第2話 勇気を出して、ようやく実行
その足で私は、息子の翔を迎えに、幼稚園へ行った。
私の姿を見つけた翔は、「ママぁ!」と言いながら、私に抱きついてくれた。
延長保育を頼むのは今回が初めてだっただけに、翔がぐずらないか、不安に思わないかと心配していたものの、仲良くしているお友だちと、いつもよりたくさん遊べて嬉しかったと翔から聞いて、私はホッとした。
幼稚園の先生も同じようなことを言っていたから、嘘ではないだろう。
それでも
家に帰った私たちは、まず翔を、幼稚園の制服から洋服に着替えさせた。
部屋着ではなく、外出用の洋服を見た翔は、それを小さな指で指した。
「ママぁ。これ、きるの?」
「うん。そうよ」
「じゃあ、おでかけするの?」
「うん」
「どこにー?」
「すぐ分かるよ。ちょっと待っててね」
持って行くものの用意はできてる。あとは・・・。
「もしもし?お母さん?私、湖都です・・あ、名前言わなくても分かる?って。そだね・・・うん。あのね、これからそっちに行ってもいいかな・・・・・・・うん。やっと決心ついたから・・・うん。ありがと。じゃあ、駅に着くころに、また電話するね」
スマホを切った私は、翔の目線に合わせるようにしゃがんだ。
そして、翔の二の腕あたりに両手をそっと置いた。
「翔。今からママのおばあちゃんちに行こ」
「でんしゃにのるの?」
「そうよ」
「わーい!」
何も事情を知らない3歳の翔は、大好きな電車に乗ることと、大好きな祖母(私の母)に会えること、両方がいっぺんにできることに、とても喜んでいる。
でも・・今はこれでいい。今は。
私は、自分の分のサインと捺印を済ませた離婚届と、壮介さん宛の置手紙を食卓の上に置くと、翔と一緒に家を出た。
翔の幼稚園の制服と、バッグ等の幼稚園グッズは、持って行かなかった。
15時23分発の新幹線に乗ることができた。
3月とはいえ平日の、この時間帯のせいか、席に座っている人は少ない。
私は翔を窓際の席に座らせた後、隣の通路側の席に座った。
新幹線が発車した途端、翔は「わぁ」と弾んだ声を上げながら、窓にかじりつくように景色を見始めた。
そして好奇心いっぱいに輝いている息子の目を車窓越しに見ながら、私の右手は、翔の柔らかな黒髪を、自然となでていた。
里帰り時、ごくたまに見る、のどかな風景・・・。
だけどこのときの私は、外の景色とは全く別のことに意識を奪われていたせいか、景色は目に入らなかった―――。
壮介さんと結婚して4年目。
その間、主人は何度も何度も浮気をしてきた。
最初はさすがに(と言うべきか)、妻である私に悟られないようにという配慮は怠らなかった。
でも、私に浮気がバレた途端、主人は堂々と浮気をするようになった。
開き直った壮介さんは、「俺はたしなみ程度しか飲まない。賭け事もしない。借金もない。これが唯一の娯楽なんだよ。それに俺は、君や翔に暴力を振るったりしないだろ?」と私に言った。
主人流に言い換えれば、「だから浮気ぐらい許せ」ということだ。
年齢が一回りも違う男の人は、こういう考えなのだろうか・・・。
息子の翔にとって壮介さんは、とても優しい父親だ。
子煩悩な父親であると、自他ともに認めている。
浮気をしても、仕事はちゃんとしているし、月々の生活に困らない額を私たちにくれる。
経済的に貧しい暮らしをしているわけじゃない。
でも、私の心は荒んでいく一方だった。
何かが違う。
これが本当の結婚生活だと言えるの?
これで私は、「本当に生きている」と言いきれるの・・・?
そんな疑問が、常に私の脳裏にこびりつくようになった。
壮介さんは、仕事で遠方へ出張しているため、2・3日家を空けることはあっても、浮気が理由で家に帰らないことは、今までなかった。
でも3ヶ月程前から、壮介さんが決めた「浮気ルール」は破られた。
最初は出張で帰ってこないんだと思った。でも違った。
そのうち壮介さんが家を空ける日が、2・3日から1週間と長くなった。
たまに帰ってきても、何か考え事にふけっている様子が増えた。
きつい香水の臭いや、ワイシャツに口紅の跡がついているといった、あからさまな浮気の証拠がないだけに、「今回はいつものような浮気相手じゃないかも」という疑惑が芽生えた。
壮介さんは、今度の浮気相手にのめりこんでいる。
この人・・本気だ。
でも、不思議と怒りは湧いてこなかった。むしろホッとした。
そして、この疑惑を裏づけるように浮気相手の前田さんと会って「話」をしたことで、私の疑惑が確証された。
今まではずっと、壮介さんの度重なる浮気に耐えてきた。
妻の私さえ耐えれば、この結婚生活はうまくいくんだと思っていたし、実際に壮介さんからもそう言われた。
それに翔もいる。
まだ3歳の翔は、自分の両親がこんな「事情」を抱え持っているなんて知らない。
そして翔は、壮介さんが大好きだ。
息子として父親を慕っている。全面的に信頼している。
その気持ちを汲んで、私たちは決して、翔の目の前はもちろん、翔に「おやすみ」を言った直後でさえ、言い争いはしなかった。
私たちが言い争いをするときは、翔がぐっすり寝ているときか、翔が家にいない時だけ。
でも翔が家にいない時は、大抵が幼稚園に行ってる時。つまり、壮介さんは仕事に行ってる。
だから結局のところは、翔がぐっすり寝ているときに、私たちは言い争いをしていた。
私は、持って行き場のない怒りや悲しみ、虚しさや悔しさを、自分の内に閉じ込めるしかなかった。
「・・・控えめなところが気に入った、か」
壮介さんにとって私は、控えめな、控えの妻に過ぎなかった。
「なぁに?ママぁ」
私を仰ぎ見て翔が聞く。
クリッとした目と長いまつ毛は、どちらかと言うと壮介さんに似ている。
この子のあどけない表情は、いつまでも消えないでほしい。
今まで何度も別れようと思ったし、壮介さんに離婚を切り出したことは何度もある。
離婚届をつきつけたことだってある。
その度に、壮介さんは「君が耐えれば全て丸く収まるんだ」と言いくるめてきた。
つきつけた離婚届は、結局壮介さんが破棄して・・終わり。
そのうち壮介さんの浮気が原因で、泣くことはなくなった。
主人が浮気をしても、「あぁそう。またか」程度にしか思わなくなっていた。
怒ることもない。主人に対する想いは、無関心しかなくなっていっていた。
その矢先、主人の本格的な、本気の浮気が発覚した。
それでもたぶん、壮介さんは私と離婚しないだろう。
「子どもは両親がそろっている安定した家庭で、たくさん愛情をかけて育てるべきだ」という信念を持ってる・・らしいから。
だから、あの人は軽い浮気しかしてこなかった。
いくら私が「離婚してください」と懇願しても、頑として聞き入れようとはしなかった。
でも、前田さんとの一件は、「軽い浮気」じゃ済まされない。
家を出たのは、今まで何度も考えていたことを、ようやく実行に移しただけのことだ。
前田さんとの「対決」のおかげで、踏ん切りがついたというか・・・勇気が出た。
壮介さんにとって私は、確かに「控えの妻」という位置づけだったと思う。
だって、いくら私が壮介さんの妻でも・・・10年前、初めて会った男の人に、一度だけ・・一夜を共に過ごしてしまったような、身持ちの悪いふしだらな女でも、他の女と「軽い浮気」をした主人に、自分の体を触れられることは耐えられなかったから。
だから私は、壮介さんが浮気をしていると知った時点で、主人と寝室を別にした。
自分の心を護るために、こうすることだけは、どうしても譲れなかった。
それを主人は、「大っぴらに浮気をしてもいいと妻から許可が下りた」と、都合よく解釈した・・・。
私は翔に「なんでもない」と言って、ニッコリ微笑んだ後、再び車窓に視線を移した。
たぶん今晩、壮介さんは家に帰るだろう。久しぶりに。
だからこそ、一刻も早く家を出る必要があった。
私が本気で離婚をしたいと、あの人に分かってもらうために。
新幹線が軽井沢駅を通過した。
「おなかすいた」という翔に、あらかじめ買っておいた子ども用のビスケットを1枚、あげた。
翔は喜んで食べながら、外の景色に見入っている。
もう引き返せない・・ううん、絶対、引き返さない。
ウジウジしていた今までの私に「さようなら、卯佐美湖都」と、心の中で告げた。
私はこれから、翔と二人で強く生きる。
翔のためにも強く生きなきゃ。
窓に映る桜の木に、花はまだ、咲いていない。
息子は絶対、私が育てる。
壮介さんには渡さない―――。
私の内で、翔と二人、新たに生きる決意は、蕾同様、固まっていた。
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