言攫ノ雨

東雲 彼方

一 名前を奪われた日


 信号待ちの交差点、ザーッとバケツを引っくり返したような雨音に車の声は掻き消される。勿論それは俺の傘とて同じ事で、大きな黒の無地という何の面白味も無いこの傘に大粒の雨はボツボツと落ちて俺の出したい言葉さえも奪ってしまうのだ。ここ数日の酷暑とは打って変わって一気に気温が下がったことに身体が悲鳴を上げていた。低気圧による偏頭痛が身体を蝕む。鉄パイプを刺され、且つそれを上から金槌で叩かれるような鈍痛が頭に響くのだ。この痛みが紡ぎだそうとしていた言葉たちでさえも奪ってゆき、何も考えられなくなる。何も考えられないし、何も出来ない。そんな気にさせる。本当に言いたかったことを忘れてしまったような気がする。信号の赤が濡れたアスファルトにぼうっと反射しているのも不安を掻き立てるには十分だった。何か嫌な予感がする。しかしその何かは分からない。青に変わってもその漠然とした不安は俺の頭から離れなかった。家に帰るまでも。傘を差していたにも関わらず、酷く濡れた肩から体温が奪われていく。それでも俺は帰ることを優先させた――これが間違いだった。

 俺は、俺は……



 自分が自分であるために必要な言ノ葉を忘れたのだ。




 ***


 家に着く。ギィッと音を立てて立て付けの悪い錆びた小さな門を開けると玄関まではあと数歩。薄暗い空の下、びしょ濡れの傘を畳む。

「ただいま」

 自分の低い声が思っていたよりも響いたことに驚く。そういえば、今日は皆出掛けていたんだったか。よくは覚えていないけれど、そうだったのかもしれない。しかし、祖母まで居ないのは珍しい。いつもはこの時間には家に居るのだけれど……。

「――、帰ってきたんなら声を掛けなさいよ」

「あれ、ばあちゃん居たのか。ごめん、居ないと思ってた」

「さっきから呼んでたのに気付ないんだもの。何回も何回も呼んでもちっとも返事してくれないんだから、今日は帰りが遅いのかと思ったよ。何度名前を呼んでも返事が無いから怖くてここまで確認しに来ちゃったじゃない。ほら、とりあえずそこでぼーっとしてないで着替えておいで、濡れたでしょう」

 確かに思っていたよりも濡れている。ところで、そんなに祖母が言うほど俺は呼ばれていたのだろうか。そんな声は聞こえなかったと思うのだが。あれ、そもそも俺の名前って……なんだったっけか。あれ、嘘だろ、認知症じゃあるまいし、何故思い出せない? Yシャツが張り付くほどに濡れた肩から体温はどんどん奪われて、背筋がゾッとする。寒い寒い、怖い。何だ、この感覚は。知っているはずなのに、知らない。名前が、思い出せない。

「ば、ばあちゃん……俺の名前って、何だっけ……」

「何言ってんの……ってもしかして、言攫ことさらいの雨に濡れたんじゃないでしょうね……?!」

 言攫の雨……幼い頃に祖母から聞いたことがある。どんなものだったかは忘れたが、恐ろしいものであったとは記憶している。何だったか、奪われるんだよな。

「『言攫の雨』は貴方のお祖父ちゃんが犠牲になったものよ。話したのは幼い頃だったからもう覚えていないのも無理はないけれど……もう一度ちゃんと話そうか」

 そう言うと、なんだか幼い頃もこうして雨の日に語られたような気がするが、また同じように俺に伝えてくれた。


 『言攫の雨』はね、その人がその人である為に必要な言葉を雨とともに流してしまうの。昔からこの地域でよく起こるのよ、名前を失くして探しに行ってしまって帰らなくなる人がね。貴方のお祖父ちゃんもこれの被害者で、ある日突然「名前が分からなくなった」と言い出して。この時はまだちょっとボケちゃったのかな、くらいにしか思ってなかった。でもそうじゃなくて。ある日あの人は「俺の名前を探しに行く、手掛かりがあるんだ」と言って家から出て行ってしまったの。けれどそれっきりあの人が帰ってくる事は無かった。雨の日も晴れの日も風の強い日も、あの人が帰ってくるのを待ったけれど、帰ってくる事は無かった。数年後に山奥で遺体が見付かっただけだったの。もう既に遺体は白骨化が進んでいて、死後からかなり時間が経過していた。霧が隠していたのか、発見が遅れたらしくてね。最後に近くを歩いているのを見たって人は、「名前を探しに行くんだ」と言って山の中に入っていったって言うの。結局あの人が名前を見つけられたかは分からない。だからこそ、私はもっとあの人の話を聞いておけば良かったと思ってね。


「もう家族を犠牲になんかしたくないの。あんたが探しに行くっていうなら止めやしないけど、危険なことになる前に一回帰ってくるんだよ、いいね」

 そうだったのか……話には聞いていたが、突然蒸発して帰ってこなくなった祖父がいると。俺と同じだったのか。今でも信じがたい事だけれど、話だけ聞いていると状況が同じように思えてくる。血筋なのか、はたまたこの地方特有のものなのか、本当のことは分からない。けれど祖父が今の俺の様に名前を失くして探しに家を出たというのは事実。だからこそ、信じないというわけにはいかなかった。それに、ここまで話していても自分の名前は一向に出てこない。その時点で大分異常だろう。自分の名前を忘れてしまうなんて……。

「安心してよ、俺だってまだ死にたくないし、危険な事はしないよ。とりあえず母さんにどうやって話そうか……」

「帰ってきてから私の方から話してみようかな。とりあえず制服を掛けてきなさい」

「ありがとう」

 俺は階段を上って自室に向かう。キィ、というドアの音も、入ったときの自分の部屋の臭いも変わらないというのに、俺だけが変わってしまった。俺の名前だけが何処かに行ってしまった。俺の名前は何処だ。本当に、心当たりが無いのだ。もしかしたら単純に今体調が悪くてそんな基本的なことも思い出せない程に身体が悲鳴を上げているのかもしれないし、まだあの雨が原因かどうかなんて分かりゃしないんだ。信じなくは無いけど、自分がそうだとはまだ信じない、信じたくない。だから今日は出来る限り普通に過ごそう。それが一番だ。まずは着替えて、コーヒーでも飲んで温まろう。

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