藍衣の聖母
神の子を産んだ聖母は青色の衣を羽織っていた。
青は古来より神聖な色として扱われ、青色を生み出す石は当時より高価な代物だった。
聖母を崇拝する宗教団体ラピスラズリ。
かつては神性石と呼ばれていた石の名を、そのままに名乗る。
だがかつての石の輝きは地殻変動や地質の汚染などによって穢れてしまい、同じ青色を生み出せる石はとても貴重な代物となってしまった。
今では藍色にも近い色にくすんでしまい、以来聖母のまとう衣は藍色であるなどと、揶揄されてしまうようになってしまった。
神聖の青を穢されて、ラピスラズリは現在の
時間は少し前。
天界によるルール説明が行われおり、
彼女は祈っていた。
他の何でもない、かの聖母に。
藍色の衣と侮辱されようとも、彼女にとって信じられるものは聖母だけであった。
元々両親が聖母を信仰しており、娘である彼女もまたその影響を大きく受けたというだけなのだが、彼女はとにかく聖母という存在に心酔し切っていた。
神の子を産んだとされる聖母様は、すべての罪を受け止め、許す慈愛の母神。
その方のように、自分もすべての罪を許せる存在になりたかった。
それこそ、自分を捨てて戦争から逃げ出した両親を憎む今の自分を、否定したかった。
神などいないと、冒涜の限りの暴言を吐いた両親を許せる自分になりたかった。
故にひたすら、彼女は祈る。
さも、その手の皮膚と皮膚がくっ付いてしまいそうになるほどに、強く。
『さて、それでは? 第八次
戦争開始の号令が、都市全体を賑わせたそのとき、彼女はそれを奇跡と呼んだ。
何せ祈りを捧げていたら、目の前に現れたからだ。
六枚もの翼をその背に宿した、天女の如き美しい天使が。
神の使い、天の使いと呼んで過言ではない、天使様が、ご降臨なされた。
「なんと、なんと……美しい……」
彼女が天使の美しさを表現する言葉を脳裏から探していると、その天使は滑らかに白い手を動かして、右手を上位に、左手を下位に置いて告げる。
「傾け、
三対六枚の翼から放たれる光輝は、彼女から意識を奪う。
光が潰えたときには彼女は死んだように目を半分だけ開いた状態で気を失っていて、天使はまるで死者を弔うかのように目を閉じさせたが、彼女は未だ生きていた。
故に、
「コラコラ、そんな死人扱いをするものじゃあないよ」
と注意されてしまった。
天使は「失礼しました」と翼を仕舞いながら頭を下げ、道を開ける。
祈っていた彼女には天使の大きな翼の陰に隠れてしまって見えなかっただろうが、実際もう一人いた。
天界の
団体で強要されているのか、目深に被らされている彼女の黒布を剥ぎ取ると、そっと彼女を抱えてベッドへと運ぶ。
「召喚士様。愚かな私にご教授ください。隠れ
「それだと、僕らは神様として祭り上げられてしまうだろう? ゾオンの入信者ともなれば、それこそ盛大に、僕らがここにいるよって参加者に教えてしまう。それはよくない。僕らを知る熾天使が僕らを利用できる状況は、決して
「熾天使様は、例え召喚士様のお力添えであっても、拒否なさると愚考致しますが」
「確かにね。でも、利用するかしないかは、問題じゃあない。利用できるかどうかが問題なんだ。公平な審判を下すためにも、必要なことだよ」
「は。お教えいただき、ありがとうございます」
天界の天使は脳に抑制の魔術がかかっている。
それはどれだけの上級天使になろうとも、変わらぬことだ。
例外を除けば、の話ではあるが、実際に変わらない。
そして熾天使階級の天使でさえも、それは変わらない。
上級天使は天界でこそ自由な言動を許されているが、地上へ降りればある程度拘束される。
彼女――
天界でこそ感情を見せる彼女だが、このときはほとんど表情筋が動いておらず、どこか人形的、機械的な印象を抱かせた。
「両天使、少しいいかな」
「はい」
部屋の住人を寝かせておいて、二人は勝手に彼女の私室へと入り込み、両天使は言われるがまま、埃を被っている化粧台のまえに座る。
召喚士は彼女の肩に手を添えて、彼女と同じ鏡で彼女の表情を覗き込んだ。
「いいかい、両天使。君はこれから十分間。この鏡に映る自分の瞳の色を見続けるんだ」
「瞳の、色……わかりました」
天使は命令に忠実だ。
それが上官からの指令ならば、必ず順守しようとする。
故に彼女が言うことを聞き、一切動かないことは召喚士自身理解していた。
両天使はひたすらに、自身の瞳の色を見つめていた。
意識が遠くなろうとも、掻き消えてしまいそうになりながらも、召喚士が何をしているのか訊くこともなく、ひたすらに自分の瞳の色が、藍色から青へと変わっていく経過を辿り続けていた。
召喚士の言う通り十分間自身の瞳にのみ意識を向け、終わった頃に自分の瞳の色が青色になったことに文句も言わず、ただ一言。
「終了ですか?」
と確認しただけだった。
「うん、終わりだよ。ごめんね、ご苦労様」
「一体、何を……」
感情が抑制されているはずの両天使から一粒、涙がこぼれる。
その一粒を皮切りに、次々と溢れる涙を止める術を両天使は知らず、ただ目元を拭い続けるが、無論、涙は止まることを知らない。
「召喚士様、私は、私はどうしてしまったのですか? 涙が、涙が止まりません。私は、どうしてしまったのですか?」
「君の感情を司る部分の抑制を解除したんだ。今はまだ副作用で辛いだろうけれど、君ならすぐに制御できる。君には、彼女にとっての依り代となってもらうよ」
数分後、彼女は目覚めた。
聖母に対して祈っていたことと、その際に奇跡を目の当たりにしたことは覚えているのだが、具体的な内容は思い出せない。
だが意識を喪失したときにベッドには寝ていなかったはずで、自分をそこまで運んでくれる存在も、今この家にはいないことを思い起こした彼女は、そっと、他人の気配を感じる居間へと足を運んだ。
するとそこには美しい女性が座っていて、その隣には執事だろうか、男性が女性に茶を注いでいた。
女性の美しさを、彼女は他に知らなかった。まるで、聖母の如き美しさ。
比喩表現ではなく、本当に、心の底からそう思っていた。
すると女性が彼女に気付き、視線を向ける。
その、余りにも透き通った晴れ空のような青い瞳が、彼女の信仰する聖母のかつての衣のようで、彼女は女性の聖母の如き美しさと相まって、信じ切ってしまった。
聖母様が降臨なされた、と。
「あぁ、あぁ! 聖母様! マリア様!」
彼女は女性の前に膝間づいて、両手を合わせて強く祈る。
目の前に聖母そのものを置いて、彼女は断罪を求めていた。
「私の禊をお受け取りください……! 私は罪に塗れた汚い人でございます、どうかあなたの慈愛の心を、私にお貸しください……」
彼女は祈る。
自身の中で、これ以上ないと思えるほどに、心の底から。
すると女性は――聖母は柔らかに微笑を湛えて、優しく彼女の手を包み込んだ。
「あなたの祈りは、届きました。名を捧げるのです。さすれば聖母の慈愛が、あなたの心を救うことでしょう」
「あぁ、聖母様……喜んで、私の名を捧げます……」
彼女は名を捧げた。
名を捧げた彼女は、実質、自身を表す固有名詞を失った。
だが聖母に真名を捧げられるというのは、これ以上なく光栄なことである。
彼女に後悔はなく、また憎き両親から貰った名前になど、未練もなかった。
何せ名前を捧げた者は、聖母より仮名を授かるからである。
それは忌み名でありながら、同時に神によって与えられた神名なのだから。
「あぁ、聖母様……拝命致しました。この
聖母を名乗る両天使は微笑を湛えながら、解放された感情の裏で困っていた。
あまりにも、安直過ぎた気がしてならない。
しかし召喚士はいいんだよ、と笑みを浮かべたまま、黙っている。
彼女を従えるために聖母と、聖母に仕える天使を装えという指示の下で動いているのだが、聖母と呼ばれることに慣れていないし、ましてや真っ直ぐな目で敬われるとやはり困ってしまう。
もしも彼女の理想を一縷でも穢せば、一瞬にして憎悪や殺意に変わってしまいそうな気がしてならなかった。
信仰とはときに、ちょっとした意見の相違や食い違いで殺意や憎悪に発展する。
天界には進行すべき神と言えば一人しか存在せず、天使の脳には抑制が掛かっているために意見の相違などあり得ない。
故にあまり理解は深くないのだが、人間が多種多様な神を信仰し、別々の神を信仰するが故に差別され、さらに戦いにまでなってきた歴史を知っている彼女としては、自分がよく知りもしない聖母に祀り上げられることは緊張でしかなかった。
だがやるしかない。それが召喚士の命令なのだから。
「他愛、私にはこの国で起きる戦いのすべてを見届ける義務があります。故にここを我が拠点としたいのです。よろしいですね?」
「そ、そんな! こんな狭いところ……!」
「我が光は、人の身には強すぎる。私の存在は、多くの人の目に留まることは許されません。光に耐えられたあなただけにしか、頼めないことなのです。聞いてくれますね」
「は、はい! このような場所でよろしければ、いくらでも!」
「では、私の存在は他言無用ですよ?」
「はい!」
(これでいいのですね、召喚士様)
(あぁ、完璧だ)
(このために、私に無駄に派手な登場を命じられたのですね……)
と、目線でのやり取りをやってから、両天使は他愛の小さな頭に手を添える。
「早速、戦いが繰り広げられている様子。私は戦いを見届けなくてはなりません。他愛、あなたはこの家にいなさい。我が
「はい! 聖母様、どうかお気を付けて!」
と、ここで扉から出ていったらいけないのだろうなと一考し、聖母両天使は翼を羽ばたかせて眩く輝き、召喚士と共に姿を消す。
ただ転移の魔術を使っただけなのだが、他愛には奇跡として映ったらしく、感激のあまり涙を流していた。
だが彼女の感激の具合など転移してしまった両天使が知る訳もなく、召喚士に感情の抑制を外されてしまったことで生涯初めての気疲れを感じることとなった。
「お疲れ様。その調子で頼むよ」
「はい……それで、戦いは」
「うん。やっぱり熾天使は周囲を巻き込むことに躊躇なんてないね。敵を殺すことにだけ重きを置いて、もしも相手が銃天使くんじゃなかったら何人死んでるかわからないよ。彼には、いくらかメリットのある魔術刻印でも、施してあげたいくらいだけれど」
「それはルールに反します。裁定者は最後まで公平でなければなりません」
「わかっているさ」
双眼鏡など必要ないと言うのに、天界では珍しいからか、召喚士はこれは便利だとどこからかくすねてきたらしく、それ越しに戦いを窺う。
二人の戦いは、周囲を巻き込むことも厭わない熾天使の攻撃から、銃天使が護りながら戦うという展開で通っていた。
熾天使の繰り出す数多の武装を、銃天使の魔弾は一撃で砕いていく。
だがそれらの破片すら、彼女の操作魔術によって武器となる。
破片が豪雨のように降り注いで、銃天使の体を掻き斬っていく。
さらに破片は宙を跳ね、周囲の人間を切り刻みながら再び上空へと飛び上がって、再び銃天使へと降り注ぐ体勢を整えた。
「やめろ熾天使! 周囲を巻き込むな!」
「貴様は蟻を踏まぬよう、いちいち足元を見て避けるのか?」
熾天使の攻撃が、再び降り注ぐ。
翼を広げた銃天使は子供を護るためうずくまる母親の頭上で銃を構え、相殺を試みようとした。
だが突如、現れた氷塊がその間に入って阻んだ。
氷塊に刺さった破片のすべてがそのまま引っ付いて離れず、さらに凍り付いてしまって武器としての能力を完全に失ってしまったのだ。
思わぬ横槍が入ったと、熾天使は氷塊を出したそれのいるだろう地点を見下ろす。
だがそこにはすでに誰もおらず、逃げ去った後だった。
(的確な判断……だが、手を出しておいて逃げるとは、やはり俗物か)
「邪魔が入ったが、続きを――」
氷塊を斬り裂くと、そこに銃天使の姿はなかった。
ついでに言えば周囲の人間もいなかったし、彼が守ろうとしていた親子の姿もなかった。
逃げたか。
熾天使はすべての武装を仕舞った。周囲からは、ただ武装が掻き消えただけに見える。
「どいつもこいつも……興が冷めた」
それだけ言い残し、熾天使は姿を消した。
召喚士は彼女が三神王都そのものを消し去ろうとしてはいないかと周囲に気を配ったが、その気配はない。
召喚士の裁定者としての最初の仕事は、怪我人多数ながらも死亡者ゼロという結果で閉まった。
熾天使からしてみれば、まったく締まりのない結果ではあるだろうが。
「今後も熾天使の動向には気を張ろう。あの人は気分次第でこの国を破壊できるからね」
「はい。それと、一つ個人的な気掛かりがございます。最後の参加者であります
「そっか、始まったね」
戦いはまだ、始まってすらいなかったのかもしれない。
両天使の報告を聞いた召喚士が、そう思うのは無理もないことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます