第3話 パンドラの箱が、開くとき
17時12分。
私たちが乗った新幹線は、時刻表の時間通り、終点の東京駅に着いた。
いつもなら、ここから電車に乗り換えるのだけれど、今回は、持ってきている荷物が、いつもより多めだったこともあり、母が車を運転して迎えに来てくれていた。
母の姿を見つけた息子の翔が、「あ!ばぁばだ!」と言いながら、パッと目を輝かせた。
この世に生まれてまだ3年しか経っていない翔は、何を見ても新鮮で、自分に関わる人全てに、「大好き」という感情しか持っていないのかもしれない。
それだけ翔は、世の中の、嫌な部分を見ていないということだ。
できればいつまでも、この無垢で純粋な子ども心を失わないでほしい・・・。
私の母に抱きついて会えたことを喜んでいる翔と母を見ながら、私は思った。
「荷物はこれだけ?」
「うん」
「少ないわねぇ」
「今までそっちに何度か送ったでしょ。だからひとまずは、これで十分なの」
「あ。そうだったわね。じゃあ行きましょうか」と母が言うと、翔は手をバンザイしそうな勢いで「はぁい!」と言った。
「お母さん。今日、お店は?」
「
「やっぱり・・」
―――4年前、父が急死した。
会社へ出勤途中、心臓発作を起こして、そのまま帰らぬ人となった。
当時、壮介さんと結婚して、まだ間もなかった私は、長野に住んでいて、翔を妊娠していた。
私よりも数年早く結婚していた姉の
真面目な父は、酒に飲まれない程度しかお酒は飲まず、タバコも吸わなかった。
病気や怪我もしてなくて、持病といえば、ぎっくり腰くらい(しかもごくごくたまに程度)しかなかった父だったけれど、64歳という年齢的な「衰え」というものが、知らないうちに押し寄せていたのかもしれない。
父は、残された家族、というより母のために、保険をかけていた。
保険金と、父が勤めていた会社からの退職金を受け取った母は、そのお金を元手にして、なんと、「喫茶店を始めます」と私と姉に宣言したのだった―――。
しかも、母からその宣言を聞いたのは、母がすでに喫茶店を開く店舗を決めて、支払いまで済ませた後という・・。
いわば、「宣言」というより「事後報告」と言った方がいいような形だった。
父が遺したお金をどう使うかは母の勝手だから、姉や私があれこれと口を挟むつもりは全然なかった。
だけど、お店の経営等した経験が一度もない母が、なぜ喫茶店の経営をしたいと思ったのだろう・・・。
『実はね、お母さん、前から考えてたのよ』
『喫茶店を経営するって?』
『そう。ホントはお父さんが定年退職した後でって思ってたんだけど・・ま、予定が少し早まっただけね』
『ふぅん・・・』
主に会社勤めのサラリーマンが、休憩がてら、コーヒーを1杯飲みに立ち寄るような喫茶店(母曰く、「カフェみたいな感じじゃなくて、あくまでも喫茶店なのよ」だそうだ・・)にしたいと思った母は、西麻布のオフィス街の一角に、コーヒー喫茶店「白樺」を構えた。
父が亡くなって2年後、今から2年前のことだ。
店舗の場所(地域)や物件は、母が自分の足で何度か下見をして、全て母が自分で決めた。
内装も、母が頼んだ建築家の専門的な意見を聞きつつ、基本的には母自身が全部決めたので、姉や私は一切関与していない。
そうやって、最初から境界線をハッキリ引いていたおかげで、お金にまつわるような、ややこしい面倒事にお互い巻き込まれずに済んでいる。
姉はどうか知らないけど、私は、「白樺」が完成してから、初めてお店に行った。
距離的な問題もあったし、翔が生まれたばかりで、そうそう遠出も出来ない状態だったから。
「白樺」は、とても小さな店舗で、お客さんが一人もいない(来ない)時間もあるらしい。
それでも母は、「朝9時から夕方6時まで。土日は休み」という営業時間をきっちり守っている。
「この辺は土日お休みの会社が多いから、開けても来る人が少ないか、いないのよ。だからお母さんも休むの」と母が言っていた。
たとえ来てくれるお客さんが少なくても、逆に、よく来てくれる常連客もいるそうだ。
そうやって、自分のペースで自分のお店を切り盛りすることで、母は、夫(私の父)との死別に嘆き、悲しみ、そこで立ち止まってしまうことなく、新たな人生を、張りきって歩み始めることができている。
「お客さん、いたんじゃないの?」
「いたけど、“今日はちょっと早めに閉店させていただきます”って言ったら、すぐ帰ってくれたわよ。こういうとき、自分のお店だから自分の都合で営業時間を決められるからいいわよねぇ」と母に言われて、私は「うーん」と唸ることしかできなかった。
車に乗って30分くらいで、母の家に着いた。
私は、暫しの間佇んで、実家と向き合い見た。
ここを離れている間、柱に刻まれたであろう年輪が増えたような気がする。
庭の樫、大きくなってるよね・・・。
生まれて18年、私はここで暮らした。
そして今、私は息子を連れて、ここに戻ってきた。
「さ、入んなさい」と母に言われた私は、「ただいま」と言って家の中に入った。
幼稚園でいっぱい遊んだ上に、新幹線に乗っての長距離移動で疲れていたのだろう。
夜7時を過ぎた頃にはもう、翔はぐっすり眠っていた。
ちょっと口を開けて、クークー寝息を立てている息子は、今どんな夢を見ているのかな。
嬉しそうな顔をしてるから、きっと楽しい夢を見ているに違いない。
私は思わず顔に笑みを浮かべた。
翔を起こさないよう(少々のことでは起きないだろうけど)、翔の柔らかい黒髪をそっと撫でて、静かにドアを閉めた私は、母がいる階下のリビングに行った。
「コーヒー飲む?カフェイン入ってないの」
「うん」
コーヒーミルクではなく、牛乳を入れたカフェイン抜きの「湖都コーヒー」を持ってきてくれた母に、「ありがと」と言った。
母は、私と自分の分のコーヒーを白木のテーブルに置くと、私の斜め向かいのソファに座ってホゥと息をついた。
「この瞬間、“今日も一日生きたー”って思うのよねぇ」としみじみ言う母に、私は笑顔で「そうね」と答える。
顔を上向けていた母が、私を見た。
「もうあの家には帰らないんでしょ?」
「そのつもり。少なくとも当分の間は」
「当分って・・壮介さんとは別れるんでしょう?」
「もちろんよ!もう、それしかないから・・・」
私は、壮介さんの本気の浮気相手・前田さんと会ったこと、前田さんが妊娠していることを、母に話した。
母は「まあ!」と言ったきり黙り込んだけど、壮介さんに対してかなり憤慨しているのは、私にも分かる。
壮介さんが浮気をしていることは、母もすでに知っていたし、「もうあんな人とは早く別れなさい!」と何度も母から、そして姉からも言われた。
もし姉がこの話を聞いたら、壮介さんのところへ殴り込みをかけるかもしれない。
「湖都がやっと家を出たからには余程のことがあったとは察しがついてたけど・・・まさかあの人、他にも隠し子がいるんじゃない?」と母に聞かれて私はギョッとした。
「そ、そ・・う、かな・・・」
そうかも・・・しれない。
あり得ることだ。
「まぁでも、そうなれば、すんなり離婚に応じてくれるでしょうね」
「だといいけど・・・あの人、翔は絶対渡さないって、言ってるから・・・」
「渡すも渡さないもないの。壮介さんに翔くんを育てる力なんてないんだから」
「でも、もし壮介さんがすぐ再婚したら?男の人はすぐ再婚できるんでしょう?」
「そうだけどねぇ。まだ起きてないことを今からあれこれ悩んでも意味ないわよ。あんたの悪い癖よ、それ」と母に言われて、私は小さな体をますます縮こまらせた。
「とにかく、壮介さんとは一刻も早く離婚しなさい。お互いの幸せのために。そして翔くんのためにも。ね?」
「うん」と言った私は、カフェオレを飲んだ。
やっぱり母が淹れてくれた「湖都コーヒー」は美味しい。
適度に苦味が効いていながら、コーヒー独自の強さがなくて、飲みやすい。
「当分の間はここに住めばいいし」
「いいの?」
「もちろんいいわよ。でも“白樺”で雇うことはできないわよ。人手は足りてるから」
「分かってる」
確か、大学生の子をアルバイトで雇ってるって言ってたよね、お母さん。
それに、もしバイトの子がいなくても、身内の者を雇う気はないと最初から母は言っていたし、その方針は今でも変わってないはずだ。
私も、母とは「雇い主と従業員」という間柄にはなりたくない。
なんて、えり好みをしているときじゃないんだけど・・・。
とにかく、壮介さんとは正式に離婚する。
そして翔は私が育てると決めた以上、色々と考えなきゃいけない。
たとえば住むところ。
暫くの間は実家でお世話になるとして・・・。
どっちにしても、もう長野に住む気はないから、このまま東京で暮らすことになるだろう。
だから翔が通っている幼稚園には「東京に住む母が病気で倒れて、息子も連れて看病に行くことになったので、暫くお休みさせていただきます」と言っておいた。
これも新たな暮らしのために必要な嘘だ。
東京には実家があるし、姉家族の家も、東京の方が近い。
仕事だって、東京の方が数も種類も多いはずだ。
壮介さんといつか離婚することになると思っていた私は、この日のために、翔と私の日用品を、少しずつここ(実家)に送っていた。
そして専業主婦だった私ができたことは、働いてお金を稼ぐことではなく、壮介さんが渡す毎月の生活費を、少しずつ貯めること。
もちろん、主人には内緒で。
だから今現在、これからの生活資金がゼロというわけじゃあない。
でも、新たに住む家や仕事が必要だ。
翔を預ける保育所探しも・・・。
「そう言えば・・・」
「え?なに?お母さん」
「岸川さんが事務をしてくれる人を探してるって言ってたわねぇ」
「・・岸川、さん・・・?」
私の思考が一瞬、止まった。
心臓が、ゆっくりと、鈍く、ドクン・・とゆっくり波打った気がした。
まさか・・・。
世の中に、「岸川」という名字の人はたくさんいるはず・・・。
それに、お母さんが言った「岸川さん」が、男の人だとは限らないでしょ?
あの人じゃない、絶対。
10年前に一度だけ会ったあの人じゃ・・・。
「だ、誰なの?その人」
「建築家よ。“白樺”の内装を頼んで以来のおつき合いで、うちの常連さんの一人。なんでも事務をしてくれてる人がね、旦那さんの転勤で九州の方に行くことになっちゃったらしくて」
「そぅ」
平静を装いながら、私の心はかなりといっていいくらい、落ち着きを失くしていた。
あの人が建築家かどうかまで、私は覚えていない。
あの人の職業を聞いたのか、それすら覚えてない。
「あら。湖都は岸川さんに会ったことなかったかしら」
「ないよ」
なんせ10年前のことだ。あの人は私のことなんて忘れてるだろう。
あの人は、学生だった私よりも年上の社会人だったから、きっと「あのこと」なんてそれほど重大な出来事だとは思ってないはず・・・。
「そう・・まぁたぶん明日会えるから」
「え?明日、会えるって」
「岸川さん、ほぼ毎日“白樺”に来てくれるのよ。来る時間は決まってないんだけどね。うちの常連さんの一人ってさっき言ったでしょ?」
「あ・・・そう」
「明日岸川さんが来たときに、まだ事務員さんを探してるかどうか聞いてみるわ」と言った母がソファから立ち上がった。
そして母は、「あぁそうそう。確か岸川さんの名刺があったわねぇ」と言いながら、テレビ台の方へと歩いていった。
引き出しを開けて岸川さんの名刺を探す母の背中に向かって、私は思わず「探さなくていいよ!」と叫びそうになった。
なぜか、パンドラの箱を開けてしまいそうな不安にかられてしまったから・・・。
でも私が叫ぶ前に、母は私の方へ戻って来た。1枚の名刺を手に持って。
母は、ニコニコしながら私に名刺を渡した。
私は震える手で、それを受け取った。
「・・・あ・・・」
『岸川建築設計事務所 代表 岸川瑞樹』
・・・やっぱり、岸川さんはあの人だ。
10年前に一度だけ、一夜をともにしたあのときの・・・。
あの人だ。
「岸川さんの名前が“瑞樹”さんで、お母さんの名字が“水木”で。面白い偶然でしょう?」と言う母の声を遠くに聞きながら、私の記憶は10年前のあの出来事が起こった夜に、引き戻されていた。
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