第14話 今は、いないよ

「・・・ん?あれ?おっかしいなぁ。聞こえね。湖都ちゃーん?おーい、もしもーし!」


スマホから聞こえてきた岸川さんの低い、微かな声で、私はハッと我に返った。


私ったらもう・・・何やってんだろ。

電話中の今は、感傷に浸っているときじゃないっていうのに!

・・・ていうか、なんで「騙された」って思わなきゃいけないのよ。

なんで私は「傷ついた」って思ってるの?

岸川さんとは何でもないのに、それこそおかしいじゃない。


気を取り直した私は、再びスマホを耳に当てた。

その途端、「もしもし?湖都?そこにいるのか?」と私を呼びかける、岸川さんの声が聞こえて・・・。

それがちょっと切羽詰まった感じで、同時に、心底私を心配しているのが伝わってきて――しかも岸川さん、「湖都」って呼び捨てしてるし――。


いろんな想いを象徴するように、私の心臓がドキンと跳ねてしまったけれど、それをいなすように、スマホをギュッと握りしめた。


「ぁ・・はいっ!ご、ごめんなさいっ。岸川さん、一人じゃなかったのにお邪魔して・・・」

「え?あぁ、父さんたちとはさっき別れたし。てかちょうど帰るときに湖都ちゃんが電話くれたんだ」

「・・・ぇ?とう、さん・・・?」と、私は確認するように呟きながら聞いた。


でもさっき岸川さんは「トモコさん」って言ったよね?

ていうか・・また「ちゃん」づけに戻ってる・・。


「ああ。それとトモコさんも」と岸川さんが言ったとき、つい私は鋭い声で、詰問するように「トモコさんって誰」と聞いていた。


「えーっと・・・そうだな、なんていうか・・」

「あの!ごめんなさい。もういいんです。言いたくなければ別に言わなくて・・」

「いやいや!そういうんじゃなくてさ・・・要するに、トモコさんは、父さんの再婚相手なんだ」


たっぷり4秒の間が開いた後、私が最初に発したのは、「・・・へ?」だった。

かなり間の抜けた声だったと、自分でも思うくらいの。


「お父さんの、再婚相手・・・?」

「あぁ。俺――と妹――の母さんは12年前に亡くなったんだ。病気で。肝臓がんだった」

「あ・・・そうでしたか・・。ごめんなさい、知らなくて」

「いいんだよ。湖都ちゃんは知らなかったんだから。それで、父さんがトモコさんと再婚したのが1年半くらい前の話でさ。なんでも同窓会で何十年ぶりかに再会して、お互い意気投合したんだと」

「へぇ」

「俺も妹も再婚には反対してないんだ。さっきも言ったように、母さんが亡くなって10年以上経ってるし、父さんもトモコさんもお互い独身だったし。何よりトモコさんもいい人だ。再婚したいなら、子どもとはいえ、もう成人している俺らに遠慮なんかしなくていいと、俺も紀恵いもうとも思ってる」


岸川さんの言葉に、私は頷きながら「分かります、その気持ち」と言った。


もし、母が「再婚する」と言ったら。

相手に支障がない限り(例えばまだ結婚しているような、絡まった関係の場合は・・ややこしいと思う)、姉も、義兄おにいさんも私も賛成すると思うから。


「それで父さんはめでたく再婚したんだが、“母さん”と呼ぶのも今さらってぇか・・正直“母親”とは思えないし、かといって“義理の母親”ってのも、なんか違うしな」

「確かに・・そうですね」

「そのあたりの心情はトモコさんも分かってくれてるから、俺も紀恵も“トモコさん”と呼んでいるというわけだ」

「そうでしたか」と私は言いながら、たぶん私も、母の“再婚相手”は名前で呼ぶだろうなと思っていた。


「“両親”とは最低でも月に一度は必ず会ってるんだ。紀恵は沖縄に住んでて埼玉には滅多に来ない、てか来れないからな」

「えっ!?今岸川さん、埼玉にいるんですか!?」


驚いて聞く私に、岸川さんはあっさり「うん」と答えた。


「で、今日はその日で晩メシごちそうになって、今から家に帰るとこ・・・あー。もしかして湖都ちゃん、トモコさんのこと俺の彼女だと勘違いした?」

「え!いやっ別にその・・・・・・ごめんなさい。私には・・関係ないことなのに、いろいろ問いただしちゃって・・まるで嫉妬深い彼女みたい」


何気なく私の口から出た最後の呟きを、岸川さんはしっかりと聞いていたようだ。

スマホから、岸川さんのクスクス笑う声が聞こえてきた。


またおもしろがってる。

これも、私より「大分」大人の余裕ってやつ?なのかな・・・。


「今はいないよ」

「・・え」


岸川さん、それ・・・初めて会ったあのときも、同じこと、言った・・・。


再び10年前の居酒屋に、心がタイムスリップした私の頬が、ポッと熱くなるのを感じた。


「つき合ってるひと。俺、今は誰ともつき合っていない。ホントにマジで」

「ぁ・・・」

「それに、関係なくはないだろ?」

「・・・え?」と私は言いながら、目をパチッと瞬かせた。


「湖都ちゃんに仕事を引き受けてもらう予定の俺としては、湖都ちゃんには俺のいろんなことを知ってほしいと思ってるよ」

「ぅぅ。またそんな・・・」


岸川さんの言葉、一つ一つに、私の何かが反応してしまって。

つい身をよじってしまいたくなるのはなんでだろう・・・。


「あぁ別にプレッシャーかけてないからなっ。ただ単に、俺はズボラ・・らしいから?少しでも俺のいろんなことを知ってもらえれば、そんなに呆れられることもないかと思って・・そこは誤解しないでほしい」

「・・してませんよ」


岸川さんが必死に弁解していることがおかしくて――しかも岸川さん本人は、自分がズボラであることを、あんまり認めたくないことも分かったし――私が笑いをこらえながら答えた後、スマホから岸川さんのクスッと笑った声が聞こえて、私はなぜかホッとしていた。


「じゃあ明日の・・そうだな、12時以降になるけど、それでもいいか?」

「あ、はい。私たちの方は大丈夫です。えっと、事務所に行った方がいいですか?」

「そうだな・・うん。そうしてもらえれば助かるよ。ファミレスは事務所の近くにあるから」

「分かりました。家を出たら、岸川さんに電話か、メール送ります。それと、もし、ですけど、遅くなってしまうときも・・とにかく、連絡します」

「よろしく。俺の方も万が一ってときは連絡する」

「はい。お願いします」

「じゃあまた。明日会おう」

「はい。じゃ・・・あっ、あの、岸川さんっ?」

「ん?なに、湖都ちゃん」

「ぁの・・・車、ですか」

「そうだよ」

「自分で運転して帰るんですか」

「うん。そうだよ」

「気をつけて帰ってくださいね」


一瞬の間があった後、岸川さんは「・・・ありがと」と私に言った。


「今から誰も待ってない真っ暗な家に帰るせいかなー、湖都の優しい声聞けて、なんか俺・・ホッとした」

「・・え?え、っと・・・そぅ、ですか・・・」


ま、また!岸川さん、「湖都」って呼び捨てした・・・!


再び私の心臓が忙しくドキドキ跳ね始めたのを、極力無視するように努めた。


今のはきっと・・・岸川さんは無意識に呼び捨てただけで――だって、その方が文字数少なくなる分、呼びやすいし――特に深い意味もなくて!

とにかく、何でもないのよ!と、自分に言い聞かせた。


「・・・湖都?」

「ぁ・・はいっ?あの・・・おやすみ、なさい」

「うん。おやすみ」


やっとの思いでスマホをオフにした私は、全身脱力しながら息をついていた。


ほんの少しの会話でここまでドキドキ・・疲れたのは・・・初めてかもしれない。

でも。家族以外の誰か――男の人――に「湖都」って呼ばれたのは――しかも一時に何度も――岸川さんが初めてだったから・・・。

主人でさえ、私のことは「湖都ちゃん」と呼んでいた。

それも結婚後、間もなくのことまでで、それ以降は「おまえ」としか呼ばなくなっていた・・気がする。

壮介さんが言う、私への「おまえ」は、愛情がこもった「俺の者」的ではなく「俺の(所有)物」的な響きに聞こえるから、私は不快に思って・・最終的にはうんざりした溜息すら出なくなっていた。


なんか、壮介さんのことが遠い、遠い存在に思えてならないのは・・・もう無関心だから、かな。

その、関係は――一応――まだあるけど無関心な主人からは、今日も連絡がなかった。

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