だ。全ての悪の象徴こそ私なれど、私とて完全なる悪にはなれぬ。私の成した悪事が、人知れぬ誰かにとっての救済にもなり得ているのだから」
「ありえません。そのような戯言……世界は、完全なる善と完全なる悪とで構築され、悪は善によって裁かれる。それら善悪の概念を決めるのが天界であり、この戦争に集められた全ての参加者が、いずれこの世界に破滅を齎す悪である限り、あなたが絶対的な悪である事は逃れようのない事実。あなたは、天によって裁かれる運命にある」
「なるほど。確かに私は絶対悪。いずれ裁かれる悪である事は否定しません。が、あなた方が絶対的善である証拠は? あなた方が絶対的善人である確証が、一体何処にある? あなた方は此度の戦争を裁定する者。その隠れ蓑の住人である少女を騙し、剰え、聖母を騙って彼女の信仰をも穢した。それは果たして善行ですか? 善行を行なうために投じなければならなかった貴い犠牲だとでも? その犠牲は善だと、あなたの天秤は傾くのですか?」
「それは、それ、は……」
これまで持っていた確固たる自信が、音を立てて崩壊していく。
聞いた事があるような、ないような。曖昧ながら明確な音を立てて崩壊した彼女の中での善悪の概念は、もはや修復の余地など残っていなかった。
もしも召喚士が彼女の理性と心を取り戻していなかったら、このような事も起こり得なかったものを。
皮肉にも、事態は悪い方向へと進んでいく。
目の前の存在の顕現が決まった瞬間から、少しずつ、溶解するかのように、融解するかのように、事態はより重く、悪い方向へと圧し掛かっていく。
良くも悪くも、天使と言う種族は子供の様に純粋で、純朴で、無垢だ。
与えられた情報を正確に記憶し、記録し、命令を執行する天界の精巧かつ精密な裁定機構。
世界で唯一感情を抑制された天使達は、自分達の中にただ存在するだけの価値観を否定、ないし逆転された時、容易く壊れる。
自分自身の意見を持たず、価値観を育まずいた彼らの言動は所詮、他人の真似でしかない。
だから脆い。だから弱い。感情を解放したばかりの天使が考える事の概念は、呆気ないまでに容易に覆されて、簡単に利用ないし、悪用されるのがオチなのだ。
「ここにいた人達にも、罪がない訳ではない。全ては絶対悪たる私のせいだが、彼らはそれでも罪を犯した。勢力で劣る聖母の信仰を保とうと、大量の資金援助を王から得るため、秘密裡に暗躍していた」
「そんな情報、どこにも……」
「本当、間の悪い事。君がもう少し彼女に対して心を開き、もう少し彼女に対して興味を持って行動し、彼女を慮っていれば、こんな後悔しなくてよかったのに」
「そんな、私の、私のせいで……
「あぁ、最悪だ。けれどそれも仕方ない。全ての悪の権化にして象徴たる私がいるのだから、私の話題選びが悪いせいで、気分が悪くなる事も場の空気が悪くなる事も必然にして当然だ。だから君の悪も、罪も、全て私が抱えるよ。故に私は絶対悪。この世全ての悪なれば」
なれば当然、この先に仕掛ける展開も、悪い方向へと向く事は、容易に察しがつくだろう。
しかし悲しいかな。彼女の魔術は発動してしまった。発現してしまった。発言してしまった。善を上位に、悪を下位に。
そんな事を言う物だから、彼女にとって聞こえの良い話が、聞こえの悪い言葉を塗り替えてしまう。結果として、それが悪い方向へと進んでいたとしても、彼女を救う善良な処置として、機能してしまう。
善と悪に上下はないと宣った。
その言葉に嘘こそないが、正解かと言われると断言は危うい。
何せいつの時代、何処の国の歴史を辿ろうとも、勝者こそが正義にして善と称えられるのが世界と言う物の仕組みなれば、悪は善の下にあると言っても、間違いではないのだから。
「さぁ、こんな悪夢は忘れてしまおう。こんな悪い話は聞かなかった事にして、ご主人様の下へお帰り。君は決して悪くない。全て悪いのはこの私なのだから」
今まで殺気に溢れていた天使は、フワリ、と無力な翼を広げて飛び去って行く。
去り行く彼女の背中を見届ける絶対悪は、邪悪にほくそ笑んでいた。
「これで良い――いや、悪いんだね。何故なら私は絶対悪。悪者のする事は本当に、質が悪くて、後味が悪くていけないなぁ」
踵を返した絶対悪は、惨劇と惨状の教会へ戻って行く。
自らを悪者と断じ、悪と知るその狡猾な大罪人は、自らの犯した悪行の顛末など興味の欠片もないとばかりに、無人の廃墟と化した教会でうたた寝を始めるのだった。
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