二 信じたくないもの

 母さんと妹が帰ってきて、少しお茶の時間にしないかい? と祖母に呼ばれて自室からリビングに戻る。さっき帰ってきた時は電気も点けていなかったし、ただただ暗い空間に雨の音が響いてとても寒く感じたけれども、母さんたちが帰ってきた事でオレンジ色のふんわりとした明かりが灯されて、心なしか暖かくなったように感じる。さっきより安心出来る空間になった。

「――、コーヒーいる?」

「あー、いる、ください」

 実は既に一杯コーヒーは飲み干しているのだが、どうしても体温が下がってしまって寒気がおさまらない。コーヒーには利尿作用もあるから体温下がってしまいそうだけれど、今はとにかく何か温かいものを体に入れたい。寒さは恐怖と繋がっているのか、怖いと思えば思うほど俺の体温を無惨に奪い去ってゆく。名前だけでなく、体温までも、生きる気力でさえも奪ってしまうというのか……厄介な雨だ。雨が嫌いになりそうだ。

「陽子さん、少し聞いて欲しい話があるの」

 皆に飲み物が行き渡ったのを確認してから、唐突に祖母が切り出す。

「どうしたんですか?」

 母が珍しく難しい顔をする祖母に心底不思議そうな顔を向ける。

「信じてもらえるかは分からないけれど……。――があの人と同じ雨に降られて名前を思い出せなくなったみたいなの」

「えっ、あのお祖父ちゃんが急に家を飛び出しちゃったっていう、――が?」

「今も俺は俺の名前が分からない。なんか寒気がずっと止まらないんだよ。自分が自分じゃなくなっちゃったみたいで凄く怖い」

 一家に伝わる『言攫の雨』、それは祖父を奪った忌まわしき雨。決して許してはならぬ、と祖母が語るそれは存在すら怪しいと思っていたというのに、まさか俺も被害に遭うだなんて母さんは思いもしなかっただろう。俺から放たれた一言で母さんの動きが固まる。四つ年下の妹はこの状況がよく分かっていないみたいだ。あぁ、そもそも妹は言攫の雨の存在を聞かされていないんだったか。父さんがそういう類いの話を嫌うから、妹には話すなと口止めされていたような気がする。しかし、そうも言ってられない。

「……え、兄ちゃんどうしたん?」

「自分の名前が分かんねぇんだよ」

「はぁ? 頭沸いてんの?」

「勝手にそう思ってろ」

 正直こいつと話すのは面倒だ。馬鹿に説明するのは賢い小学生と話すより断然難しい。中二病を拗らせ、且つ馬鹿とか救いようも無いだろう……。まぁ名前を思い出せないとか、俺も十分末期か。

 名前、それは自分を証明するものであると思う。俺は俺を証明する為の道具をひとつ失ったようなものなのだ。俺が俺であるために必要だった『何か』を流されてしまったから……分からない。

「……まだ少し信じがたいですけれど、お義母さん、お義父さんは雨に打たれた後ってどうなったんですか……何か手掛かりは無いんですかね」

「それが……分からないの。あの人は私たちに何も言わずに出ていってしまったから……でも、『自分が自分であるために必要な言葉を探しに行く』とか言っていたかしら」

 母さんはもっと信じないだろうと思ってた……あ、でも母さんは視える人だったか。小さい頃は怖かった。母さんが誰も居ないところに向かって挨拶していたりするから。俺の周りはもしかしたらそういう人が多いのかもしれない、科学的には証明されないような、霊的なものだとか神隠しだとかそういうのに巻き込まれる人。雨の音だけが室内に響く。沈黙に耐えきれなくなったのか、妹がテレビをつけた。『歴史的豪雨!』と大きく赤いテロップがずっと全面に押し出されているのを見るのは今年何回目だろうか。異常気象が異常気象を引き起こし、今年の夏は大雨などの災害がとても多かった。俺の住んでいるところはそもそも雨もあまり降らない地域だから被害など何もなかったけれど、地方はかなり酷いみたいだ。SNSで仲の良い友達もかなり被害に遭ったみたいでしばらくの間連絡が取れなかったものだ。大雨、それが人の命を奪うだなんてついこの前まで信じがたかったのに、今自分が名前を思い出せないというだけでかなり大きな恐怖へと成長した。怖い、恐い、こわい。あぁ、何も考えたくない。時間だけがどんどん過ぎていく。

「とりあえず、そろそろご飯の準備をしなきゃだから……またご飯食べ終わった後にでも話の続きをしよっか」

「おう」

 そこで一旦お開きとなり、各々がそれぞれの場所へと散っていく。祖母と母さんはキッチンの方へ、妹と俺は自室へ戻っていく。階段の途中にある窓に大粒の雨がまだまだ強く打ち付けている。今日はきっと止まないのだろうよ。昨年は水不足で困っていたというのに今年は水害、調整出来ないのか馬鹿野郎。名前が思い出せないという苛つきを雨にぶつけたところで自分に返ってきて虚しくなるのは分かっているのだけれど、それでも誰かに、何かに悪態を吐いていないと恐怖に呑まれてしまいそうで。そうしたら二度と戻ってこれないような気がする。押し寄せる波のように、言い様の無い不安が俺の周りの空気を満たしていく感じ。それが凄く嫌だ。自室は蒸し暑く、でも自分の体温は上がらずに寒い。暑いのか寒いのか分からない。それが余計に嫌悪感を増して。

 コンコンコン、とドアを叩く音が響く。

「兄ちゃん」

「何?」

 昔はここまで仲悪くなかったよなー、なんて。まぁ原因の殆どは俺なのだけれど。でもこいつも悪い。まずノックして返事するよりも先に入ってくるとか常識的に考えてくれ、頭おかしい。隠したい事やモノだってあるかもしれないというのに。まぁ俺はこいつの部屋に行くなんて事がまず無いから勝手に開けたりなんてしないし。とりあえずこいつには常識という常識が欠如している。だからこそ話すのが面倒。俺にとっての当たり前が当たり前じゃない。

「……さっきはごめん。お母さんから聞いた。兄ちゃんはストレス溜めやすいタイプだし、無理しちゃ駄目だからね」

「うっわー、これは雨止まないわ。お前が謝るなんて、何事?」

 連日の部活により日に日に濃くなっていく褐色の肌をそれはそれは盛大に赤く染め、わなわなと身体を震わせている。ポニーテールも身体の振動に合わせて揺れ動くのが面白いなぁ。

「兄ちゃんのアホ!」

 馬鹿に阿呆って言われた……ったく、馬鹿は本当に何を考えてるのか分からん。なんとも言えない気持ちになりつつ、特にやることも無いのでスマホに手を伸ばし視線を落とす。


 ***


「ご飯よー」

 リビングの方から呼ばれて降りていくと、既に俺以外の3人が席に着いていた。今日の夕飯は鯵の干物と煮物とほうれん草のお浸しという超健康的且つ和な感じ。煮物に入った椎茸と里芋が好きで、そればっかり食べると祖母に怒られるのだ。分かっていても食べたくなっちゃうんだよなぁ。では、

「いただきます」

 ん、今日の鯵は何か少し塩辛い。いつもと違うやつだな。ほうれん草は珍しく鰹節が乗っている。美味しい。どんなに不安な状況だろうと、食欲だけは変わらなくて安心した。温かいご飯が束の間の安心と温かさをもたらしてくれる。酷かった寒気は減ってむしろ暑くなってくる。体って不思議だ。そんな心地の良い空間を壊したのは家の鍵が開く音。ガチャガチャッと雑に開けるこの音は紛れもなく父親のもの。あまり今は会いたくない存在。

「ただいま」

 銀縁の眼鏡がその冷徹な目をより一層強調させる。しまった、俺の話をする前に帰ってきてしまった。父さんは祖父の話も信じようとはしなかった。そもそも文系の僕は理数系の頭固い父親なんかと話が合うわけがないのだ。そんなの、分かりきったことだ。こっちが譲歩したってあっちがひとつも歩み寄ろうとしないんだから、そんなの話し合いが行える訳がない。一気にふわふわとしていたリビングに緊張が走る。

「晩御飯は?」

「あー……あまり胃の調子が良くないから要らないな、すまん」

 母さんがどんなに頑張って夕飯の支度をしてもこれである。そんな父さんと昔はかなり衝突していたが、今は反抗するだけ無駄だと分かったので口答えはしないようにしている。本当に、気が合わない。反抗期のそれではなく、心の底からの嫌悪。話したくもない。早くこの空間から逃げ出したくて、俺はご飯を掻き込む。

「ごちそうさまでしたッ」

 声に不快感が出てしまう辺りまだまだ子供だな、と自分でも思う。けれども仕方の無いことだ。嫌なもんは嫌なんだよ。さっさと食器を洗って自室に戻ろうとする。

「あれ、兄ちゃん、話はしなくていいの?」

 おい馬鹿馬鹿馬鹿、今それを言うか? 話したところで頭が岩石みたいなこの人には信じてもらえねぇよ。会話が成り立たねぇんだよ!

「話ってなんだ」

 ああもうほら、食いついちゃったじゃんか! 絶対話したく無かったのに。これはもうはぐらかして自室に逃げようか。どうやってはぐらかす? 母さんとばあちゃんが困ってんだろ、さっさと回避しろよ俺……。頭のなかでぐるぐる、その間二秒程。頭が働かない、良い回答が浮かばない。ええいッ、もうどうとでもなれ!

「なんでもない、父さんには関係の無い話だ」

 腹の奥でドロドロとしたどす黒いものがもやもやと動いている気がする。俺の中で何かが成長しているかのような。治まってきていた頭痛がまた……それどころか耳鳴りまでするってんだ。父親という名の負荷が俺にかかり、身体が悲鳴を、逃げろと警報を鳴らす。名付けるならば『父親注意報』ってとこか。

「おい、なんだその態度は!」

 あーあー、怒ってるよ。怒っている筈の父さんの顔がぐにゃり、と歪み、視界の外側からどんどん暗くなっていく。――そこで俺の意識は途絶えたのだった。

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