第24話 取り戻せない、信頼
母が“残業”せずに「白樺」から帰宅したのは、夕方7時過ぎだった。
玄関まで出迎えにも行かず、家のあかりは一つもつけず(それほど暗くもなかったけれど)、リビングのソファで一人、ぽつんと座っている私を見ただけで、何かがあったと容易に察しがついたのだろう。
「夕食の用意はしておく」と約束しておきながら、結局何も作ってなかった私を、母は全く責めることなく、簡単な食事とコーヒーを二人――母と私の――分、用意してくれた。
ただ母は、料理をしながら「翔くんは?」と私に聞いたので、私は「部屋で寝てる」と簡潔に答えた
料理とコーヒーのトレイをリビングのテーブルに置いて、サッとソファに座った母は、やっと私に「何があったの」と聞いてきた。
私は、時折目に涙を浮かべながら、壮介さんとの「
壮介さんがどれほど酷い
私から話を聞き終えた母は、意外にも私が想像した以上に怒りをあらわにしながら、「あんな男には社会的制裁を加えるべきだわ!訴えてやる!こっちは腕のいい弁護士知ってんだから!」と息巻いた。
「お母さんっ。翔、やっと寝たところだから。もうちょっと静かに・・」
「あ、そうね。ごめんごめん」と小声で謝った母は、ケロッとした態度で「玄関に塩まいとかなきゃ」と言った。
「あ、でも、壮介さんはこの家には入れてないよ?」
「分かってるわよ。でも厄払いは必要よ」と母は私に答えながら、すでにソファから立ち上がって、塩があるキッチンの方へと移動している。
母も余程腹が立っているのだろう。
玄関に塩をまく行為は、誰にも害を及ぼさない。
こうなったら母の好きにさせてやろう―――。
塩まきからすぐ戻った母は、塩をキッチンに戻すと、再びリビングのソファに座って、私と話をする体勢についてくれた。
私は、母が淹れてくれたカフェラテを、一口飲んでじっくり味わった。
おかげで少しずつ、心が落ち着いていく。
「確かに、あれはすごく酷かった。私も情けないくらいダメな母親だって思い知らされた。だけど、あの人を訴える気はないよ、私。もうあの人とは二度と関わりたくないから」
「ま、そうねぇ。湖都ちゃんの言いたいことも分かるわ。でも湖都。あんたはダメな母親じゃないわよ。あんたはその場でできることを精一杯やったって、お母さんには分かってるよ。それに翔くんだってちゃんと分かってるはず。だからパパのところからママのところに戻ったんでしょ?」と母に言われた私は、再び涙が目に浮かぶのを感じながら「ありがと、お母さん」と涙声で言った。
「・・・もしかしたら壮介さん、お金・・慰謝料だけじゃなくて、翔の養育費も払いたくなかったんじゃないかな。それでわざと、翔に対して、あんな酷いことを言ったのかもしれない。私と縁を切るのは簡単だけど――お互いにそれを望んでるから――翔とはやっぱり難しいと思うから・・・わざと憎まれるようなことを言うことで、“パパのことは嫌いだ”って思わせたかったのかも」
「あり得るわね。妊婦の愛人が嫌がってたんでしょ?翔くんを引き取ること」
「うん。壮介さんのところは、ご両親だけじゃなくて、親族も誰ひとりいないし」
「だとしたら、壮介さん一人だけじゃあ、翔くんを育てることはできない。何よりあの人、狡猾だから、そういうやり方しか思いつかないのよ」
「私・・お金はいらないのに。それで自分の思う通りに事を運んだと思ってるのかな」
だとしたら、酷くすさんだ心の持ち主だと思う。
壮介さんは、とても・・可哀想な人だ。
「もし壮介さんが強引にでも翔くんを連れて行ってたら、あの人のことよ、自分一人じゃ育てることができない、でも母親の手には絶対に渡したくないからって、施設にでも預けてたかもしれないじゃない」
「ちょっとお母さん!そんな恐ろしいこと・・・想像でも言わないで!」
「あぁ、ごめんね」
「一時だけでも、翔と離れ離れにならなきゃいけないって覚悟したとき。覚悟を決めても・・・辛かった。一瞬死んだって思ったくらい・・ううん、死んだ方が、マシかも・・こんな生き地獄を味わう日々は嫌だって、いっそ私を殺してから翔を連れて行ってほしいって・・・」
あのときのことを思い出しただけで、私の目からは涙がとめどなく溢れ出てきた。
本当に今日は・・よく泣く日だ。
「とにかく。いろいろあったけど、壮介さんは一人で長野に帰ったし、離婚届も持ってきてくれたんでしょ?これで一件落着。壮介さんとももう二度と関わることはない。良かったじゃない。お母さんもホッとしたわ」
「うん・・・。あの、お母さん」
「なに?」
「お父さんって・・・実は浮気したこと、あるんじゃない?」
壮介さんと結婚生活を続けていく中で生まれた疑問。
だけど、なかなか聞けなかったこと。
壮介さんと離婚をすることが決まった今なら、聞ける―――。
母は、フゥとため息を一つついてから「お母さんが知ってる限り、一度だけね」と言った。
「そしてお父さんは“一度だけだ。魔が差したとした言いようがない”って言ってたわ」と言う母は、普段どおり、スッキリした表情で話している。
ホッとした私は、思いきって話を続けることにした。
知りたかったから。
「お母さんは信じたの?お父さんが言ったこと」
「信じたって言うより、許すことにしたの。一度だけなら・・お父さんは“もう二度としない”って言ったし。まぁその言葉を信じることにしたのよ。そのおかげかしら、少なくともお父さんは、私にバレるような“失態”は二度としなかったわ。そこが、お父さんと壮介さんの“浮気の違い”ね」
「そう・・・。だからお父さんは、壮介さんに味方したんだよね」
やっぱり、「壮介くんには他に身寄りがいないから」という理由だけじゃなかったんだ、「お父さんくらいしか味方になってやれなかった」のは。
「そうね。同性としてというより、“経験者”として壮介さんの浮気が理解できたのかもしれないわね。だけどお父さんなりに心を痛めてたし、壮介さんがなかなか浮気をやめないことに憤慨してたのよ」
「うん・・・分かってる」
あくまでも壮介さんの味方をする父が生きている間、私は壮介さんが浮気を繰り返すことや、離婚を考えていることまで、父には言わなくなった。
母にもなるべく多くを語らないようにしていた。
私の問題を両親に話したせいで、両親が対立するのを避けたかったから。
それでも母は一貫して、私の味方をしてくれた―――。
「確かに、お母さんはお父さんの浮気を許しはしたわよ。でもね、あの一件以来、お父さんを完全に信用できなくなったわ。心のどこかで“もしかしたら”って――猜疑心って言うのかしらね――思ってるのよ。同じような・・ううん、お母さんより酷い境遇にいた湖都ちゃんには、今だから言えるけど、たとえ一度の浮気でも、失った信頼を取り戻すことは難しいのよ。夫婦のような関係だったらなおさらね」
「お母さんは・・離婚しようって思わなかった?」
「そりゃあ思ったわよ。お父さんのことを許しはしても、心のどこかで疑ってるのは、正直お母さんだって嫌だったから、別れてスッパリ縁を切ったらどんなにラクになるだろうって何度も思ったわ。だけど結局、お父さんとは別れなかったのは・・やっぱり好きだったから、かしらね。疑うより、それ以上にお父さんを信頼してみようっていう気持ちの方が大きかった。そのこともあって、お父さんと約束したの」
「どんな?」
「お父さんが定年で仕事を退職したら、お母さんはずっとやりたかったことをやるから、そのときは協力してほしいと言ったの」
「え?それがもしかして、喫茶店?」
「そうよ。お母さんはお父さんと結婚してからずっと専業主婦だったでしょう?本当は仕事を続けたかったのよ。家庭や家族だけじゃなくて、社会とも繋がりを持っていたかった。その気持ちが何十年経っても残ってたのね。でも・・まさか予定よりこんなに早く始めることができるとは思ってなかったけどね。しかもこんな形で、お父さんの生命保険金が役に立つとも思ってなかったわ」
「そっ、か・・・」
「湖都ちゃん。コーヒー淹れ直そうか。冷めちゃったでしょ?」
「あ・・私が淹れようか?」
「いいのよ。お母さんは好きでやってるんだから」
結局、母が用意してくれた食事には手をつけないまま、ミルクをたっぷり入れてある、私仕様のカフェラテだけを半分ほど飲んでいただけだった。
母も同じく、コーヒーしか飲んでいない。
お互い食欲がわかないのだろう。無理もないことだ。
でも・・別に一食くらい抜いても、どうってことはない。
最近はほとんど食欲なかったし。
今日のお昼は結構食べることができたけど・・・岸川さんがいたから。
そういえば、今日のお昼も私はたくさん泣いた。岸川さんの腕の中で。
一日でこんなに泣いただけでなく、感情が大きく揺さぶられたのは、たぶん・・初めてだ。
それだけに、今日という日ほど疲れを感じたことはない・・・あ、そうだ。
翔がみのり園へ通うことを岸川さんに言っとかなきゃ。
それまで今日は終わらない―――。
「自分の娘とこんな風に、真剣な話ができる日が来るなんて、なんだか不思議ね。それだけお母さんも年取ったってことかしら」
「私が大人になったってことでしょ」
キッチンからフフッと嬉しそうに笑う母が見えた。
「ねぇお母さん」
「なに?」
「今、幸せ?」
「もちろん幸せよ」
「なら良かった」
「お母さんにもいろいろあったけど、それでもお母さんはずっと幸せなのよ」
「そぅ言えるなら、良かったんだよね」
「もちろんよ」
母と私は穏やかな笑みを浮かべながら、自然とコーヒーカップを合わせて乾杯していた。
・・・失われた信頼を取り戻す、か。
私は、壮介さんを信じることができなくなった。
そして壮介さんは、信頼を取り戻そうという誠意を見せようともせず、協力すらしなかった。
そのうち私も、壮介さんを信頼しようという気持ちもなくなっていた。
たぶん、壮介さんも私を信頼してはいなかったのだろう。
だから壮介さんとの夫婦関係は終わった。
信頼し合う心を、お互いに失ったまま。
私は手に持っている離婚届を、しげしげと見た。
離婚届は明日の朝一にでも提出しに行こう。
それとも週末や祝日って、役所は閉まってるんだっけ?
あっ!それより、離婚届は長野の役所に提出しなきゃいけないのかな・・・。
まぁいいや、そういうことは明日にでもネットで調べてみよう。
とにかく今日はもう・・・数時間で一気に10年分年を取ったくらい、疲れた。調べるのも億劫だ。
でも、岸川さんに電話しとかなきゃ。
私は、緩慢な動作で離婚届を閉じた。
たった1枚の用紙を折るのにこの調子なんだから・・と、自分に苦笑してしまった。
岸川さんには、壮介さんとの一件を話す気は全然ない。
だけど、今は岸川さんの声を聞きたい。無性に。
岸川さんに慰めてもらうつもりなんてない。
ただ・・・岸川さんの声が聞きたかった。
私は引き続き、緩慢な動作でバッグからスマホを取り出すと、オンにした。
その途端、私のスマホがブーブー鳴った。
え?誰だろ。岸川さん?
まさか・・私からの連絡が待ちきれなかったとか・・・。
まだ夜の・・もうすぐ9時になろうとしている時刻だったけれど、これは岸川さんからのコールだと完全に思い込んでいた私は、番号表示を見ることもなく、反射的に緑のボタンを押していた。
これからさらに、激しく大きなショックを受けるとも知らずに。
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