第20話 優しい心に包まれて、心の傷が癒えていく
「そんなに気になってたなら、俺に聞きに来れば良かったじゃないか。てか、朝になってサッサと帰らなきゃ良かったんだよ。ったくー。そんなに俺と“一緒に過ごした”ことが嫌だったのか?」と聞かれた私は、すぐに顔を左右にふって否定した。
「そ、ぅいうこと、じゃなくて・・」
「10年」
「はぃ?」
私は、岸川さんの胸板あたりのシャツを握りしめたまま、顔を上げて彼を見た。
「湖都。おまえは10年も心が傷ついたままだったんだぞ」
「ぁ・・・」
・・・心が傷ついたままだった、なんて・・・そんな風に考えたことはなかった―――。
「もうそんなに自分を責めるな。全てはおまえの勘違いだったんだから。な?」と優しい声と表情で、岸川さんに言われた私は、また目に涙を溜めながら、「・・ぅん」と言って頷いた。
・・・10年前のあの夜、本当は岸川さんと体の関係がなかったと知ったおかげで・・そして、優しくて温かな岸川さんの心に包まれていると実感するたびに、私の心の傷が少しずつなくなっていく。
身持ちの悪い、ふしだらな女であるという思い込みは、それから罪悪感という名を持つようになり、私の心の傷となって、10年もの間、私の一部となってずっと居座っていたのに。
やっぱり、どういう形にせよ、岸川さんとはいつか再会しなければならなかったのかもしれない。
私が、本当の人生を歩むために。
そう考えると、岸川さんという人は、私の人生の中でとても・・・重要な位置を占めているような気がする。
結局、私たちが再会を果たすまで、10年という年月がかかったけど、それも私にとっては、必要な年月だったのだろう。たぶん、岸川さんにとっても。
そして岸川さんの人生にも、私は関わっているんだ。
たとえそれが「通りすがり」の重要度しかなくても―――。
一通り泣いた私は、スッキリした気持ちで、岸川さんが持ってきてくれた「みのり園(保育園)」の申込用紙を記入した。
今日はみのり園の雰囲気や、交通アクセスを確かめに行くだけなんだけど、一応書くだけ書いておけば、申込用紙を渡すことくらいはできる。
・・これも、翔が「行きたい」と言えばの話。
あぁ、なんだかドキドキしてきた!
緊張以上に、嬉しくて、胸が弾んでいる。そんな感じだ。
それに、とっても・・嬉しい。うん、嬉しいんだ、私。
これがちょっとした行動だとしても、少しずつ前に進んでいけている気がするから。
シングルマザーとしての新たな人生を、息子と一緒に歩んでいくことに勇気を得た私は、心がワクワクしてきた。
岸川さんは、国立の駅まで私と息子を乗せてくれた。
「みのり園」まで一緒に行きたかった・・らしいけど、急な仕事が入っているので、一緒に行くのは時間的に無理だった。
どちらにしても、私は車で送迎をしないので、その方が助かるというか・・実際歩いてみないと、確かめようがないし、不器用な私は、実際に行ってみないとシミュレーションできないタイプなのだ。
『今日は本当にどうもありがとうございました。その・・いろいろと』
『いやいや。結果は今晩にでも教えて』
『はいっ。それじゃ。翔、岸川さんになんて言うの?』
『ぁりがとう!ミズキのおじちゃん!』
『おうよ!またごはん一緒に食べような』
『うん!ばいば~い』
『じゃ、失礼します』
『あ、湖都っ』
『はい?』
『黙って俺の前からいなくなるなよ』
私は驚いた表情を隠せないまま、思わず岸川さんの顔を見た。
だけど、そのとき私は気がついた。
この人は、また私がいなくなるんじゃないかと、不安に思ってる―――。
『湖都?』
私はすでに、岸川さんの人生に関わっているんだ。
重要度なんて関係ない。
ただ真剣に、ありったけの誠意を込めて関わる。
それが岸川さんに対する礼儀だと思ったからこそ、口から出た言葉だった。
『・・・そんなことはしません。もう二度と』
岸川さん、私はもう二度と、あなたに黙っていなくなりません。
あなたを不安にさせたり、悲しませるようなふるまいは、したくないから。
みのり園は、岸川さんの事務所の通勤路と真逆の方向にあるという短所があるものの、それ以外の点は全て満足した。
息子の翔も気に入ってくれた。何よりそれが肝心なポイントもクリアしたところで、園長先生に申込用紙を渡しておいた。
おおらかで朗らかな園長先生は「明日は祝日で週末は三連休ですから、週明けからいらっしゃいますか?こちらは構いませんよ。翔くんもお友だちと遊びたいでしょう?」と優遇してくれたことも、非常に助かる。
これも私たちの事情を、岸川さんが説明してくれていたおかげだ。
園長先生には「では週明けからよろしくお願いします」と答えて、私と翔は実家に帰った。
翔は、岸川さんの車の中でも話していたこと――家具店のプレイルームで何をして遊んだのか――や、自分が通うことになるみのり園のことなどを、また私に話して聞かせてくれている。
私は苦笑を浮かべながら息子の話を聞きつつ、頭の中では別のことを思っていた。
・・・自分がふしだらな女じゃなかったと知って、正直ホッとした。
と同時に、自分があまりにも未熟で、男の人について、いや、岸川さんという人について、あまりにも知らなさ過ぎた。
もっとも、岸川さんとは10年前のあの日が初対面で、合コンで出会って一晩――だけど、結局半日足らず――しか、一緒に過ごしていなかった。
加えて私はあのとき意識が混濁していて、何を話したのかすらロクに覚えていない状態だ。
そこから彼の全てを知ることは無理だっただろう。
でも、もし翌朝、私が逃げるように帰らなかったら・・・?
なんて、実際には起こらなかったことを今さら悔やんでも、起こった過去は変わらない。
だけど、10年経って岸川さんと再会して、こうして話をして。
私がものすごい・・誤解をしていたことが分かったことで、過去の出来事に対する「恥ずべき想い」や罪悪感はなくなった―――。
「・・・ねぇ、ママぁ。きいてる~?」
「えっ?あ・・うん。聞いてるよ。翔は今何時?ってママに聞いたんでしょ?えっと」と言いながら、腕時計を見た私は、「もうすぐ4時だよ」と答えた。
・・・まさかこの時計が私の元に返ってくるとは思ってなかった。
失くしたと思っていた10年の間、岸川さんがずっと持っていてくれたんだよね。
それだけじゃなくて、修理に出して直してくれていた。
『なんかさ、これ大切に持ってたら、いつか湖都と再会できるかもしれないと思ってたんだ』
・・・岸川さんは「冗談だ」って言って、なんか・・ごまかしてたようだったけど・・本当は腕時計に願かけしてたんじゃないかな、「いつか湖都と再会できますように」って。
だとしたら、嬉しいんだけどな。
「わぁ!・・どぅしたの?ママ」
「うん。なんかね、急に翔を抱きしめたくなったの。翔」
「なぁに?ママぁ」
「大好き」
「ぼくも、ママだいすき」
「ありがとう。さあ、おうちまで歩こうね。あと少しで着くよ」
「うん!」
・・・家に帰ったら、翔に話そう。
これからのこと。
どうしてみのり園へ行くことになるのか。
そういったこと、全てを包み隠さず、相手が3歳の子どもでも、できる限り理解できるように話さなきゃ。
そのとき私は、もし・・・仮に、岸川さんのことを知っていったとして、それから私たちの関係はどうなっていただろうかと、ふと思った。
私は大学に通うために長野に行ってたんだ。それ以上の仲に発展していたとは、とても思えない―――。
母の家(実家)のすぐそばに立っていた誰か――男性――が、私たちの話し声か足音を聞いたのか、こっちにふり向いた。
途端に、さっきまでウキウキしていた私の気分は、たちまちしぼんでしまい、「近づいてはいけない」という条件反射に従うかのように、自然とその場に立ち止まっていた。
「・・・そうすけさん」
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