第21話 醜い、別れ

「・・あっ、翔!」


「待って!」と私が言うよりも早く、息子の翔は私の手を振りきって、「パパーッ!」と嬉しそうな声を上げながら、主人のところへ駆けて行った。


・・・やっぱり、翔はパパに会えて嬉しいんだよね。

でも私は・・・会えて嬉しいとは思わない。けど、安心はした。

やっと来てくれたというホッとした気持ち。

そして、これで主人との結婚生活にケリをつけることができるという安堵感・・・。


私は一度深呼吸をして心を落ち着かせると、意を決して一歩ずつ、歩を進めた。

主人と息子が一緒にいる、実家のすぐ近くの方へ―――。






壮介さんは、私が来ても、わざとらしく翔と「話」を続けていた。

実際には翔だけが話していて、主人が息子の話を聞いていたのだけれど・・私が来たのが分かっているくせに、わざと私の方を見ないで、翔の話を聞くことに集中している「フリ」をしていた。


今は翔の話を聞くことが先。おまえのことは後回し。

と、背中から発する雰囲気で、私に伝えようとしているのか。

とにかく、そうすることで私の存在を無視している。

それが、私に対する壮介さんなりの罰し方の一つというか・・私の言い分をまともに聞こうともしない。

いや、妻に関心を向けることにエネルギーを注ぐことを、とっくの昔に止めている主人らしい態度を貫いている。

長い間「妻」という存在を軽んじている、いかにも主人らしいふるまいだ。


でも、それからすぐに翔の話が終わったので、壮介さんは、私の存在を今思い出したかのように――でも「仕方ない」という態度丸出しで――やっと私の方を見た。


精悍な顔立ちに一部の隙もないスーツ姿。

髪に乱れもないのも相変わらず。


常に得意先を回り、人と接する機会の多い営業という仕事柄なのか、壮介さんは、見た目や外見を日頃から気にかけているタイプの人だ。

不潔でだらしない恰好は、絶対と言っていいほどしない。実際、一応妻である私でさえ、見たことがないくらいだ。

私の亡き父のような中年太りの体型にならないよう、定期的にスポーツをしたり、食生活にもかなり気を配っているのは・・たぶん、女性からモテなくなると思ってるからだろう。

そのおかげで、壮介さんは40という実年齢とは思えない、いまだに引き締まった体躯をしているし、髪の毛だっていまだに黒く(もちろん染めたこともない)、量的には十分フサフサだ。

そしていまだにこの人から「家庭の匂い」が感じられないのは、若さにこだわっているから?

・・・って、その点も岸川さんと同じだけれど・・岸川さんは本当に結婚してないし、一度も結婚したことがないらしいから、それは納得できることだ。


壮介さんは、「男らしい若さを保つために女と寝る――実際は露骨に“セックス”という言葉で表現した――ことは必要だ」と、言ったことがある。

つまりこの人は、「精力が盛んであること」イコール「男らしくて若い」と、本気で思っているのだ。

だから浮気をしてまで「男らしい若さ」を保とうとしていると分かったとき、私は主人と離婚することを、初めて意識した。

だって・・浮気をここまで堂々と正当化する人とは、考えや価値観が根本的に合っていないと思うから。

そして、私たちがお互いに妥協や歩み寄りをしない限り、「合わない」溝は絶対に埋まらないし、交わることもないから。


私たちは、お互いに、妥協や歩み寄りをしたいとか、ましてしようとは思っていない。

「相手がこの人だから」と、お互いに思ってるから。


壮介さんは私に「やあ」と言って、営業的な笑みを向けた。


・・・この人の微笑みに、最初は惹かれた。魅力的な人だと思った。

だけど今では分かる。それが作り笑いだったことが。

欲しいと思ったものを手に入れようと計算した上で行われたことだった、と・・・。

「・・どうして、連絡してくれなかったの。二日近く音沙汰無くて、心配じゃなかったの?」

「書置きしてたじゃないか」

「じゃ・・」

「ああ、読んだよ。家にはちゃんと戻った」


壮介さんは軽くため息をつくと「どうせおまえのことだ、仮に書置きがなくてもお義母さんか、横浜の義姉んところくらいしか行くあてがないことくらい、俺にも分かる」と言った。


ため息のつき方といい、言い方といい、全てが私をバカにしている態度をドラマチックに演出するためのものだというのが、アリアリと分かる。

いくらこの人に対して関心がないとはいえ、私を苛立たせるには十分効果的な「演出」だ。


「それに、俺が連絡すれば、おまえは翔を連れてどこかへ行方をくらませてしまうかもしれないと思った。だから」

「不意打ちで来たのね。そんなことするはずないじゃない。私だってあなたと会う必要があるんだから」

「連絡しない方がいいと思ったんだよ。お互いにこれ以上疲れることは避けたかった」

「な・・」

「今日は仕事を早引いて来てやったんだぞ。ありがたいとは思わないのか?」

「思わなきゃいけないの?」と言い返した私に、壮介さんはまたため息をついて応えた。


「・・・まあいい。そんな、子どもじみた態度を取る今のおまえに何を言っても分からないようだ。おまえたちがここにいるのは分かっていたんだが、あいにく家には誰もいなかったから玄関の前で待たせてもらっていたんだ」

「ばぁばはおしごとだよ、パパ」

「そうだったな」


実の息子には心からの笑顔を向けた主人は、続けて翔の頭をヨシヨシするように撫でた。

一応妻である私への接し方とは大違いだ。もう完全に「敵」扱いっていうか・・・。

まぁ確かに、壮介さんにとって私という存在は、今ではもう「損害」でしかないだろうから。

でも・・もし翔にも私と同じような態度を取っていたら、私はもっと早くこの人と別れていたはず。それだけは確信している。


「ま、お義母さんが家にいても、俺は家の中に入れてもらえなかっただろうがな」


母は壮介さんを嫌っている。

壮介さんが悪びれもしないで浮気を繰り返し、決してやめようとせず、むしろ浮気をするのは私のせいだから仕方のないことなのだと“正当化”して、妻である私のことをそうやって軽んじていることが、嫌っている理由だ。

同じ理由で、私の姉とお義兄さん(姉の夫)も、壮介さんのことを嫌っている。

主人の唯一の味方であった父が亡くなったとき、母と姉夫婦は、壮介さんが自分たちの家に出入することを禁じた。

それはつまり、交流を断ったことになる。

姉家族の家の鍵は、もともと壮介さんは持っていなかったけれど、母の家の鍵は、壮介さんの手から母に返され、母はその日のうちに家の鍵を新しく変えた。


そんな仕打ちを妻の身内から受けても、それでも壮介さんは自分の「信念」を曲げずに浮気を繰り返して・・・ついに新しい愛人を妊娠させてしまった。

いや、もしかしたらお互い同意の上でのことだったのかもしれない―――。


「・・・自業自得でしょ」と呟いた私に、壮介さんは今度、フンと鼻で笑って応えた。

どこまでも私をバカにして!


「さあ、家に帰ろう。家出ごっこはもう十分だろ?」

「な・・・・・・」


・・・やっぱり、この人は私が本気で別れる覚悟で家を出たと思ってない!


「一応幼稚園に連絡をしてみたら、翔はもう幼稚園を“やめた”ことになっていたが。なんでも先方は“引っ越しをする”とか言ってたな。おい、冗談の小細工もほどほどにしろよ。あまり他人を巻きこむんじゃない。翔だって幼稚園に通いづらくなるじゃないか」


壮介さんの言葉の一句一句が、私の耳を、頭上をすり抜けていく。

この人に何を言っても無駄なの?

説得できないの・・・?


体中の力が抜けそうになった。気力も失いそうだ。

だけどここでくじけちゃダメよ、私!

ここであきらめてしまったら・・また同じ絶望の繰り返し。それだけはもう、嫌だ!


「・・・ねえ壮介さん。どうして私と結婚したの」

「んん?おまえと結婚した理由か?今頃聞いてどうするんだ・・まあいい。せっかくの機会だ、答えてやるよ。おまえと結婚したのは、そうだな・・丁度良かったから、かな」

「・・・・・・は?」

「いや違うな。おまえと会ったとき、おとなしくて控えめな印象を受けた。堅実な金銭感覚を持っているから無駄遣いもしないだろう。これなら俺の妻として適任だ、妻としての役目を十分果たしてくれると思ったんだ。それに、結婚しないとおまえとセッ・・おまえを抱くことができなかったしな。かなり焦らされた上に、俺はかなりの犠牲を払ったつもりなんだが・・実際のところ、その点はガッカリさせられたよ」


・・・なんなの一体、その・・答えは。


唖然としている私に、壮介さんは「何だよ」と言った。

バカにした表情は、相変わらずだ。


「まさかとは思うが“愛してるからに決まってるじゃないか”なんて陳腐な即答を期待してたのか?おいおい、いい加減ロマンチックな幻想から目を覚まして現実を直視しろよ。結婚生活っていうのは、いわば妥協の産物だ。もっとも?互いに好意がなければ一つ屋根の下で暮らすこともできないだろうが・・。おまえは俺が稼いだ金で、何不自由なく暮らせているんだぞ。それなのになぜそれ以上のことを俺に望むんだ?俺には我慢ばかりさせやがってるくせに。大体おまえだって似たような理由で俺と結婚したんだろ?俺のことを“愛している”から結婚したと言えるのか?え?正直に言ってみろよ“違う”と!俺に養ってもらえることに安心したから俺と結婚したんだと認めろよ!」

「だから別れましょうと言ってるんじゃないの!私は、あなたが望むような妻にはなれないし、あなたが送りたいと思っている結婚生活を続けることは、もうできません。幸い、あなたには、私とは全然違うタイプの気の合う新しい恋人ができたようだし。子どもも生まれるんですってね。だったら私と別れてその人と再婚すればいいじゃない」

「おい」

「それが、私たちが望んでいることでしょう?離婚届は持ってきてくれたの?」

「・・・おまえ、何様のつもりだ?」

「・・え?」

「俺に生意気な口聞いてんじゃねぇよ。おまえはこれまでどおり、おとなしく、俺の言うとおり従ってればいいんだ!おまえにはそれぐらいしか取り柄がないってことが、まだ分からないのか!」

「パ、パパ・・・?」


翔は、壮介さんと私を交互に見た。

今にも泣きだしそうな表情をしている息子を見て、私の心は張り裂けんばかりに痛んだ。


・・・大好きなパパが誰かに怒鳴っている姿を、おそらく翔は初めて見たはず。

しかも壮介さんが怒鳴っている相手は、ママである私だ。

心に大きな衝撃を受けたのは、当然だと言える。

できればこんな・・お互い敵意をむき出しにした醜い両親の争いを、息子に見聞きさせたくはなかった。

だけど・・・しかたがない。

ごめんね、翔。ママを許して・・・!


「かぇろう?パパ、おうちにかえろうよ」

「ああそうだな。そのつもりでパパはおまえたちを迎えに来たんだからな。早く家に帰ろう」

「だから、私たちはもう帰らな・・・」

「翔。おまえが“パパと一緒に家に帰る”と言えば、もちろんママも一緒に帰るさ」

「な・・・・・・!!」


この期に及んで、なんて卑怯な手を使うの、この人は!

壮介さんは私が本気で離婚したいと、まだ思ってないの?

それとも、私が本気で離婚したいと思っているからこそ、翔を味方につけることで、私を従わせようとする気?

・・・そうだ。絶対そうに違いない。


「そうだろう?ママ?」


わざと問いかけるように聞いている壮介さんは、まるで鬼か悪魔に憑りつかれているかのような、邪悪さに満ちた顔をしている。


「ママ?もぅおうちにかえろうよ。かえって、なかよくしよ。ね?」


そして翔は・・・・・・私が「もちろんよ」と言って一緒に―――三人で―――帰ると信じているような、期待に満ちた表情で、私を見ていた。


息子の小さな左手は、壮介さんに握られている。

私は・・・やっぱりこの人に従わないといけないのだろうか・・・。

そうすれば、また元どおり・・とまではいかないだろうけど、少なくとも、壮介さんと表面上は仲良くしているフリをし続ければ・・・・・・。


また、我慢する?

私さえ我慢すれば、すべて丸く収まる。

そう。

「すべて、まるく、おさまる」。

って・・・死ぬまで呪文のように自分に言い聞かせれば、我慢でき・・・・・・。


『黙って俺の前からいなくなるなよ』


「・・・翔・・・。わた、し・・・ママ・・ママは・・・・・・もう、おうちに帰らない」


・・・できない。

何度も心の中で「呪文」を繰り返しても。

どうしても、自分の心に逆らうことはできない。

それに私・・岸川さんの前から、黙っていなくならないって、決めたんだから!


「・・ま、ママ・・・?」

「そうかー。ママは翔のことが嫌いになったんだな。もう翔と一緒に暮らしたくないんだってさ」

「な・・ち、違う!そんなこと私は言ってないでしょう!翔、パパが言ったことは間違いよ!翔はママと一緒に暮らすの!だからママの方にいらっしゃい!」

「誰がおまえの望み通りにさせるか。ほら、行くぞ翔。さっさと歩け」

「うっ、うっ、うわああああん!」

「ま、待って。待って!翔!!」


私は咄嗟に、翔の方へ手を伸ばしていた。

だけど、泣きじゃくりながら壮介さんに手を引っ張られるよう、ほぼ強引に歩かされている翔には届かないし、私が見えていない。


追いかけようと思った。

だけど今、ここで追いかけることは、結局私も長野の家に帰るということを意味する。

それが分かっているから、私は翔を追いかけることができなかった。

壮介さんは、わざと私をそうさせるために、翔と強引に帰る手段に出たのだ。


体中の力が抜けてしまった私は、その場に膝と両手をつき、顔をうなだれた。

アスファルトの地面に、私の涙がポタ、ポタと落ちていく。

自分のふがいなさに、情けなくて涙が止まらない―――。

「翔・・・ご、ごめんね。ごめん・・・・・・。だけど、ママは・・もぅ、パパとは一緒に、暮らせないの。ママなりに、いっしょぅけんめぃがんばった、んだけど・・・我慢、できなくて・・・。長野の家を出て、これからは翔と二人で、一緒に・・生きていくって、ママ、はもう・・決めたの。だから・・・・ごめん、ね。でも。ママは・・・翔を迎えに行く」


「必ず」と言ったそのとき、私のなかから、不思議と力が湧いてきた。

それは、生きる気力だったのかもしれない。

翔と二人で生きていくという、自分に誓った力だったのかもしれない。


私はまだ体の力が抜けていたけれど、顔を上げて前を行く二人――いや、息子の翔――を見る力を取り戻した。


「翔!ママは絶対、翔を迎えに行くから!待っててね!!必ず行くから!翔、ママはあなたのことが大好きよ!翔!あいしてる・・・愛してる、翔・・・」


・・・今は泣いちゃダメだ。

翔の姿が涙で滲んでしまうから。

泣くのは後でいい。後で・・・。


とそのとき、壮介さんが立ち止まった。

必然的に、翔も立ち止まることになった。


二人は1・2秒くらい、そこに立ち止まっていた。

すると信じられないことが起こった。

壮介さんが、翔の手を離したのだ!

さらに信じられないことに、壮介さんの手から逃れた翔は、なんと、私のところへ戻ってきてくれた!


「マ~マ~あ!わあああん!」

「・・・しょぅ・・・翔。翔・・・!」


私は、もう離さないと言わんばかりに、ワンワン泣いている息子をギュウっと抱きしめた。


それからすぐ後、私たちの頭上に、影ができた。壮介さんだ。

私は、息子の身を護るように自分を盾にして、壮介さんを精一杯睨み上げた。


「翔を使えばおまえは戻ると思ったんだが・・しょうがないな。ここまで頑固で何の役にも立たないおまえなんか、俺にはもう必要ない。だから望み通り別れてやるよ。ほら」


壮介さんは上着のポケットから封筒を出し、それを私の方へ投げるように渡した。

私の目線に合わせて屈むことすら嫌らしい。


「これ・・」

「由香は、血のつながりのない翔の面倒まで見る気はないと言っている。だから俺も翔を育てることはできない」

「あ・・・はぃ、分かりました」


・・・「ゆか」さんって・・・あっ、確か、今妊娠中の新しい愛人の名前だったわよね?

てことは・・・まさか、壮介さんが離婚に応じてくれたってこと・・・?


私は、ぼんやりと頭の中で考えながら、壮介さんが投げた白い封筒に視線を移した。

この中には、離婚届――壮介さんが判をついた署名入りの――が入っているに違いない。


途端に、私の目の前に、希望の光が差し込んだような気がした。


「慰謝料は払わない」

「それは・・結構です。いただこうとは思ってませんので。最初から」

「おまえたちとは完全に縁を切る。翔の養育費も払うつもりはないから期待しないでほしい」

「え?あ・・・はい。あなたがそう望むのなら。私はあなたのお金なんてあてにしてません」と言う私に、壮介さんはフンと鼻で笑って応えた。


「翔」

「・・なに。パパ」

「これでおまえともさよならだ」

「・・・え?パパ!」

「妻としてはもちろん、母親としても失格。人間としては完全に出来損ないであるこの女に育てられるのは少々不憫に思うが・・ま、仕方ないな。おまえがそれを選んだんだ。今頃後悔してももう遅い。俺たちはもう無関係なんだから」

「ちょ、と。壮介さ・・」

「俺はおまえの父親を止める。おまえはもう俺の息子じゃない。恨むなら自分を恨めよ」

「もう止めて!」


これ以上、翔の心を傷つけてほしくないのに。

壮介さんは平然とした口調で「パパはおまえのことが嫌いになった。大嫌いだ。もう二度とおまえの顔を見たくない。声も聞きたくない。考えただけで虫唾が走る」と言いたい放題言ってしまうと、やっと、立ち去ってくれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る