第23話 おうちに、帰ろう

「翔。翔。しょう・・・」


壮介さんが立ち去った後も、ペタンと地べたにへたりこんでいた私は、翔を抱きしめたまま、うわ言のように息子の名を呟いて、しばらくその場で泣いていた。


・・・もしかするとこれは、あの人がしかけた罠かもしれない。

一旦立ち去ることで私を安心させておいたところで、またすぐここに引き返してくるという・・。

私を徹底的に痛めつけようとしているあの人なら、そういう・・ずるい手段だって使いかねない。

ていうか、そういう手段を使うのは、いかにも姑息なあの人らしいじゃない?

とまで思い至ったとき、翔を抱えてでも、すぐさま 実家の中へ入った方がいいと思った。

その方が「安全」だと、頭の片隅では分かっていたから。


さっきの醜い言い争いで、あの人は相当頭に来ている。それこそ怒り狂う程に。

だけど、私たちに対して肉体的に危害を加えるようなことまではしないだろう。

そこまで冷静さを失っているとは思えないし・・何よりここは住宅街の一角だ。

いつ誰が通りかかるか分からない、いつ誰に見られているかも分からないような外の場所で、私たちに殴りかかるようなマネは決してしないと断言できる。

だって壮介さんは、自分の“プライド”が傷つくような、愚かなふるまいはしないという“分別”を、それはもう・・恐れ入るくらいに“しっかりと”持ち合わせている人だから。

言い換えれば、自分を「この世で“一番”可愛くて、優れた」状態に保つためなら、平気で他人を貶めることができる、まるで錆びた鉄のような心の持ち主だ。

それに、表に出る「傷」を残す――つまり私たちに暴力をふるう――ことは、世間体を気にするあの人のやり方にはそぐわない。


加えて今、焦るほど「家に入らなきゃ」と強く思っているにも関わらず、肝心なところで私の体が動かないという現実的な問題があった。

実家はすぐそこにあるというのに・・・。


壮介さんが一人で立ち去ったという現実に安堵しきったせいで、体に力が入らないのかもしれない。

もしかしたら、さっきの言い争いのとき、想像以上に体力を消耗していたのかもしれない。

動かしたのは主に口だけだったんだけど・・・。、

だから私はそのまま、翔を抱きしめて泣いていた。

壮介さんが戻ってこないことを願いながら。


もうしばらく・・ううん、あと少しだけでいい。このままでいよう。


私の泣き声に混じって、翔の静かに泣く声も聞こえる。

母親と小さな息子が地べたにへたりこんで、お互い抱きしめ合いながら泣いている姿を、通りすがりの誰かや、ご近所さんに見られたら・・なんて気にする余地は、私にはなかった。


私が今、したいこと。それは・・・今は翔の存在を感じていたい。

私の息子は今、私の腕の中にいるという現実を、感じていたかった。それだけだ。


息子の翔は、きっと心が深く傷ついたに違いない。

仲良しであるはずの両親が、醜く言い争っている姿を目の当たりにしてしまっただけでなく、その言動まで聞いてしまったのだから。


翔は、母親である私にギューッと抱きしめられても、「痛い」とか「苦しい」とか「離して」といった文句を言うどころか、小さな自分の体を、心まで丸ごと預けるように、私にただ抱きしめられていた。

そしてシクシク泣きながら、まだ小さな手でしがみつくように、私を抱きしめてくれていた。


翔は静かに泣いていた。

シクシクと、そして時折鼻をすするような翔の声が、私たちの間で聞こえる程度の静けさで。

でも、その泣き声が、傷ついた魂の叫び声のように思えて、私の心にズンズン突き刺さる。

そして突き刺さった刃は、「罪悪感」という形で残っていく―――。


・・・確かに、壮介さんが言ったことで一つだけ当たっていることがある。

それは・・私は「母親失格」であること。

こんな形で息子の心を深く、強く傷つけてしまったのだから・・・。

私は一体・・・どこまで酷い母親なんだろう。


「翔・・・」

「・・ママぁ。うっ。うぅ・・・ママ・・・」

「・・し、しょう・・・!」


・・・嬉しかった。心が震えるほど、感動した。

やっと発してくれた翔の第一声が、「ママ」だったから―――。


「翔・・ごめん。ホントに、ごめんね。ママは、翔をいっぱい・・いっぱい、傷つけてしまったね。悲しい想いを、たくさんさせてしまって、ごめんね・・・」


涙ながらに謝る私に、翔は顔を左右にふって「ううん」と言った。


「“ごめんね”いうのは、ママじゃないよ。パパだよ」

「・・・え?」

「ぼく・・・・ぼくも、さっきのパパはきらい。ママをなかせたもん。ぼくも、パパだぃきらいだ!」と翔は言うと、また私をギュッと抱きしめてシクシク泣きだした。


「翔・・・」


私は自然に、翔の頭を優しく撫でてあやしていた。

これで少しでも、翔の傷ついた心が癒えてくれたらいいという想いを込めながら、手で優しく、頭を撫で続けた。

これも母性本能の一つ、なのだろうか・・・。


「・・・ママ」

「なぁに?翔」

「おうち・・ばぁばのおうちに、かえろ」

「・・・うん。そうだね」


果たして今の私に、すぐそこにある実家まで歩く力が戻っているのか?なんて心配する必要は、もうなかった。

翔の、ささやかで切実な願いが、私の、文字通り原動力となってくれたおかげだ。


ゆっくり立ち上がった私は、同じくゆっくり立ち上がった息子に、かろうじてできた――それでも疲労感は隠せなかった――精一杯の笑みを顔に浮かべると、「おうちに帰ろうね」と言った。


・・・終わった。やっと、終わったんだ。これで壮介さんと離婚できる。

翔と一緒に、新しい生活を始めることができる。


実家の玄関ドアを施錠しながら、私はただシンプルに「良かった」と思い、安堵した。


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