第12話 私しか、いない
「白樺」から帰ってきた母は、仕事の面接がどうだったか、私の口から「詳細」を聞きたくて、ウズウズしているように見えたけれど、息子の翔が寝るまで、その話題はふらないでくれたことは助かった、と思うべきか・・。
母が紹介してくれた仕事の話だったから、気になるのは私にも分かる。
それに、仕事の上司は母“お気に入り”の岸川さんだし・・。
翔は今日、私と一緒にたくさん歩き回ったせいか、楽しかった以上に疲れていたのだろう。
7時を過ぎたころには「ねんね」と言って、ベッドに入るとすぐ寝息を立て始めた。
息子のあどけない寝顔を見ながら、子どもは良いなぁ、「単・純粋」でと思う。
でも私自身が翔の年齢くらいだった頃、「仕事どうしよう」とか「これからどうやって息子を育てていこうか」なんてことは考えてなかったはずだ。
それに、将来離婚をすることになることも。
シングルマザーになる覚悟は、できている・・つもりだ。
翔の母親である私が、果たして父親役も務めることができるかどうかと思い悩む段階は、もう過ぎてるんだから。
息子のこれからの人生がどう進んでいくのか、どの方向へ進むのか。
その重大な責任は、親の私にある。
言い換えれば、私次第で翔の人生は、良くも悪くもなるってこと・・・。
私は、責任という名の重圧が両肩にのしかかってくるのを感じると、思わず目を伏せ、細く長いため息を、一つついた。
・・・だけど、「幸」か「不幸」かは、自分で選ぶことができる。
私はシングルマザーになっても幸せ・・ううん、別れたいと思う主人と惰性で結婚生活を続けていくより、もっと、ずっと幸せだと言いきれる。
今後、経済的に苦しくなったとしても。それでも私は幸せだと思う。
翔と一緒に暮らすことが幸せだし、息子を育てることが幸せだ。
私には、翔を育てるという、親として果たすべき責任がある。
でも、息子の人生は息子自身のものだ。私の人生が私自身のものであるのと同じように。
責任は「重圧」でもなければ「負う」ものでもない。
責任は、責任。ただそれだけのことじゃない。
そう気づいたら、心が軽くなっていくのを感じた。
自分で自分を追いつめる。そして自分で勝手に重くとらえたり、自分の心を縛りつけてしまってる。
私の悪い癖だ・・・。
私は、翔の寝顔に向かって声を出さずに「ごめんね」と口を動かした。
こんな・・不器用で、翔を頼ってばかりのヘナチョコママでごめん。
でもママは、翔、あなたという存在を含めてやっと「私」という存在でいることができるの。
それは翔を身ごもった時からずっと思っていること。一貫した私の想い。
翔、これからもママを支えてね。ママは翔が必要よ。愛してる―――。
階下のリビングに行くと、ソファに座っていた母がニコッと微笑んでくれた。
あたりには淹れたてのコーヒーの芳醇な香りが広がっている。
母は私がここに来る時を見越していたのかと、湯気が立つカップを見ながら思いながら、ソファに座った。
面接のことを知りたがっている母は、話をちゃんと聞くまで寝ないし、私も寝かせてもらえないだろう・・・。
「・・ね?湖都ちゃん。岸川さんって良い人でしょ」
「え?あぁ・・うん、そうだね。人当たりが良くて、優しい感じで」
「実際優しい人よ」と力説する母に、私は苦笑を浮かべた。
「お母さんはどうして、岸川さんに“白樺”の内装を頼んだの?」
「そうねぇ・・・偶然、かしらね」
「偶然?」
ちょっと首をかしげて聞く私に、母はニッコリ笑って頷いた。
「店舗を買って、さあ次は内装を頼まなきゃとなった矢先に偶然岸川さんの事務所を見つけたのよ。岸川さんの事務所と白樺って、距離は近いけど、駅から歩くと岸川さんの事務所までは行かないのよ」
「そうだよね」
「でもその日はもう少し範囲を広げて近所めぐりをしてみようと思ってねぇ。見つけたときは“やった!こんな近くに設計事務所があるなんてラッキー!”って思いながら、事務所のブザーを鳴らしたわ」
「え!じゃあお母さんは見つけてすぐに、岸川さんの所に行ったの!?」
「そうよ。“善は急げ”って言うでしょ?」
「まぁ・・・そうね」
「何よ。呆れてるの?」
「ううん!そうじゃなくって・・・。さすがお母さん、と“感心”してるの」
再び苦笑を浮かべる私を見ながら、母は「お母さんは典型的な猪突猛進型だからね」としたり顔で言った。
「それにしても、予約も電話もしないでいきなり訪ねてきたお母さんを、よく岸川さんは招き入れてくれたね」
「そうなのよ!その日は岸川さん、お客さんと会う時間が変更になったとかで、たまたま事務所にいたんですって。それでお母さんの話を聞いてもらって、ちょうど岸川さんも引き受けるだけの時間があるからって言ってくれて、トントン拍子に話が進んだってわけ」
「ホント・・すごい偶然が重なってる」
「そうでしょー?しかもラッキーなことばかり。お父さんや、目に見える人はもちろん、目には見えない色んな存在も“白樺”開くことを応援してくれたり、サポートしてくれたから、スムーズにお店を開くことができたと思ってるわ。だけどね、いくら楽観主義の私でも、ただ“近いから”って理由だけで、岸川さんに大事なお店の内装を頼まないわよ。そこは偶然だけじゃなくて、相性の良し悪しも絡んでくるから」
「相性・・」
「そう。岸川さんとは気が合ってるの。つまり相性が良いってことね。まぁ、近くに気が合う建築家がいたってことも、偶然の一つなんでしょうけど。岸川さんは相手の要望を明確にして引き出すことが上手な人ね。しかもそれがさりげない感じで、決して押しつけてこないのよ。たとえばお母さんが1つ質問すると、お母さん自身が選べるように、最低3つ以上の選択肢を用意してくれるの。もちろん、建物の構造上とかでできないことは、素人のお母さんでも分かるように説明してくれるし。ああいう人こそ自分の仕事に誇りを持っている職人的なプロと言うのよねぇ。お母さんは岸川さんみたいな人が好きだなぁ」
「え!?す、好きって・・・まさかお母さん、岸川さんと・・」
それ以上は恥ずかしくて言えない私に、母は「あらやだ」と言った。
それが実にサラッとした態度と言い方で・・・逆に私一人アタフタしてることが、恥ずかしくなってきたくらいだ。
「湖都ちゃんったらもう、ヘンな勘違いしちゃってぇ。そりゃあお母さんだってね、一応女ですけど、息子と言ってもおかしくない年の男性と恋愛しようなんて思わないわよ。お母さんの今の恋人は“白樺”ね」
「お母さん、それは・・人じゃないよ」
「分かってるわよ。だけどなんていうかな、“愛情をかけて育てる”という点では、相手がお店でもいいのよ」
「ふぅん。“白樺”は、まだ幼児だから・・なんか、孫育てみたい」
「そうとも言えるわね。楽しみの一つよ。でも、そうねぇ・・私が陽菜(ひな)ちゃんくらいの年齢だったら、岸川さんとおつき合いしても良かったかなー」
「えーっ!?マジで!?」
「なぁんてね。でも、これは真面目な話、湖都ちゃんと壮介さんを結婚させて悪かったと思ってるわ。あの人、感じは良かったし、浮気癖があるなんてお母さんも知らなかったから・・。あれくらい押しが強い人なら、大人しい湖都ちゃんをグイグイ引っ張ってくれるんじゃないかって思ってたんだけど・・頼りがいがあることと包容力があるかないか、お母さんは根本的に見誤ってたわ。ごめんね」
「そんな、お母さんが謝ることじゃないよ。壮介さんと結婚するって――離婚することもだけど――最終的に決めたのは、私だから。それに、私が結婚するときって、もう20
「うん・・そうね。やっぱり湖都ちゃんは意志が強いわ。翔くんには悪いけど、あんな人とはサッサと別れちゃいなさい。いっそのこと、湖都ちゃんが岸川さんと一緒になればいいのに」
「はあ?お母さんっ!もう、なんてこと言うのよっ!」
「あら。湖都ちゃん、岸川さんのこと嫌いなの?」
「え?いやっ、そんなんじゃなくって・・私は一応、まだ結婚してるんだし・・破綻寸前だけど。大体、岸川さんの方が相手にしないって」
「そうかしらね?湖都ちゃんには岸川さんのような人が本当にお似合いだと思うけどなぁ」
「それで前回“読み誤った”んだよね」
「痛いところを突かないの。ま、お母さんもできる限りのサポートはするから」
「ありがと」
「それで?湖都ちゃん、岸川さんの事務所のお仕事はどうするの?」
「え?あぁ・・・」
・・・やっぱり、聞いてきたか・・・。
言い渋る私を見た母は、「別にね、お母さんを気にして絶対岸川さんのところに行かなきゃいけないわけじゃあないのよ?それは分かってるわね?」と言った。
「うん。分かってるよ、それは・・」
「条件が悪かったの?」
「ううん!そうじゃなくて。ただ・・」
「まさか、岸川さんの方から断ってきた?」
「それは・・ない、と思う。週2日か3日でもいいって、言ってくれたし」
「だったらなんで迷ってるのよ」
「だって・・翔の預け先も決まってないどころか、まだ探してもいない段階で・・しかも、壮介さんと正式に離婚したわけでもなくて――たぶんあの人はまだ、離婚届を出してないだろうし――。壮介さんときちんと話し合ったわけでもないのに、このままどんどん突き進んでいいのって、正直・・・不安で・・・」
俯いた私は、膝の上でギュッと両手を握りしめた。
「猪突猛進型のお母さんから見たら、私の“行動”は、進んでいるのか止まったままなのか分からないくらい、超ノロノロ級のスピードだろうから、きっとまどろっこしく感じてると思う。でも私は、私なりに思いきって一歩前へ踏み出した途端に、怒涛のスピードで前へ前へと押されている感じがして・・・だから、私にとって今の流れは“突き進んでいる”って感じなの」
「そうねぇ。確かに、今の湖都ちゃんの状況は怒涛の急展開だと言えるわね」と言う母に、私はコクンと頷いたついでに、コーヒーカップを両手で持って、私用にミルクを多めに入れてくれたカフェラテを、一口ゴクンと飲んだ。
やっぱり母が淹れてくれたラテは美味しい。
私の心に落ち着きと、笑顔が戻った。
「焦らなくてもいいのよ。“突き進んでいる”感じについていけないんだったら、ちょっと立ち止まって息を整えていいし、岸川さんが週に2日だけでも来てほしいって言ってくれてるのなら、とりあえず週に2日のうち、何曜日に行けるか、考えてみてもいいじゃない。そこを基準にしてから、翔くんの預け先を探すことだってできるわ。要は、湖都ちゃんが進みやすいペースで進めばいいのよ」
「うん・・・」
「じゃあまだ岸川さんに返事はしてないのね?」
「まだちゃんとはしてない。今週中には必ずお返事します、とは言ったけど・・」
岸川さんは一刻も早く、事務の人を雇いたがっていた様子だった。
現事務の土井さんが、あと数週間で長崎に引っ越してしまうから、その前までには決めたい、というより「決めなきゃいけない」と焦ってたみたいだったし。
・・・あのとき岸川さんは、一旦自分の本業に没頭したらそれ以外のことは見えなくなる、みたいなこと言ってた。
事務の人は、彼のズボラ化を防止するための監視役も兼ねてるのだろうけど・・その“監視役”がいなかったら・・・と思ったら、岸川さんのことが気の毒になってきた。
『週2日か3日来てもらえれば、俺は救われる』
そして岸川さんを「救う」のは・・・私、しかいない・・・?
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