第11話 冷たくて、温かい

「ここに座って」

「はぃ・・」


岸川さんの言うとおり、従順に椅子に座った私を、岸川さんはじっと見ながら、「なに」と私に聞いてきた。


「その・・慣れてるなと思って」

「は?何に」

「えっと、子どもとの接し方・・です」

「あぁ」と言ってフッと笑った岸川さんに対して、私はなぜか、ムカッときて・・・。


それ以上に、ドキッとしてしまった。

今の表情を見た(それとも見て「しまった」?)だけで、私の体温が上がった・・・かも。


私は、逸っているような気がする心を静めるように、左胸のあたりに、一瞬だけそっと手を置いた。


「俺が結婚してるか、遠回しに聞いてるのなら・・・」

「え!ちがっ・・違いますよ!」

「答えはノーだ。この10年の間に、結婚は一度もしたことないよ。因みに、子どももいない」

「へ・・・?」


岸川さん、今「この10年の間」って言った。ってことは・・・。


「俺が子どもの扱いに慣れてるように見えるのは、たぶん、友だちの子や、紀恵んとこのガキどもと接してるからだろうな」

「・・ノリエさん・・・?」

「ああ。俺の妹。って言ったの、湖都ことちゃんはまだ覚えてるか?」


紀恵さん。そして・・・そして私のこと、「湖都ちゃん」って呼んで・・・くれた。

やっぱり岸川さんはあのときのこと、覚えてて・・くれたんだ。


両目に涙をにじませながら、コクンと頷いた。


「覚ぇ・・わ、忘れるわけ、ないでしょ・・」

「いっ!?ちょ、ちょっと待った!それでなんで湖都ちゃんは泣くかなー」

「ごめ・・・」


・・・もう、涙は枯れたと思ってたのに・・・ううん。そうじゃない。

主人のことで悲しんで、自分が可哀想過ぎるからと、自己憐憫に浸るために涙を流すことは、もう止めただけだった・・・。


私は必死で涙を止めようとしながら、ハンカチを探すために、頑丈なキャンパス地の生成りトートバッグの中へ手を入れたとき。

目の前に、白いテッシュが現れた。


岸川さんが差し出してくれたものだ。

私は素直に受け取った。


「そぅ、じゃなくて・・嬉しくて。岸川さんが覚えてくれてたことに、感激して、つい・・・」

「それを聞いて安心したよ。なんか俺、悪いヤツになったような気がしてしまったからさ」

「すみません」

「いいって。それより、大丈夫か?水でも飲む?」と聞いてくれた岸川さんに、私は頭を左右にふって答えた。


「もう大丈夫です。面接・・お願いします」

「うん。じゃ・・・。えーっと、真緒まおさんから聞いたところ・・って今度は何」

「えっ!?いや、その・・私の母のことを名前で呼んでるから、ちょっと、なんていうか・・ビックリした・・」

「だって真緒さ・・湖都ちゃんのお母さんの名字は“ミズキ”だろ。それで自分の名前をさん付けで呼ぶのはなんかなぁ、と。・・・この会話も覚えてる?」

「・・・はぃ」


「瑞樹さん」と「水木」姓。

漢字は違うけど、名前と名字が同じ読み方、なんて意外な共通点、忘れるわけないじゃない。


「湖都ちゃんのお母さんとも、そのことで話が盛り上がったんだよ。お母さんも俺が“真緒さん”と呼ぶことに了承してくれてる」

「いやっ!だからいいんです!ホント・・・話が進まないですよね。すみません。ごめんなさい」


慌てて謝る私に、岸川さんは意外にもクスクス笑いながら許してくれた。

っていうより、この人はそもそも怒ってない・・・よね。

この場を楽しんでる?

あのときのように―――。


「じゃあ続けようか。えーっとどこまで話したんだっけ・・あぁ、真緒さんだったな。“お嬢さんが東京に戻ってくる”って真緒さんから聞いたけど。旦那さんの転勤?」

「あ・・いぇ」と言ってから、頭を左右にふった。


「結婚、してるんだよな?名字“水木”じゃないし」

「そぅなんですけど。その・・・。実は、主人とは離婚する予定です。それで昨日、実家に戻って来たんです」

「昨日?そりゃあ・・・ドタバタだな」


「ドタバタ」か・・・。

ホント、今の私と翔を取り巻く状況に、ピッタリな言葉だ。


こんな時にも関わらず、私はつい、クスッと笑いながら「そうなんです」と答えていた。


「母は実家に好きなだけ居てもいいって言ってくれてるけど、私の就職先や翔の預け先によっては、新しく住むところも決めなきゃいけないかもしれないし・・。それよりまず、主人と正式に、離婚しなきゃいけない・・・」

「つまり、今の状況を簡単に言うと、湖都ちゃんは“とりあえず、離婚前提で家を出た”って段階にいるんだな?」

「うん、まぁ・・・そうですね。だから、あの・・・岸川さんがお仕事の機会を与えてくれたことは、本当に感謝してます。でも、急っていうか・・ここでお仕事させていただけるかどうか、正直言って分からないんです。まだドタバタな状況だから。岸川さんはたぶん・・だけど、母の顔を立てて、私に面接に来てもいいって言ってくれたんでしょう?だから・・来れるかどうか分からない私よりも、他の人を雇われた方がいいと・・・」

「それじゃあ湖都ちゃんは、翔くんの預け先が見つかったら、就職するのか?」

「え?」

「それとも、旦那さんと正式に離婚してから、就職するのか?」

「そ、それは・・・」

「翔くんの預け先っていうのは、たぶん親とか保護者の収入がなきゃ、どこも預かってくれないんじゃないのか?ま、その辺は俺も詳しくないから知らねぇけどさ」

「あ・・・!」


・・・確かにそうかもしれない・・・。


「それにだ、保育所といった預け先の機関っていうのは、大体どこも定員埋まってて、まずはウェイティングリストに名前を載せるところから始まる、ってこれは友人から聞いた話だが。まぁつまり、場所によっては何年も前から、場合によってはその子がゼロ歳のときから保育所探しを始めて、リストに載せておかなきゃいけないそうだ」

「え!?うそ・・!」

「まぁ多少誇張はあるかもしれないが、そういう地域もあるらしいよ」

「ど、どうしよぅ・・・」

「じゃあ旦那さんと別れるの、止めるか」

「いやっ!」


自分でも思った以上に激しい声で、即答えた私は、頭を左右にふって、再び否定を重ねた。


「あの人とは絶対に別れます。やり直しがきくような状態は、とっくの昔に過ぎてしまってるから」

「そうか・・・。まぁ俺としては、湖都ちゃんに仕事手伝ってもらえるなら、ホント助かるんだけどなぁ」

「・・・え?」


顔を上げた私の方へ、岸川さんが少し近づいた。

まるで自分の秘密を共有するように。


「知りたい」という好奇心と、胸のドキドキがいっぺんにやって来て・・・私の体温が、今度は確実に上がったのを感じた。


「土井さんから聞いてない?」

「何を、ですか」

「いやぁ・・・。実は俺って、仕事に没頭してしまうと、周りが見えなくなる傾向が人一倍どころか、5倍くらい強いらしいんだよな。これ、一時期俺の仕事手伝ってもらった紀恵にも言われたんだ。“お兄ちゃん、普段とズボラ時モードのギャップが両極端過ぎる”と。・・・要するに、自分の仕事を最優先させて、それ以外のこと――恰好とか食べることとか寝ることとか、その他諸々――は、ホントどうでもよくなるっつーか、構わなくなるっつーか・・・。土井さんから“所長!またズボラになってますよ!”ってもうホント、何度言われたか」


え?目の前にいる、この人が・・・ズボラ?って・・・本当?

信じられない!

そんな風には全然見えないんだけど・・・。


まさか、岸川さんからそんな“懺悔めいた告白”をされるなんて思ってなかった私は、目をパチパチさせながら、端正な顔に、憐れな表情を浮かべている岸川さんを見ていた。


「だからさ、俺一人じゃ仕事できないんだよ。誰かが俺のそばにいて俺を注意してくれなきゃ、仕事が成り立たないんだ」

「そんなにひどいんですか」

「さあ。俺、自覚ないし」

「あぁ、なるほど・・」

「湖都ちゃん、事務の経験ある?」

「あ、はい。結婚するまで1年くらい、事務というか、経理の仕事をしてたから・・」

「じゃあ決まりだ」

「え!?で、でも・・」

「とは言っても週5日のフルタイムで来てくれなくてもいいんだ。とりあえずはそうだな・・週2日か3日来てもらえれば、俺は救われる」

「“救われる”だなんてそんな、大げさ・・」

「考えといて」

「・・ぁ・・・」


・・・また。そんな優しい顔を、私に見せて・・・。


「だが、俺も事務の人は今すぐにでも必要だから、なるべく早めに返事もらえると助かる」

「・・・はぃ。分かりました。今週中には必ず、お返事します」と言う私に、岸川さんは2・3度頷いて応えてくれた。


「それじゃ、面接はこれにて終わりだな」と言って立ち上がった岸川さんが、私の方へ手を差し出した。


「握手」


・・・ゴツゴツした、大きくて、男の人とすぐ分かる手。

なのに、指はスッと伸びて長い。

日焼けもしてる・・・。


私は、胸をドキドキさせながら、岸川さんの手を握るために、自分の手を上げた。


・・やだ。手が震えてるの、岸川さんにもバレちゃう・・・!


それは嫌だと思った私は、岸川さんの手の方へ、自分の手を持って行くスピードを上げた。

おかげで、1秒後には岸川さんと「無事に」握手をして。

さらに2秒後には、岸川さんから手を離していた。


「それじゃ・・今日はどうも、ありがとうございました」


部屋を出ようと踵を返した私を、岸川さんが呼び止めた。


「湖都ちゃん」

「はい?」

「俺ん所の仕事、無理して引き受けてくれなくてもいい。でももう一度だけ、湖都ちゃんに会いたい。できれば近いうちに。もちろん翔くんも一緒で構わないから、ここに来てもらってもいいか」

「え?それは・・・」

「渡したいものがあるんだ」

「あ・・・そうですか。だったら・・はい、分かりました」

「湖都ちゃんたちの都合のいい日でいいからさ。あ、そうだ。できたら来てもらう前に連絡してほしいから、番号交換しとかないか」

「そうですね。はい」





こうして私は、意外な繋がりで、岸川さんと10年ぶりに再会した。


あれほど10年前の出来事をなかったことにしたいと、自分のなかに封印していたはずなのに。

もちろん、あの出来事を他の誰かに話す気は、今でもない。だけど・・・。

封印している間に、その出来事の「事実」は私の記憶の中では薄れていき、逆に、私の想像だけが、どんどん膨らみ、育っていたような気がする。


この10年の間、私は岸川さんのことを、どんな人だと思い込んでいた?

私の記憶の中で、岸川さんはどんな人に仕立て上げ、育っていっていたんだろう。


怖い人?酷いひと

とんでもない化け物?

自分の恥ずべき部分を思い出す、きっかけ?

だから、二度と会いたくなかった?

二度と関わりたくないと思っていたの?


そして・・・10年の間、岸川さんにとって私は、どんな女という位置づけになっていたのか。

もしかしたら私は、それを知るのが怖くて、岸川さんとの再会を、恐れていたのかもしれない。


でも、実際に岸川さんと再会して分かったのは・・・。


「・・・マーマーぁ」

「えっ?あ・・・なぁに?どうしたの?翔」

「ジュース、のみたい」

「あぁ、喉渇いたのね」


翔に「ジュースが飲みたい」と言われて初めて、私も喉が渇いていることに気がついた。

そして、翔がジュースを飲みたいとせがんだのは、ちょうどすぐ横にジュースの自販機があるからだ、ということにも気がついた。


「そうだね。何か飲もうか」

「うん!」


私たちは、ジュースの自販機の方へ歩いた。


「翔。麦茶にする?それともお水がいい?」

「おみず」

「はい」


「ボタンを押す」と言い張る翔の願いを叶えるため、私は小さな息子を抱きあげた。

翔の、紅葉のような、ぽちゃぽちゃした手を見ながら、そのうち、私が抱っこしなくても、翔は自分で届くようになるんだよねと、母親としての感慨に、しばしふけった。


「ママも?」

「そうね・・うん」


どれにしようかな。喉が渇いているけど、おなかも空いてる。

結局お昼、食べ損ねたから・・・。


「つめたい」コーナーと、「あたたかい」コーナーにずらりと並んでいるドリンク類を見ながら、結局、温かいコーンスープに決めた私は、そこのボタンを押した。


・・・分かったのは、岸川さんが「冷たそうで、本当は温かい男性ひと」だということ。


あの人の手は温かかった。

あの人の手から、温もりを感じた。


岸川さんにはもう二度と会いたくない、もう二度と関わりたくないと思っていたはずなのに。

岸川さんがあのときのことを忘れてくれてたらいいと思っていたはずなのに・・・実際に再会して、ホッとした。

本心では私、岸川さんに会いたいっていうか・・会ってもいい、会っても大丈夫だって、思っていたのかもしれない。


だって、相手は岸川さんだから。


もしかしたら私は、この10年の間、岸川さんという人について、方向違いに想像を膨らませ続けていたのかもしれない。

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