第9話 10年ぶりの、再会

「湖都ー」

「なぁに?お母さん」

「今日はどこかに出かけるの?」

「翔が桜見たいって言ってるんだけど。こっちはもう咲いてる?」

「そうねぇ・・開花してる所もあるけど、もう少しと言ったところかしら。たぶん、今週末あたりが満開じゃないかしらね」

「あ、そぅ。じゃぁ、お弁当を持って、近くの公園にでも行ってみる。桜が咲いてなくても、ピクニックできれば翔も満足すると思うから」

「そうね。また寒さが戻って来たけど、少しくらい外に出て気分転換してらっしゃい」

「うん」

「あぁそうそう。今日岸川さんがお店に来たら、事務の人、まだ探してるかどうか聞いてみるわね」

「あ・・・そのこと、だけど・・・」

「何よ湖都ちゃん。嫌そうな顔して。あんたまさか、男の人が上司なのはヤダとか言うんじゃないでしょうね?」

「ううんっ!そういうんじゃなくって」


顔と両手を思いっきり左右にふって否定をする私に、母は優しく「ねぇ、湖都」と言った。


「・・・なに。お母さん」

「他に就職先のあてでもあるの?」

「・・・ない。今はまだ」

「だったら聞くだけでもいいじゃない。ただ、その話聞いたの、先週くらいだったからねぇ。もしかしたら、事務の人はもう決まったって言われるかもしれないけど」

「え?あ・・・そぅ」

「それにね、岸川さんは良い人よ。お店の設計だって親身になってやってくれたし、できるかぎりお母さんの希望を取り入れてくれた。お客さんに対して、それは当たり前のことでしょって言えばそれまでだけど、それだけじゃないのよ、あの人は。お店がオープンしてからも、お仕事でどうしても来れない時をのぞいて、お客として、ほぼ毎日コーヒーを飲みに来てくれる。岸川さんとのお仕事は終わったんだけど、その後も、何て言うのかしらね・・縁を切らずにいてくれる。壮介さんとは違って誠意のある人よ、あの人は」


離婚を前提に、妻が息子を連れて家を出て、(妻の)実家に帰っているというのに、夫である壮介さんから、まだメールや電話がないということに、母は憤慨していた。

この深刻な事態を、壮介さんはただ悠長に構えているだけなのか。

それとも、単にまだ家に帰ってなくて、この事態を知らないのか。

壮介さんが出張じゃないことは分かってるから・・後者の場合、本気の浮気相手の所へ「帰ってる」ということになる。

そのことも含めて、母は壮介さんのことを遠回しに「誠意のない人だ」と言ったのだけれど、最後の言葉は翔に聞かれないよう、小声で言う配慮を、もちろん母は怠らなかった。

どちらにしても、翔はリビングでテレビを観ているところだから、ダイニングにいる私たちの会話の内容は、聞こえていない。


「じゃなきゃお母さんだって、岸川さんに仕事クチを聞いてみようなんて思わないわよ」

「あぁ・・・うん。分かったから。じゃあとにかく、聞くだけ聞いてもらっても、いいかな」

「はいはい。それじゃ、お母さんはもう行くわね」

「うん。いってらっしゃい」

「後で電話するから、連絡取れるようにしといてちょうだい」

「はーい」

「じゃ、お花見楽しんでらっしゃい」

「ありがと、お母さん」


翔と二人で「白樺」へ出かける母を玄関で見送った後、私は掃除機をかけたり、洗濯をしながら、お昼に公園で食べる予定のお弁当を作った。

子どもの翔と、小柄な私の分なので、量的には二人というより、一人半くらいで十分だ。


「翔ー、そろそろお外に行こうかー」

「うん!」

「その前に、おトイレ、行っておこうね」

「はぁい」


列車がプリントされたお気に入りのTシャツを着て、青い帽子をかぶった翔は、「それきると、これ(列車のプリント)がみえない」から、ジャケットを着るのを嫌がった。

だけど、いくら長袖でも、Tシャツだけじゃあ外で過ごすには寒いからと何度も言い聞かせ、実際その姿で玄関から外に出てみて寒さを体感させると、ようやく翔は、ジャケットを着ることを了承してくれた。


子どもって、時々妙なところにこだわるから・・・。


先日翔は、幼稚園の制服ブレザーの上に赤いシャツを着ると言い張って・・・それを止めさせるのに、どれほど大変だったことか。

そのときのことを思い出した私は、思わず顔に苦笑を浮かべた。


でも・・。翔の年くらいの頃の私も、何か「妙なこだわり」を持っていたのかもしれないし、それを止めさせるために、母(と父)はあれこれ手を焼いたのかもしれないと思ったら、家族としての遺伝的な、そして人としての繋がりのようなものを感じて。


私は翔にニコッと微笑みながら、愛しい息子の小さな頭を撫でた、そのとき。

スマホが鳴った。


あ。お母さんだ。ということは・・・。


私は胸をドキドキさせ、緊張で震える手で、緑のボタンを押した。


「お母さん?・・・・・えっ?今から?え、っと、だけど翔は・・えっ!?翔も一緒に連れて行っていいの!?・・・・・分かった。ちょうど今、家を出ようとしてたところだから、30、ううん4・50分くらいでそっちに着くと思う・・・・・・うん。じゃあ後でね。はーい」


赤いボタンを押した私は、思わず脱力のため息をついていた。

そんな私の、疲れた顔を覗き込むように見ながら、翔が「どうしたの?ママ」と聞いてきた。


「あ・・えっとね、今からおばあちゃんのお店に行くことになったんだ」

「ピクニックはー?」

「おばあちゃんのところに行ってる途中で、桜は見れるかもしれないから。見れなかったらまた・・明日にでも行こう。ね?」


どちらにしても、今から外に出ることに変わりはないと分かっている翔は、案外あっさり「うん」と言ってくれた。





・・・やっぱり東京は人が多い。平日の、お昼前の時間だというのに。

大学に行くまでの私は、これが当たり前の光景で、この慌ただしさが、ごく自然のテンポだったんだけど・・10年の間、比較的田舎の場所で暮らしているうちに、ゆったりした空気と、のどかなテンポに慣れてしまっていたみたい。


10年、か・・・。


私の人生・28年のうちの、半分にも満たないのに、あっという間に過ぎたような気がする。

翔にとっては、長野で暮らした丸3年間が、人生の全てだったのよね・・。


案の定、息子は好奇心に満ちた目で、顔を左右にふって辺りをキョロキョロ見ながら歩いている。

私の実家があるから、東京には何度か来てるのに、普段とは違う人の多さに、見慣れない別の世界を見ているようだ。


「翔。ここは人が多いから、ずっとママとお手手つないでおいてね」

「うん」


そうして歩いているうちに、母が経営する喫茶店「白樺」に着いた。


身内だからといって、店内でダラダラ長居するのは気が引けるし、母はお店の手伝いを「身内だから」させてくれない。

だから実家に帰ったときでも、「白樺」には滅多に行かなかった。

私の場合、別居と離婚に向けて、少しずつ準備はしていたけど、実家にはそう頻繁に帰らなかったから・・。

私は今日が3回目、翔は初めての来店になる。

岸川さんがここの常連客だなんて。知ってたら・・・「白樺」どころか、この周辺にはもっと近寄らなかっただろう。


それでも、白樺の樹を使ったお店の看板や、白樺のテーブルや椅子に、所々赤いモノを利かせた店内を見て、我が家に帰ってきたような、懐かしい気分になった。

全体的に小さなお店はどこも変わってないことに、何だか心がホッとしていた。


「あぁ湖都ちゃん。翔くんも。いらっしゃい」

「お母さん。あの・・・」

「岸川さんの事務所、ここから近いのよ。お店からは見えないけどそうねぇ・・歩いて5分ってところかしら。それでお母さん、岸川さんにお店の設計とか内装を頼んだの」

「あ・・・そぅ・・」

「今日は岸川さん、一日事務所にいるそうだから、何時に来てもらってもいいって言ってたわよ。コーヒー飲んでから行く?」

「ううん。もう・・行く」


緊張する厄介事は、サッサと済ませてしまいたい!


「あの・・お母さん」

「なに?」

「本当に翔も一緒に連れて行ってもいいって・・岸川さんが言ったの?」

「ええ。履歴書もいらないから、とりあえず面接したいって。湖都が面接に行ってる間だけ翔くんはここにいてもらっていいって言ったんだけど、こっちは時間帯によって急に忙しくなるときもあるからね。翔くんをずっと見てるわけにもいかないし。岸川さんもその辺りの事情は分かってるから」

「えっ!?ってことは・・お母さん、岸川さんに言ったの!?」

「何を」

「私・・と翔がここにいる理由」

「え?言ってないわよ。ただ、私の娘がこっちに戻ってくる予定で、長く勤められるような仕事を探してるとは言ったけど」

「ふぅん・・・そぅ。まぁ、妥当な線ね」


ここでブツブツ呟いていてもしょうがない。

岸川さんのところで仕事ができるとは、まだ決まってないんだし。


とにかく、何も事情を知らないとはいえ、せっかく母が紹介してくれたんだ。

いくら気が乗らなくても、すっぽかすなんて失礼なこと・・・小心者の私にはできない。


行くだけ行って、あとは・・・あとは・・・。

あとは、どうにでもなれ!


自棄の先に覚悟を決めた私は、母から岸川さんの事務所の道順を教えてもらい、翔を連れて「白樺」を出た。





岸川さんが面接に来てくれと言った、ということは・・・もしかしたら10年前に会っている岸川さんとは別人だという可能性だって、まだある。


実際に私は、その望みを捨ててはいなかった。その時点ではまだ・・・。


この通りを右に曲がって、突き当りの右側の建物・・・あ。


「ここ・・・?」


それは一見、普通のマンションのような建物に見えた。

でも、再び不安と緊張で胸をドキドキさせながら、意を決してエントランスに入ると、「岸川建築設計事務所 1階→」という看板が、パッと目に飛び込んできた。

他にも「○○歯科 2階」等の看板があるところから、色々な店舗や事務所が入っている雑居ビルのようだ。


「ママぁ。どこ、いくの」

「えっとね・・・ここよ」


ガラス張りのドアいっぱいに、シートで「岸川建築設計事務所」と貼ってあるので、ここから事務所の中は見えない。

ドアの横には「御用の方は右にあるブザーを押してください」というプレートがあった。


あぁ、緊張する!手に汗かいてるし!


私は、一度深呼吸をして、翔と繋いでいない湿った右手を、インディゴデニムのロングスカートになすりつけて拭いたところで、ハッと気がついた。

こんな・・・子育て向きのカジュアルな服着て、仕事の面接に来てしまった!と。

しかも、歩きやすいスニーカー履いてるし。お気に入りの生成りコンバースだけど・・・。


でも、服のことを今さらどうこう思っても、着替えることなんてできないんだから・・しょうがないよね。

汚れやシミがない、清潔な服と靴、それにトートバッグだから、少なくとも相手に不快感を与えることはないはずだ。


これで「そんな服着てる人はちょっと」と言われてしまったら・・・。

「仕事に臨む姿勢が足りない」って岸川さんに思われたら・・・。

それも仕方ない。むしろ私にとっては好都合、になるかもしれない。


考え過ぎた結果、落ち着きを取り戻した私は、ようやくブザーを押した。


・・・ここまで来たんだから。

もう、引き返せない・・・!


「はいっ」

「あ・・・っ、あの・・・?」


あれ?女の人の、声・・・。

「建築家の岸川さん」は男性だって、お母さん言ってたのに・・・あぁそうか。

この人はきっと、受付のような担当の人だ。

いきなり、じゃなくて良かった―――。


拍子抜けした私のなかから、たちまち緊張が解けていく。


「私は卯佐美と申します。事務のお仕事の面接に来ました」

「あぁはいはい。所長から聞いてますよ。ちょっと待ってくださいね。今ドアを開けますからー」


「所長」という言葉に、また私の心がドキッと反応した。

だけど、もうここまで来てしまったんだ。

母の面目を潰さないようにしながら、サッサと面接を終わらせよう。


・・・あぁどうか、岸川さんが、あの岸川さんではありませんように・・・!


私が心の中で必死に祈っていたとき、ガラスのドアが開いた。







「いらっしゃい。さあどうぞこちらへ。私は事務担当の土井どいです。所長は今、スカイプで打ち合わせ中なんですよ。あと5分くらいで切り上げて来るそうですから、それまでここで待っててくださいとのことです」

「はい」

「この子は息子さんかしら?」

「あ、はい。息子の翔です。翔、“こんにちは”は?」

「・・こんにちは」

「こんにちは!翔くん。よくご挨拶できたわねぇ。翔くん、何か飲む?牛乳とか、ジュースもあるわよ」

「ジュース・・ママ、いい?」

「果汁100%のジュースだから、子どもでも安心して飲めるわよ」

「あぁそれなら。はい、お願いします」

「りんごとオレンジがあるけど、翔くんどっちがいい?」

「オレンジ!」

「卯佐美さんは何を飲む?コーヒー、紅茶、ジュースにお水・・」

「じゃあお水を。お願いします」

「はい分かりました。ちょっと待っててね」


私と翔にそう言った土井さんは、ニッコリ微笑むと、応接室のような部屋からそっと出た。


見たところ土井さんは、40代くらいか。

温かく、ふんわりとした雰囲気を醸し出していて、簡単に表現すれば、「優しいお母さん」のような印象を受けた。

果汁100%のジュースを2種類用意しておいてくれたり、どっちのジュースを飲む(飲みたい)か、翔自身に選ばせたところから、小さな子どもへの接し方も慣れていて、とても上手いと思った。

どちらかと言うと、私に似て人見知りな方の翔が、すぐ打ち解けたくらいだから。

お子さんがいらっしゃるかどうかは知らないけど、「旦那さんの転勤でここを辞める」と母が言っていたから、結婚していることは間違いない。


その土井さんが、私たちに飲み物を持ってきてくれたとき、何気ない会話から「46歳」と聞いて、私はビックリしてしまった。

まぁ40代というのは当たっていたけど、40になったばかりとか、多く見積もっても42歳くらいだと思っていたから。


しかも、大学生の息子さんがいらっしゃると言う。

その息子さんは、大学進学時からすでに一人暮らしをしているそうで、今回、旦那さんの九州転勤に、息子さんは一緒に行かないそうだ。


「逆にね、距離的に息子と近くなるのよぅ」

「あ、そうなんですか。九州のどちらに、転勤なんですか?」

「熊本よ。でも近くなるって言ってもねぇ、もう一緒には住まないわ。息子も一人暮らしを満喫してるみたいで、近くなるのは良いけど、一緒に住まなくてもいいって断られちゃったし」

「そうですか・・」

「うちはいわゆる転勤族で、大体3年毎に引っ越してるの。国内をあっちこっちね。今回は5年だったけど、主人の年齢からして、あと2・3回くらいは覚悟しといた方がいいかもね」と言う土井さんに、私はウンウンと頷いた。


「まぁ最終的に落ち着いたら、二人で定住する家を持とうって、主人とは話してるのよ。そのときは岸川所長に設計頼むわ」

「俺に何頼むんですか?土井さん」


突然聞こえた男の人の低い声に、私はビックリしながら、その声に引き寄せられたように、後ろをふり向いて・・・立ち上がった。


「・・・・・・」


・・・岸川さん、だ・・・。

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