第19話 あの夜の、真実
「ど、どうして・・」と呟いた私は、慌てて頭を左右にふった。
それでは質問の内容が違ってると思ったから。
10年前に失くしたはずの腕時計を、今、懐かしく見ながら、私は思いきって視線を岸川さんに移した。
「どこで、これを・・・?」
「俺んち――って言っても、今はもう住んでないけど――の、ベッドの傍に落ちてたよ」
「そぅ、ですか・・」と呟きながら、私は再び腕時計を見つめた。
「あれ?これ・・留め金が緩くなってたはず・・」
「あぁうん。だから修理してもらった」
「え!?そんなことまでわざわざ・・・すみません」
「いやぁ、それは別にいいけど。ホントはすぐにでも渡したかったんだが、連絡先も、どこに住んでるかも全然知らないまま、湖都はいなくなっちまったからな」
「ぅ」
少々避難がましい岸川さんの言い方に、私は恐縮しながら「ごめんなさい」と謝った。
だって岸川さんが私を責めたくなるのは・・・もっともだと思うから。
「お礼を言って欲しいために湖都ちゃんを介抱したんじゃないけどさ、せめて一言“帰る”くらいは言っても良かったんじゃないのか?俺、マジで心配したんだぞ。シャワーから出たらもういなくなってたから」
「そっ、それは、ホントに・・・・・ごめんなさぃ」
あぁ、私・・もう岸川さんに顔向けできない!
いっそのこと、このまま「私」という存在が消えてしまったらいいのに。
でも現実的に、それはできないことだから、私は現状でできる限り、身を縮めることに専念した。
「だが」
「はっ、はい?」
「靴もバッグも服もなくなってたし。てことは、湖都がちゃんと自分で服着てバッグ持って靴履いて帰ったんだなと俺は解釈した」
「えぇ、そのとおり、です・・・」
私なりに精一杯身を縮めたまま呟くと、隣から岸川さんのクスクス笑う声が聞こえてきた。
・・・良かった。岸川さん、怒ってなくて。
「湖都のことだ、恥ずかしかったんだろ?俺に酔いつぶれた姿を見せてしまって」
「えっ!?そ、それは・・」
「で、酔いと目が醒めた後、俺にどう“対応”したらいいのか分かんなくてさ」
「ちょ、っと!だから私、酔ってたって知らな・・・」
・・・そうだった。私、あの合コンのときに間違ってお酒(アルコール)飲んじゃって。
それで酔ってたから、その後、岸川さんと過ごした夜の記憶が全くないんだ・・・。
「・・・あのぅ」と言いながら、思いきって岸川さんの方を見た。
「ん?なに」と私に答えた岸川さんは、右ひじで頬杖をついて、私の方を見ていた。
・・なんか、表情に余裕があるな、岸川さん・・・。
「この時計、ずっと持っててくれたの・・・?」
「ああ。なんかさ、これ大切に持ってたら、いつか湖都と再会できるかもしれないと思ってたんだ」
「・・・え?」
「ていうのは冗談で」
「もうっ!」
「本当は、湖都と再会できたら、これ返さなきゃいけないと思った・・ていうのも、ちょっと違うな」
「岸川さんっ」
「やっぱ10年も経ってるからな、湖都のことは忘れてたときもあったよ。だけど
「改めて見てみると留金が緩んでたから、あぁそれで湖都は時計を落としたまま忘れたんだと思って、早速修理に出した。針も止まってたから、ついでにそれも直してもらった。ぶっちゃけ言うと、いつ止まってたのかすら知らなかったが・・・。ホントは、針は止まったままの方が良かったのかもしれないと思ったんだ」
「・・え?それは、どうして・・」
「う~ん、なんでかなぁ・・・。俺たちの間にある空白の時間も止まったままになると思ったから?たぶん。って言った俺自身がよく分かってねぇな」
ハハッと笑った岸川さんは「とにかく、もう直したから俺のたわごとは気にしなくていいよ」と言った。
「・・・岸川さん」
「なに」
「ありがとうございました。今更、ですけど・・。それから、ごめんなさい。ホント、迷惑をかけてしまって。あの・・母に渡しておこうとは思わなかったんですか?腕時計」
「いいや。それはない。真緒さんからは、“白樺”をどういう喫茶店にしたいのかという、要するに仕事に関することの他に、家族については、旦那さん――って湖都ちゃんのお父さんのことだな――は亡くなったってことと、お嬢さんが二人いて、二人とも結婚してるってことくらいしか聞いてなかったし、家族の写真を見せてもらったこともないんだ。だけど真緒さんの面影とか雰囲気とか、どことなく湖都と似てると思ったから、真緒さんの娘の1人が湖都だと確信はしてた。でも俺から“お嬢さん”のことを詳しく聞いたことはないし、真緒さんから話してくれたこともない。今度の事務の件で、久しぶりに話題になったくらいでさ。そのときも“湖都”って名前すら出てこなかったよ。そういう、俺が一方的に確信してる状態で真緒さんに腕時計を渡すことはできなかった」
「そう、ですね・・」
ホント、岸川さんの言うとおりだ。
「真緒さんも俺のことは事務所に来て初めて知ったようだったから、俺たちが10年前に一度会ったことは、真緒さんに言ってないんだろ?」
「もちろんです!だって、出会ったばかりの、ほとんど見ず知らずと言ってもいい男の人の家にノコノコついて行ってしまったとか、しかも朝帰りしてしまったとか――その日はお姉ちゃんちに泊まることになってたけど、お姉ちゃんも彼氏の家に泊まってたから、気づかれずに済んだけど――と、とにかくっ!そんな、自分でもまさかそんな・・大胆なことをするなんて、想像すらしてなかった恥ずべき行為を・・それも途中から全然覚えてないことなのに、わざわざ懺悔するわけないでしょ!」
「え?ちょっと待った。“途中から全然覚えてない”って・・・」
「・・・あっ・・・!」
つい口が滑って言ってしまった・・・。
だけど岸川さんには「今の話は聞かなかったことにしてください!」なんて、言える雰囲気じゃない。
それでも私は思わず両手を、自分の口を塞ぐように置いていた。
「湖都ちゃん」
「・・・はぃ」
「あのときのこと、どこまで覚えてるんだ?」
「え。っと・・・・・・岸川さんとタクシーに乗った、ところで途切れて。その前もちょっと曖昧っていうか、断片的で、あとは・・・・・・気づいたら朝になってて、わ、わたし、ベッドに・・・ぃた・・」
「ほぼ裸で寝てた」とまでは言えない!
あぁ、なんかすごく・・・いたたまれない、雰囲気・・・。
私は重圧に負けたように、そして岸川さんの顔を見ないで済むように、顔をうなだれた。
私の“懺悔”から数秒の沈黙の後、岸川さんはまず、「あ、そう」とだけ言った。
「じゃあ、“あのこと”も覚えてないんだ」
「な、なんですかっ!?“あのこと”って」
「俺たちがどんな話をしたのか、とか」
「それは、あんまり・・・・・・」
と言うより、ほとんど――たぶん――覚えてない。
楽しい雰囲気だったとは思う。面白くて笑っていたことは、断片的に覚えてるから。
だけど、具体的な話題までは思い出せない。
私は頭を左右にふりながら、岸川さんに「ごめんなさい」と言った。
「じゃあ、俺たちが部屋に着いた後のことも覚えてないよなぁ?」
「お、覚えてない、です・・・・・・けど、わたし・・・・・」
もうこうなったら!ここまで話したんだから!
岸川さんに直接聞くしかない!
意を決した私は、ずっと気になっていた「部屋に着いた後のこと」を、思いきって岸川さんに聞いてみることにした。
今が「そのとき」っていうか・・今を逃したら、もうこのことは二度と聞いてみる勇気がないし、チャンスもない気がするから。
「き、岸川さんっ」
「ん?」
「えっと、私たちは、あの、あのとき・・・」
「してないよ」
「・・・ぇ」
・・・してない・・・?
「ほ、本当?」
「ああ」
「本当に!?」
「ホントだって。“俺たちは一緒に寝たのか”って聞いてんのなら、“寝てない”が答えだ。湖都が俺のベッドを独り占めしたから、俺はリビングのソファで寝たよ」
「あ・・・あぁ、そうだったんだ・・」
「もっとハッキリ言えば、セックスもしていない」
「ぇ。で、でも!私、服、着てなかった・・・ですよ?」
「そりゃあおまえが自分で脱ぎ始めたんだろーが」
「・・・え?わ、わたし、が・・・?」
顎に人さし指を当てて、口をポカーンと開けたままの、超間抜け面をしている私を気の毒に思ったのだろう。
岸川さんは、盛大な溜息をつくと「ホンット、なんも覚えてないんだなぁ、おまえは」と言いながら顔を左右にふった。
・・・いや。これは気の毒がってるっていうより、呆れてるって言った方が当たってる・・・。
「当時の俺んちに着いてホッとしたのか?その辺はよく分からんが。おまえは“もう寝る~”と言い出して俺に寝室案内させてからすぐ、自分で服脱ぎだしたんだぞ。俺に予告もなく」
「うそっ!」
「そんなことで嘘ついてどーすんだよ。だから俺は慌てて寝室から出た。そして俺はリビングのソファで寝る羽目になった。これが正真正銘の事実であり、真実だ」
「そ、そぅ、だったんです・・・ね」
・・・やっぱり私、消えていなくなった方がいいのかもしれない・・・あれ?
ってことは。
あのとき、本当にただ泊まっただけ、ってことになるのよね。
つまりそれは、私と岸川さんの間に、体の関係はなかった。
イコール、私の「初体験」は、壮介さんとの結婚初夜ってことになる―――。
「ったく。記憶なくすほど酔った挙句、男の前で服脱いでも貞操が無事だったのは、相手が俺だったからだぞ。ま、俺は最初っからソファで寝るつもりだったが・・ておいっ、湖都!?どうしたんだよ!なんで泣くんだよ?」
「ご、ごめ・・・・・わたし、ずっと、自分が・・・何て事をしてしまったんだって、ずっと・・・」
「あ・・・・・そっか。気にしてたのか。覚えてなかったなら尚更だよな。ごめんな。俺が悪かった・・」
「ちがっ!岸川さんが悪いんじゃなくて。全ては私が・・・私のせいなんです」
私が自分のトートバッグからハンカチかテッシュを出すよりも早く、岸川さんは彼自身のハンカチを、私に差し出してくれた。
お礼を兼ねて頷きながら受け取ったそれを、涙で濡れた目頭や頬に充てて、私は泣き止もうと懸命に努力をした。
「あれは、自分で引き起こしたことだから。たとえ、岸川さんと、そうなってしまっていたとしても仕方ないって、ずっと・・自分を責めて。自分のことが信じられなくて。・・・私って、恋愛面は本当におくてで、誰かを好きになったりとか、告白したり、されたりといった経験もなくて。だから、当然誰ともつき合ったことなんてないまま、女子校を卒業したばかりの時に、岸川さんと・・ああいうことになってしまって――10年経った今は、誤解だったと分かったけれど――その後すぐ、大学に進学してからもずっと、男の人とおつき合いなんてできなかった。だって、自分がすごく・・身持ちが悪くてふしだらな女だと思ってたから・・・」
「あぁ、湖都」
「・・・ぁ」
隣に座っていた岸川さんが、私に手を伸ばした。
と思ったら、もう私はすでに、岸川さんに抱きしめられていた。
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