第18話 シンデレラの、忘れもの

「そっか・・。旦那の浮気を知ったのが2・3ヶ月前だったのか?」


その問いに、私は顔を左右にふって否定した。


「もうずっと前から。主人は・・・あの人は、私がその・・・応じないから。妻としての・・・分かる、でしょ」

「ああ」

「それであの人は、私の代わりが必要だと言って。欲求を満たすために。私にバレてからは、堂々と行うようになって。それでも・・・ううん、だから私は、他の人とそんな風にしている主人とは、絶対に嫌だって、ますます拒否するようになって・・」

「だよな。普通はそうだろ」

「え?」

「てか俺、旦那の心理が全然分かんね。なんで結婚してからも他の女とつき合えるんだ?」

「あ・・・さぁ。私もそこは、分からない・・・。ただ、私が何を言っても、主人は浮気することは止めないし、私が応じないから浮気をするしかないだろうと私のせいにしながら、これは遊びだと浮気を正当化するだけで。慰謝料なんていらないから、とにかく離婚してほしいと何度も頼んだけど、聞き入れてくれないまま時間だけが過ぎていって・・・翔を連れて実家に帰ろうと何度も思いました。だけど、息子はあの人のことが大好きで―――何にも知らないから―――あの人も、息子にそういう・・醜い部分を見せるべきじゃないという考えを持ってて。それで、私さえ我慢すれば、全て丸く収まるんだ、私もワガママを言ってるんだからって自分に言い聞かせて・・そうやって、現状から逃げてた」


壮介さんとの、無駄に過ぎていった結婚生活の日々を思い返しながら話していると、時に言葉が詰まり、感情が高ぶって、つい、涙が出そうになった。

けれど、岸川さんにそこまで私の想いをあらわにしてはいけない。

だって私は、岸川さんに同情を求めているのではないのだから。


そんな私を、岸川さんはただ、見てくれていた。

でもその表情は、意気地のない私を励ましてくれているような気がする。

おかげで、現状から逃げない勇気が、現状に立ち向かう力が、湧いてきた。


「この2・3ヶ月、主人の様子がいつもと違うと思ったら、今度の――一番新しい――浮気相手が妊娠してることが分かったんです。それで私、やっと翔を連れて家を出る決心がついた。相手の女性は子どもを産むつもりだし、その女性ひとによると、壮介さんも、子どもを産むことに賛成してるらしいから。私も・・反対はしない。むしろ、これであの人は、今度こそ離婚に応じてくれるはずです。今回は、浮気じゃなくて、本気になったから、様子が違ったと思うんだけど・・・あの、岸川さん。翔にはまだ、離婚することとか、長野には戻らないこととか、全然話してないんです。だから・・」

「分かった。翔くんには言わないよ。約束だ」


岸川さんが、私に右手を差し出した。

なぜか、親指を立てた握りこぶしの「グッジョブ」スタイルで。


「はーい、じゃあ俺と拳合わせて」

「え?」

「で、親指のここを」

「えっ?なっ、なに・・」

「こうしてブチュッと・・」

「えぇっ!?」


岸川さんは、左手で私の右手首をそっと持つと、自分と同じような「グッジョブ」スタイルを作らせて、立てたお互いの親指の指紋部分を、拇印を押すようにくっつけ合わせた。


「な、なんですか!?これは・・」

「岸川家流“ザ・指切りげんまん”だ」

「ウソばっかり!」

「ホントだってー。うちではこれが、“指切りげんまん”なんだよ。今ではシグマ家でもこのスタイルになってるんだぞ」

「シグマ家って?」

「妹家族」

「あぁ・・・」


ニマニマしながら「うちに受け継がれた伝統ってやつだな」と、自信たっぷりに言いきった岸川さんに、私は「ヘンなの」と呟いた。


でも・・・嬉しかった。

そして、心の底からホッとした。


だから私は泣きだす前に、思いっきり笑った。


「とにかく、指切りをした以上、俺たちの約束は無事成立だ。俺から翔くんには言わないよ。信じて」と言う岸川さんの声音を心地良く感じながら、私はコクコク頷いて応えた。


そして私は、笑い過ぎて出てきた目の際の涙を、さりげなく指で拭いながら「そう言えば・・」と言った。

じゃないと、本当は岸川さんの態度と言葉に安堵し、感激して泣いてしまったことが、岸川さんにばれてしまうかもしれないから、何か次の話題を言わなきゃ・・と思ったとき、咄嗟に思い浮んだことがあったからだ。


「ん?なに?」

「岸川さん、私に何か、渡したいものがあるって・・・」

「あー、そうだ!忘れないうちに・・・えーっと、二つあるんだけど。まずはこれから見てほしい」

「え?二つもあるんですか?ってちょっ、と・・・」


向かいに座っていた岸川さんが、急に椅子ごと私の隣に移動してきたことに、私はビックリしてしまった。


「どうした?」

「いや、べつに・・」

「二人とも同じ向きの方が互いに見やすいと思ってさ。ほら、スマホだから画面小さいだろ?」

「あっ、あぁ・・そぅ、ですね」

「もうちょっと待ってな。今サイト出すから」


私に渡したいものの一つは、どうやら見せたいサイトみたいだ。

それにしても・・・近い。私たちの、距離・・・。

スマホ操作に集中している岸川さんの横顔を見ながら、私は「はぃ」と呟いた。

でもそれからすぐに岸川さんは「あったあった!」と言って、私を見ると、安心させるようにニッコリ微笑んだ。


・・・その笑顔に、私の胸の奥がなぜ、ドキッとしてしまうんだろ・・・。


「これ見て」

「えっ?あぁはいっ!」


私は、岸川さんから視線を引きはがすと、すぐにスマホの画面に注目した。


「これは・・・?」

「都内の保育所と託児所リスト」

「え」

「昨日調べてみたんだ」

「・・わたしのために、わざわざ・・・」

「うん。まぁ・・だが、もし湖都ちゃんが来てくれなくても、湖都ちゃんみたいな状況の人が応募してくるかもしれないから、“わざわざ”調べたんじゃないよ」

「そぅですか・・・。すみません。私・・自分のことなのに、岸川さんに頼りっぱなしで・・」

「いやぁ・・・ホントのことを白状すると、土井さんが調べてくれたんだ」

「え?」

「実のところ、湖都ちゃんが面接に来てくれたときに初めて、お子さんを預ける支援っていうか・・そういうのを俺も考えておかなきゃいけなかったと気がついた次第でさ」

「あぁ・・・土井さんの場合は必要なかったんですよね」

「そ。で、土井さんが調べてくれた結果、事務所に近い施設はどこも空きがないと言われた」

「そうでしたか・・」

「今春休みの時期なんだろ?」と岸川さんに聞かれた私は、「もうすぐ。この週末から・・はい」と言いながら、コクンと頷いた。


「“時期的に遅すぎる”んだってさ。つまり、今申し込んでも、早くて来年度からの入園になるそうだ」

「そうですか」と私は呟きながら、岸川さんのスマホ画面をじっと見た。


「・・こんなにたくさんあるのに」

「だよなぁ。俺も油断してた」

「岸川さん」

「ん?」

「あの・・わざわざ調べてくださって、本当に・・どうも、ありがとうございました」

「いやいや。ただ、そうなったら湖都はどこにも仕事に行けないだろ?俺んとこだけじゃなくて」

「うん、そうですね」

「それじゃあ湖都が困るよな?」

「えぇ」

「湖都に来てもらう俺も困る」


そうキッパリ言いきった岸川さんは、もうすでに「私を採用する」いう前提で話を進めてるじゃないの!


おかしいのと、何となく照れるのと、半分ずつの想いが混じりながら、私はつい、出そうになる笑いを、どうにかこらえた。


「そこで俺は考えた。何か打開策はないかと」

「もしかして、あったんですか?」

「うーん・・・一つだけ思いついた」

「ホントに!?」

「ああ。だが、これが策になるかどうかはまだ分かんねぇから。まず俺の話を聞いて」

「あ・・はい」

「二年ほど前に、俺、あるクライアントの依頼を受けて保育園の改装をやったことがあるんだ」

「保育園・・・」

「うん。それを思い出してさ。早速連絡を取って事情を説明したら、今のところ一人だけなら受け入れられると言ってくれたんだ」

「あ・・・そうですか!良かった・・・」

「でもさ、その保育園って国立くにたちにあるんだ。事務所からは遠いだろ?なるべく俺も手伝うけど送迎が大変じゃないか?」

「えっ?え、っと・・・そぅ、ですね・・確かに、岸川さんの事務所とは遠いけど、うち、って、今いる実家は国立の近くだから」

「え!そうだったのか。俺んち吉祥寺の方だよ」

「え?そうなんですか?湘南は・・・」

「それいつの話だよ。大分昔に引っ越したって」

「あぁ、やっぱり・・・」


私たちは顔を見合わすと、クスクス笑った。

相変わらず岸川さんが近くにいるけど、距離の近さはもう、気にならなくなっていた。


岸川さんは「じゃあ結局良かったんだな、この案」と言いながら、黒革のブリーフケースのジッパーを開けて、何かを探し始めた。

そして、岸川さんがそこから取り出したのは、数枚の紙だった。


「これはその保育園の入園申込書だ」

「え!もう用意、してたんですね」

「プリントアウトしただけだよ。それからえーっと、これが保育園のサイト。見て」

「あぁはいっ」


スマホの画面を見た私の第一声は「わぁ!」という感嘆の声だった。


「ここ、本当に保育園なんですか?」

「ああ。元は寺だった建物を保育園として使いたいと要望があってね。だから見かけはまだ寺の風情が残ってるけど、ちゃんとした保育園だから心配しなくていいよ」


建物の中の画像は、壁や窓には賑やかな飾りつけがされている。

翔が通っていた幼稚園と同じように。

いや、そこ以上に賑やかで、活気がある。

雰囲気も・・いい感じ。


「ほんとだ・・」

「あと、建物のせいか、仏教の教育方式なのかとよく聞かれるって園長先生が言ってたけど――半分は冗談だと思うが――みのり園は無宗教だし、宗教の授業なんて全くしてないそうだ。だから、どの信仰を持っている子も歓迎するって」

「そうですか。私・・うちは無宗教だから、大丈夫です」

「もちろん、受入人数には限りがあるから、できれば今週中に申込用紙を持ってきてほしいと園長先生から言われてる」

「じゃああと3日以内、ですね」

「あまり時間がなくてごめん」

「いえっ。私・・帰りにみのり園に行ってみます。翔と一緒に。翔が行きたいって言ったら、申込用紙を渡します」

「よし。じゃあこのサイトは湖都ちゃんのスマホに送っとくよ」

「あ、はい。そうしてもらえたら助かります」


スマホを操作しながら「今晩にでも結果教えて」と言う岸川さんに、私は笑顔で「はいっ」と答えた。


「まずは一つめクリア。それからっと・・・・・本当はこれを渡すのが今日の目的だった」

「え?一体、なんですか?」


胸のドキドキが、ちょっと強くなった気がする。


「はい」

「こ、これ・・・・・・!」


黒革のブリーフケースから岸川さんが取り出したものは・・・。


「10年前の忘れものだよ、シンデレラ」


あのとき失くした、私の腕時計だった―――。

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