第8話 来るか、来ないか
・・・体が・・目が、重たい。
先のことはなるべく考えないようにしようと思いながらも、昨夜は結局あれこれ頭の中で考えてばかりだった。
そうやっても答えなど、出るはずもなく・・同じことを繰り返し繰り返し、グルグル回るように考えながら、ようやくウトウトしたと思った矢先に、息子の翔に揺り起こされて、目を覚ました。
それでも、ニコニコしている翔に、「ぐっすりねた?」と聞かれた私は、どうにかニッコリ微笑みながら「うん」と答えることはできた。
たぶん、私の微笑んだ顔は、疲れて見えただろうけど、息子は気づいていないようだ。
翔にせがまれて、一緒にトイレに行った私たちは、静かに階段を降りた。
今は朝の・・もうすぐ6時半か。
幼稚園がある日は、いつもこれくらいの時間に起きている。環境が変わっても、翔の体内時計は正確だ。
私と翔にとっては、これがいつもの起床時間だけど、「大体7時半くらいに起きる」と言っていた母は、まだ寝ている。
「お互い生活パターンが違うから、いつもどおり台所は好きに使ってちょうだい」と母に言われていたので、私と息子、二人分の朝食を作ることにした。
私は、パントリーの扉を開けて、棚の上段に置いてある食パンを取り出した。
次に冷蔵庫を開け、中に何があるか、素早くチェックする。
「翔ー、目玉焼きと炒り卵と卵焼き、どれがいい?」
「うーんと、めだまやき!」
「りょうかーい」
「おめめ、ひとつだよ。ママ」
「うん。分かってる」
3歳――もうすぐ4歳になる――翔の小さな胃袋には、たまご一つ分くらいの分量が、朝食には丁度良い。
それにトーストもあるし。
私の分のたまごも、油を敷いた小さなフライパンに割り入れて蓋をし、目玉焼きを火にかける。
それから食パンを2枚、トースターにセットした。
高校までここに住んでいた私は、ずっと間取りが変わっていない実家のキッチンも、使い慣れたものだ。
朝食が出来上がる間に、食器棚からお皿やカトラリーを用意したり、翔が飲む牛乳をコップに注ぎ、ポットにお湯を沸かして、私用の紅茶を淹れる準備をした。
料理を作ることは嫌いじゃないし、得意分野でもないけど、料理上手な母と、大学の、最初の1年間だけいた学生寮の寮母さんから、基本的な家庭料理は教えてもらったので、料理スキルは、「可もなく不可もない」レベルだと、自分では思ってる。
実家にいた頃から家事手伝いもしていたこともあって、大学生になって一人暮らしを始めたときも、基本は自炊。
掃除や洗濯といった家事も、比較的キチンとやっていたと思う。
大体、いくらバイトをしても、所詮(大)学生なんだから、学食以外で毎日外食なんて贅沢、できなかったし・・。
とにかく、そんな環境で過ごしてきた私だから、自分が住む家を自分が綺麗にし、整えること、つまり家事をするのは当たり前だという気持ちが、私にはある。
それに、結婚すれば、妻である私が家事をするのが当然のことだという意識も。
それは、結婚すれば専業主婦になるものだと・・漠然とではあるけど、私はずっと思っていたのはたぶん、父と結婚してから、父が亡くなるまでずっと、専業主婦だった母の姿を見て育ったからかもしれない。
だから結婚を機に仕事は辞めて、家のこと(家事)と、やがてやって来る育児に専念するよう、壮介さんに言われたとき、私はすんなりオーケーしたんだと思う。
壮介さんは、「夫は外で働いて生活費を稼ぎ、妻は家を護る」という役割だと決めつけていたから。
別に私は、そのことに対して、文句を言ったり反対意見を述べるつもりはないけど・・・。
私が物思いにふけっていたとき、ちょうどトースターから元気の良いチンという音が聞こえた。
フライパンの蓋を開けて、目玉焼きをチェックする。
鮮やかな白と黄色が美味しそうに見える・・・よし。
しっかり焼けている目玉焼きと、良い具合にこんがり焼けたトーストを、それぞれのお皿に移した。
それから、席に着いた私たちは、両手を合わせて「いただきます」と言った。
「翔はたまごに何をつける?」
「ケチャップぅ」
・・やっぱり。
いつものことだと知ってはいるけど、あえて息子に聞いたのは、言葉とその物を一致して覚えてほしいから。
食べる前には「いただきます」と言うような、挨拶や聞き方(たずね方)、お願いの仕方といった言葉遣いを含めて、これが私なりの躾の仕方というか・・母親として、子どもに暮らしのあれこれを、実際の暮らしの中で教える方が、翔も早く身につくと思うし、何よりその方が、私も教えやすい。
私は、翔の分の目玉焼きを息子が食べやすい大きさにナイフで切った後、ケチャップをかけてあげた。
因みに私は、目玉焼きには、塩・こしょうか、しょうゆをかけて食べる。今日はしょうゆだ。
ケチャップをつけるのは、壮介さんも・・・。
結婚したばかりの頃、目玉焼きにケチャップをかける壮介さんを見て、ちょっとビックリしている私に「なんだよ。そんなヘンな顔して。オムレツにもケチャップかけるだろ?」と主人が言ったことを、ふと思い出した。
「ママぁ。これ、つけて~」
「トーストにはマーガリンを塗るのね?はい」
翔は、私同様、焼く前の食パンではなく、焼き上がったトーストに、バターやマーガリンを塗る派だ。
以前、試しに何度かいちごジャムや、オレンジマーマレードをつけてみたけど、トーストには、バターかマーガリンが一番美味しいという結論に達したみたいだ。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
「まだちょっと熱いから、フーフーして食べてね」
「はぁい」
翔は、私に言われたとおりに、フーフーと小さな息をトーストに吹きつけてから、パクッと一口かじった。
「おいしいね!」
「うん」
・・・壮介さんからは、料理を含めた家のことや、育児のことで、文句を言われたことは一度もない。
基本的には優しい人だし、私と翔を養うために、一生懸命働いてくれるし。子煩悩な父親でもある。
はたから見たら、壮介さんは「とてもステキな旦那さんだ」と言えるだろう。
ただ、浮気をせずにはいられないことをのぞけば・・・。
誰かを恋することって一体何なのか。
その誰かに愛されることがどういうことか。
私は壮介さんのことが好きだった?だから結婚したの?
私、壮介さんのことを・・・愛していたの?
そういった、恋愛の基本、というか、基礎感情?みたいなものすら分かってないまま、私は壮介さんと結婚してしまった。
でも、そのことに後悔はしていない。
もし壮介さんと結婚しなかったら、私には、翔を授かり、育てる機会がなかったんだから。
・・・やっぱり壮介さんと離婚するのは止めた方がいい?
私さえ我慢すれば、このまま結婚生活を続けられる・・・いいえ。それはダメ。
主人の、本気の浮気相手が妊娠したと知ってしまった以上、私はもう、何事もなかったような顔をして、壮介さんの妻で在り続けることはできない。
そんなこと、したくない!
これ以上、壮介さんと、本気の浮気相手に、妻としての尊厳を踏みにじられるのはごめんだ。
それはつまり、「卯佐美湖都」という、一女性としての存在を否定されているのと同じだから。
浮気相手の女性は、赤ちゃんを生むと決めている。
しかも、壮介さんだって赤ちゃんを生むことに賛成しているそうだから・・・。
だったら。壮介さんは逆に、私との離婚をすんなり受け入れてくれるかもしれない・・・?
「・・・ぁ?マーマー」
「え?あっ・・なぁに?翔」
「ようちぇんは?」
「あぁ、えっと・・幼稚園はね、今日はお休み。明日も、明後日も・・幼稚園はしばらくお休み。春休みなの。もうすぐだけどね。翔はちょっと早めの春休みよ」
「ふぅん」
「だから、翔は幼稚園に行かなくていいから、東京のおばあちゃんちに遊びに来たのよ」
「パパはー?パパもくる?」
もうきた。息子の、素朴な質問が・・。
私は内心、ギクッとしながら「う~ん。どうかな。パパはお仕事あるからね・・。今日は来ないと思うよ」と翔に答えつつ、後でスマホをチェックしようと、頭の中にメモをした。
壮介さんがいつここに来るか、果たして来ないか。それは私にも分からないけど・・・。
主人が来る、イコール私たちを連れ戻しに「来る」ということ。
そして来なければ・・・離婚に向けての忍耐持久戦に持ち越されることを意味する。
先に折れた方が負け、的な。
どちらにしても、私たちはもう、長野には戻らない。
私の就職先と、翔の保育園を東京の、母の近くか・・又は姉家族がいる横浜で見つけて、そこを基盤に、二人で暮らしていくこと・・・は、まだ翔に言わなくてもいいだろう。
私は密かにため息をついた。
急に動き出した人生の変化に、気持ちがなかなかついていけてない。
やっぱり私って・・・小心者で臆病者だ。
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