第7話 忘れたもの、失くしたもの

・・・・あれ?私・・・。

ここ、どこ・・・。


慌ててベッドから起きると、頭が少し重たいと思った。

・・・いや、頭だけじゃない。体全体が重い感じだ。


カーテンを閉めきった室内は暗く、その中でベッドサイドテーブルに置かれている、大きなデジタル時計の数字が「6:42」と赤く光っていた。


「な・・・」


私は何か手がかりを見つけようと、あたりをキョロキョロ見渡した。

でも暗くてよく見えない。

それでも私は、電気をつけようとは思わなかった。

自分の今の姿を明るみに晒したくないと思ったから。


そのときの私は、スカートとストッキングをはいてなかった。

それらは私が立っているすぐ近くに、脱ぎ捨てられていた。


・・・私、岸川さんと一緒だった。それから・・・?

それからどうしたんだろ。

岸川さんはどこにいるの?


っていうか、私・・・私は・・・。

岸川さんと、一夜を共に・・・過ごした、の?


そのとき私は、ここが岸川さんが住むマンションの一室だということを、不意に思い出した。


『・・・湖都ちゃん。湖都・・』

『んーーー』

『もう少しで俺んちに着く。歩けるか?』

『んーーー』


あぁ、何てこと!!


自分がその日、知り合ったばかりの男の人が一人で暮らしている家に、ノコノコついて行ったことも信じられないというのに、その人と一夜を共に過ごしてしまったなんて・・・。


もっと信じられない!

奥手の私らしくない!

ていうより、絶対これは何かの間違いよ!


私は半ば、パニック状態でスカートをはいた。

ストッキングをはく心の余裕なんて、そのときの私にはなかったので、ベッドサイドテーブルの、時計の反対側にあるベッドサイドテーブルに置いてあったのを見つけた、私の赤いバッグに、それをグイグイ押し込んだ。


おかげで、赤いバッグが悲鳴を上げているような気がしたけれど、今はそんなことを気にしている場合じゃない!


心の中はすっかり焦っていた私だけれど、寝室のドアはそっと開けなきゃという分別は、まだ残っていた。


目の前には、キャメル色の皮ソファが置いてあり、その向こうはダイニング・キッチンで、そこには誰も――岸川さんも――いなかった。

ホッとした私は、音を立てないように、と自分に言い聞かせながら、ソロリソロリと歩いた。

玄関までたどり着いたとき、横にあるドアの向こうから、水が流れる音が、微かに聞こえてきた。


やっぱり誰かいる!

でも「誰か」って・・・岸川さん?だよね。もちろん。


私は、思わず強張らせていた体を、少し緩めて緊張を解いた。


規則正しく流れているこの音は・・・シャワーみたい。

ということは今、岸川さんは、シャワーを浴びているところなのだろう。


私はこのタイミングの良さに、心の底からホッとしながら、今がここから逃げ出すチャンスとばかりに、赤いバレエシューズをマッハの勢いで履き、岸川さんに気づかれないよう、ロックをそーっと外して・・・静かにドアを閉めた。


それから私は、全速力で駆け出した。

一歩足を踏み出すたびに、手に持っている赤いバッグの中身がカチャカチャと音を立てる。

でも、もう外にいるから、これくらいの音を立てても大丈夫。

それに岸川さんは、シャワーを浴びてるところだったから、私が出て行ったことを知るのは、もう少し後だろう。

万が一、岸川さんが追いかけてきたとしても、まずは服を着るところからから始めなきゃいけないから、外に出るまで時間がかかるはずだ。


だからといって安心してはいられない。

今のうちに岸川さんから遠ざからないと・・・岸川さんから逃げなきゃ・・・。


私はとにかく、無我夢中で走った。


・・・あの人、妹さんの話とか出したことで、私の警戒心を解いた?

軽そうだったけど、実はとっても面倒見が良くて、話しやすくて・・・いい人なんだという私の判断は、間違っていた。


「湖都ちゃん」と名前で呼ばれたり、「護ってやりたい」とか呟かれて、ついドキドキしてしまった私って、ホント・・・バカだ。

まさに恋愛経験ゼロで、奥手な私ならではの勘違いっていうか・・・。

岸川さんは、そういう意味を含めて言ったんじゃないのに。

どこまで勘違い女子なんだろ。私は。


私は息を切らせながら、それでも走ることを止めなかった。

目を閉じて、歯を食いしばって走っていると、岸川さんがニコッと微笑んだときの顔や、顔を近づけ合って、お互いの好きな食べ物と嫌いな食べ物を教え合ったときのことを、鮮明に思い出してしまい・・・。


ついに私は立ち止まった。


・・・でも。こんなことになってしまったのは、岸川さんのせいじゃない。

全部私のせい。私が全部悪いんだ。


「・・・っ・・・」


私は、食いしばっていた歯の間から、ハァハァという荒い息を吐きつつ、両手を膝についた。


・・・疲れた・・・。

私にしては長距離を全力疾走したから・・・。ちょっとだけ、休憩しよ・・・。


信じられないのは岸川さんではなく、私自身の方だった。

岸川さんは私よりも、分別のある大人。

だから私は、岸川さんを責めるつもりは全然なかった。


責めるんだったら、岸川さんじゃなくて、私自身を責めるべきだ。


出会ったばかりの男の人の家について行ったのは・・・私。

その結果、岸川さんと一夜を共に過ごしてしまったんだから。


私は、知り合ったばかりの男の人と、一夜を共に過ごしてしまった自分を責めた。

自分がこんなにふしだらで、身持ちの悪い女だったことに、大きなショックを受けた。


恋愛には疎く、自他ともに認めるくらい奥手な私が、まさかこんな・・・大胆なことをしでかすなんて。

お姉ちゃんが聞いたらビックリするだろうな。

「えーっ!?あの湖都ちゃんがー?そんなのありえなーい!」と言って、笑い飛ばして・・やっぱり全然信じないよね。


私だって、自分のことが信じられなくなったというのに。


でも私は、こんな不名誉なことを、誰にも話すつもりはない。

お姉ちゃんにだって・・・あぁ、お姉ちゃんがどうか彼氏の家にお泊りして、私よりも遅く帰ってきますように・・・!


再び歩き出した私は、ゆっくりした歩調から早歩きになり、数歩後には走り出した。

私の目からは、いつの間にか涙があふれ、頬を伝って流れ落ちていく。

それでも私はひたすら走った。

泣きながら走っているうちに、やっと自分が今、どのあたりにいるのかを把握できた私は、そこから一番近い、来たばかりの私鉄電車に乗って、お姉ちゃんが一人で住むマンションに帰った。






鍵でドアを開けると、その部屋の主である姉はいなかった。


・・・お姉ちゃん、まだ帰ってないんだ。良かった・・・。


ホッとした私は、安心し過ぎてその場に崩れ落ちそうになった。

だけどここは玄関だ。

ひとまずでいいから、中に入らないと。

それからへたり込んでも遅くはない。


私は一人暮らしサイズの小さなキッチンに行くと、グラスにお水を注いで一気に飲んだ。

一心地ついたところで、次はお風呂・・いや、シャワーでいい。

とにかく、昨夜の「痕跡」を消さなきゃ。





裸になって流れるシャワーの下に立つと、また涙が出てきた。

お湯の流れる勢いを最大にして、ひとしきり泣いた私は、手早くシャワーを済ませた。


こんな事態が起こったことを、お姉ちゃんに悟られるわけにはいかない。

だから、お姉ちゃんが帰ってくる前に、ここを出なきゃ。


あれからどれくらい経ったんだろう。

ていうか、今何時だろう。

と思ったところで、ハタと気がついた。


「あ・・・」


・・・ない。

腕時計がない!


あれ、留め金が緩んでたから、いわば壊れかけの腕時計だったんだけど・・・でも私は携帯を持っていないから、外出時に腕時計をつけることは、私にとっては当たり前のことで・・・。

さっきは「とにかくここを逃げ出さなきゃ!」という一心で、バタバタと岸川さんちを出たから、腕時計のことまで頭が回ってなかった。

それくらい、私には心の余裕がなかったと言える。


腕時計は高校3年間を共に過ごした、思い出のあるお気に入りだった。

だから近いうちに修理に出すか、ベルトを変えて使い続けようと思っていた矢先だっただけに、少なからずショックを受けてしまった。


いや、昨夜からの出来事を思えば、私にとってはダブルショックだ。


どこかで落とした可能性は・・・低いと思う。

もしかして私、岸川さんちに置いてきてしまった!?


一縷の望みを託すように、バッグの中を漁ってみたけど、私の腕時計は入ってなかった。


お姉ちゃんからもらったばかりのイヤリングは、バッグの中に入ってたのに。

・・・入れたの、覚えてないけど。


「どうしよう」と思っても、腕時計がない現状に変わりはない。

岸川さんがどのあたりに住んでいるかは、たぶん、ではあるけど分かったから、岸川さんに聞きに、彼の家へ再び行く、という手段はある。

だけどその案は、私のなかで素早く却下された。

なぜなら私は、もうあの人に会うつもりはないから。

あの人の電話番号も知らない。どこに勤めているかも知らない。


結局、岸川さんのことをよく知らないということに、改めて気づいた私は、再びショックを受けた。


そんな人と一夜を共に過ごして・・初めてを捧げてしまったこと。

何より、その「初めての体験」を、私自身が全然覚えていないことも、正直ショックだ。


あぁ、どこまでバカなんだろう私は・・・。





―――10年経った今でも、不意にあの時のことを思い出すときがある。

思い出すたびに、私の胸がチクッと痛む。

10年前に起きたあの出来事は、10年経っても過ぎ去らない私の過ちとして、私の心にいまだに根付いたままだ。


あれから10年。

岸川さんはどこで、どう過ごしていたんだろう。

今でも湘南のマンションに住んでいるのかな。

だとしたら・・・。


私は、母からもらった岸川さんの名刺を、もう一度改めて見た。


・・・事務所は西麻布か。だったら引っ越してるんじゃないかな。

湘南のマンションから通勤するのは遠いから。


そこにも10年という歳月の流れを感じる。


あの出来事が起こった2日後、私は大学へ進学するため、長野に引っ越した。

それから10年の間に、私は大学へ行き、海外の大学留学もした。アメリカではなく、カナダの大学院に1年、だったけど。

そして大学院卒業後に就職した会社で壮介さんと出会い、壮介さんの熱心なアプローチに戸惑いながらも、両親も乗り気だったこともあって、結局、周囲に押し切られたような形で壮介さんと結婚して。

それから1年後には翔を生んで、育てて。

浮気ばかりしている主人に心を悩ませ、今度こそ別れると一大決心して実家に戻ってきている・・・なんて、岸川さんは知らないよね。


岸川さんだって、もう結婚してるはずだ。

子どもも2人か3人くらい、いるかもしれない。


髪はまだ「ちょっと長め」?

私は学生の頃だったように、髪を伸ばして、後ろに一つ、お団子ヘアーにしているのが定番スタイルになっている。


他にも、外見的に変わったところはあるのかな・・って、会えば分かるよね。


いいや。

できることなら岸川さんには会いたくない。二度と関わりたくない。

10年前からずっと、心のどこかで恥じている部分をわざわざ蒸し返す、なんてことは、誰だってしたくないはず。

私だってそう。

岸川さんのことを、ついあれこれ考えてしまったのも、「会いたくない」という気持ちの裏返しに過ぎない。


それより、母の言う「建築家の岸川さん」が、本当に「10年前の岸川さん」と同一人物か、まだ分からないんだから。

独り先走ってあれこれ考える必要はないんじゃない?


でも・・・。たぶん、同一人物だろう。

「岸川瑞樹」という同姓同名の男の人が、そうザラにいるわけない・・・あっ。


「お母さん」

「なぁに?湖都」

「あの・・岸川さんって・・男の人?」

「そうよ」


僅かな期待をかけてお母さんに聞いてみたけど・・・やっぱりそうか。

これで同一人物の可能性が、ますます高くなった。


私は思いっきり落胆していた。

だけど、もちろんそんな表情は、顔にも態度にも現さなかったので、母は私の揺れ動いている気持ちに、全く気づいていないようだ。

そして母はもちろん、10年前に起こったあの出来事を知らない。誰にも話してないから。


あれは私の心の中に、永久に閉まっておく。恥辱の出来事として―――。







母に名刺を返した私は、早々部屋に引き上げた。

高校まで私が使っていた自室を、これから翔と二人で、しばらく使うことになる。


翔はグッスリ眠っている。

私がちょっと音を立てても、まだ目は覚めない。


私の目が暗がりに慣れた頃、翔の寝顔がぼんやり見えた。

あどけない息子の寝顔を見て、規則正しい寝息を聞いているうちに、絶望的な気持ちに陥っていた私に、再び希望と勇気が湧いてきた。


私は、翔がいつの間にかはぎ取っていた布団を、そっとかけ直して、寝ている翔に微笑んだ。いつもの癖だ。


・・・これから先、どうやって翔と生きていこうかと、今思い悩んでも仕方ない。

まずは家を出た。そして壮介さんと離婚する。

仕事や翔の預け先を考えるのは、それからでもいい。

少なくとも今夜くらいは・・・。


離婚届を置いて、翔を連れて家を出たのは、今回が初めてで、それだけ私の「離婚する」という揺るぎない決意が本物だと、果たして壮介さんは分かってくれるだろうか。


主人からメールは・・・来てない。

まだ家に帰ってないのかな。


でも、今はまだ壮介さんと話したくないので、すぐにスマホをオフにした。

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