17 君のためなら
どっしりと構えた赤レンガの頂上には白雪が降り積もっていました。皮膚を切り刻む刃物から身を守るように、分厚いコートやマフラーを何枚も重ねて、縮こまります。私の右を歩く彼女は平然そうな顔をしていますが、よく見れば体が微かに震えていました。苛酷な寒冷に怯えているのでしょうか。それとも、武者震い、でしょうか。
私たちのほかに、受験会場までの歩道には黒い制服で身を包んだ男子生徒が数多くいました。飄々と降り注ぐ粉雪を背中につけて、きらきらと輝かせています。私はくるくると周囲を見回しました。商店街が右側にある車道の向こうに形成されており、廉価そうなレストランが並んでいます。三階から引っ越したあとは節約をしなければいけませんので、入学後に利用してもよさそうです。
「緊張しないんだ」
ふいに話し掛けられて、見上げた先には彼女の苦笑い。私は慌てて「いやいや」と両手を振って否定しましたが、彼女は気にする様子でもなく、ただくすりと小さな笑い声をこぼしました。
「ちょっとだけ、手を繋いでくれる?」
返答の間もくれず、右手を彼女のポケットの中に突っ込まれます。相変わらずの黒いオーバーコート、凍てついた風に攫われてしまいそうな薄さ。なのに、私より少しだけ大きな手は、彼女より少しだけ小さな私の手を融かしていきます。指を精一杯動かして柔らかな熱に絡めても、まるごと包み込まれず、こぼれる部分が出てきてしまいます。もどかしいです。彼女の手がもう少し大きければ、もしくは私の手がもう少し小さければ、きっと肌と肌の触れる面積が増えるでしょう。
「ドキドキする」
私は俯いて、誰にも聞こえないように言いました。
「そう」
雪の絨毯に足跡をつけながら、いつもの明確な、しかし優しくてたまらない声音が耳に降り掛かります。
秒針が十二時を指した瞬間、試験終了の合図が出ました。誰一人話しませんし、動きません。一体どうして、会場がそわそわしていると感じられるのでしょうか。
解散の時刻となり、ぞろぞろと生徒が部屋を出ていきました。やはり誰も会話を交わしません。周囲の非日常感に戸惑いを覚えつつ、私も黒い制服の群れに従って校門に向かいます。門の側で、先に到着した彼女を見つけました。微笑み掛けると、彼女は控えめな笑みを私に返します。
どうだった? と、自然に口を開こうとしましたが、すぐにやめました。今の彼女は敏感です。受験のことは触れない方が正解でしょう。
私たちは居心地よい沈黙に浸って、肩を並べながら駅にゆっくりと歩いていきます。もし大学生になったら、毎日毎日、一緒にこの道を通るかもしれません。きっと他愛のないおしゃべりをして、幸せな日々を送っているでしょう。合格さえすれば、何もかもがうまくいくはずです。
幸せが失われることはない。誰よりも愛してくれる彼女とならば、私は永遠に幸せでいられるかもしれない。
そんな期待で胸を躍らせる私ですが、突然、彼女はぽつりと質問を投げ掛けてきました。
「落ちたら、別れる?」
雷が心臓に直撃して、全身が痺れます。
私は突っ立っていました。何歩か先で、足を止めた彼女が私の瞳をまっすぐ見つめています。冷徹な無表情でした。何が彼女をそんな顔にさせたのですか。私は何を間違えたのですか。言葉の冷たさは、まるで釘のようでした。
「別れないよ」
引き攣った顔の筋肉を押し上げて粗暴に返答をしましたが、彼女は次の質問を繰り出しました。
「じゃあ、一緒に落ちてくれる?」
自嘲するときだけに現れる痛ましい笑顔を綻ばせ、ゆっくりと、目元に透明の液体が浮かんできました。強い風が吹きます。彼女の薄っぺらなオーバーコートがひらひらと舞い上がり、頼りない制服を纏ったか細い身体が、台風に揺るがされる若い枝のように掻っ攫われそうになります。風は一粒の涙をもらって、薄汚い雪水へ無情に突きつけました。元通りになった黒いコート、凛とした立ち姿。高校でも優秀と名高いのに、自分を嘲笑うことでしか優越感を得られない。
ああ、やっぱりこの子は可憐だ。
私は道路の真ん中にいるのにも関わらず、彼女の腕に手を伸ばしました。当然彼女は後退しますが、迷いなく掴みます。布越しに接触する体温。黒砂糖を噛み締めたときの、砂糖がざらざら転がる満足感、体にふんわり溶け込む甘さ、そして消え去ることのない苦い後味。一身に受けて、私は幸せを実感するのです。
「それで別れないなら、私も落ちるよ」
腕をしばらく、彼女は耐え難そうに注目していました。しかし、やがてその視線は私に戻り、また困った笑みに切り替わります。
「ごめん、意地悪な質問をした。こんなんじゃ、家族と私のどっちを助ける? とか、私のことが好きなら人を殺せる? みたいなものだな」
「家族と私のどっちを助ける?」
すぐさまに先程の仕返しをしたら、彼女は目を見開きました。ぷいと顔を逸らして、そのまま思考に耽ります。まさか真剣に考え始めるとは思わず、冗談だと説明しようとしましたが、彼女は歩き出したのと同時に答えをくれました。
「君を助けるよ。当たり前じゃん」
「当たり前と言う割には、答えるのに時間が掛かったけど?」
にこやかな笑顔でぽんぽんと彼女の腕を叩いてからかってみました。しかし、彼女は至って真面目な回答です。
「君には、家族を大事にしないと思われるのがちょっと怖かった。今更かな」
そんな彼女の言葉に、胸がドキリとしました。軽い口調で聞いた自分が恥ずかしくなります。そうです、たとえ落ち込んでいるとしても、彼女はさらりとこういうことを言ってのける人でした。胸の中がポカポカと温かくなり、ぎゅっと腕を掴む手に力を込めてしまいます。
彼女は私の手を解きませんでした。しばらく黙って歩を進めます。粉雪が、不規則的な曲線を描いて舞い落ちてきます。翼の灯る妖精が踊っているみたいです。
「綺麗だね」
私が白銀の空を見上げて笑うと、握り締めた腕が手から離れました。代わりに、指の隙間に彼女の指を通され、朝と同じように黒いポケットの中に入れられました。じんわりと体温が染み込んで、小刻みな痛みが手の甲に走ります。硬く冷たい粘土が熱を浴びて、柔らかさを取り戻していくようです。
駅が視界に入ったのと同時に、彼女は口を開きました。
「君のためなら人も殺せる」
物騒な言葉を受けて、私は再び顔を上げました。
目と目が合う。
背筋がひんやりと風に撫ぜられました。何秒か、真剣な眼差しで瞳を射抜かれます。幸い、彼女は珍しくふやけた笑顔になり、
「冗談だよ」
と言って、瞳の先を駅の方に向けました。
真に受けて損しました。やはり真剣に冗談を言われるのは反応に困ります。
合格発表日まであっという間でした。一緒に結果を見に来ることを頑なに拒否されましたので、今日は一人で十五分ほどの電車に乗ってT大に向かいます。
雲一つない初春の晴天に赤茶の建物がよく映え、黒い制服とカジュアルな洋服が次々と門の側を通り過ぎていました。前方から陽光が眩しく差して、生え始めたばかりの葉っぱを若緑色に光らせています。甘くも苦くもない、爽やかな空気。春の匂いです。
校門から一転して、掲示板の周囲は花火大会でも開催しているかの如く、黒い頭がうじゃうじゃと蠢いています。人群れを掻き分けて、私はようやく白い張り紙にたどり着きました。たまたま見上げた場所に自分の受験番号が書かれてあり、助かります。早速混雑から離れて、静かな場所で携帯にメッセージを打ち込みました。
『合格したよ』
これ以上書くのは憚られますので、送信ボタンを押しました。そして、駅に向かって身を翻しました。
突然、側から大きな泣き声が無遠慮に耳に入ります。振り向くと、一人の女子生徒を抱き締めながら、その子の母親が泣き崩れていました。父親は重たい顔で二人を注視しています。女子生徒はひたすらに「ごめんなさい」と繰り返していました。
反対に、彼らの側を通り過ぎていったグループはお祝いのケーキを注文しているところです。学ランを着た男子生徒は「大げさだ」と言って拒否していますが、心底幸せそうな表情を浮かべています。
この光景を目にした私は、はっとしました。空間を取り囲む喧騒は決して受験生のみが起こしたものではありません。見渡せば、笑顔も泣き顔も全てが共有されて、全てが輝いています。始めからそこにあるのに、私はあえて見えない振りをしていたのでしょう。
光に目を当て続けることはできませんでした。受験戦争に敗れた人々でさえ、美しい光輝を放っています。対比して、自分は到底空っぽです。
早く彼女に会って、満たされない感覚を忘れたくなります。
蕾の芽吹く桜並木を過ぎ去り、私はT大から青いビルの下に戻りました。無邪気なほどに真っ青な空。まだ肌寒い季節ではありますが、温暖な風景から春の足音が聞こえてきます。
カードをセンサーに当てて、ロビーに入りました。大理石調の床を軽やかな足取りで突き進むと、整然と並ぶソファが目に入ります。私は急いで足を止めました。
ここに最もいてはならない人が、まさか、見えてしまうなど。
「お久しぶりです」
私は笑って、女にお辞儀をしました。私は、笑顔が得意です。笑顔とは、私はあなたを害するものではありません、と伝えるための動作です。
「ええ」
女もぐしゃりと微笑みました。瞬時に空気が淀み、うまく息が吸えなくなります。私は気まずい距離が苦手です。笑顔でごまかすしか潜り抜ける手段がありません。
「何か用事があるのですか?」
「あ、いえ。合格したと聞いて、お祝いを渡そうと」
言われて、ソファには小さなビニール袋が置かれていることに気づきました。女はそれを拾い上げ、私に手渡します。いきなりすぎる来訪に動揺したまま、白い袋を受け取りました。ソファにはバッグのほかに荷物は一切なく、本当にこれだけをしに来たようです。
「ありがとうございます」
礼をして、私はさっさと三階に上がろうとエレベーターに体を向けました。しかし、女は私の手を掴みました。生温く細かい凹凸のある感触が手から全身に伝わり、胃から嘔吐感が溢れ返ります。私は反射的に腕を引っ込めました。
「失礼します」
返答の余地を残さずエレベーターホールに駆け込みました。パタンと閉まったガラス扉から、ぽつんと無力に立ったままの女が見えます。早くこの場から去ってほしいと願いました。または、早くエレベーターに到着してほしい。精一杯な冷静さを装っているうちに、女は諦めたのか、ビルの入り口に向かって歩き出しました。
合否関係なく、私に会いに来るつもりだったのでしょう。彼らの住んでいる場所からここに来るのに、一時間以上は掛かるのですから。
やっと三階に着いたとき、思わずため息が出ました。長年ここで生活してきましたので、嫌でもこの場所が落ち着きます。窓の側に配置されているソファにぽふっと横たわり、袋の中身を取り出しました。典型的なお土産ばかり。そして、よく見るアルバム帳一つ。ページを開きます。
中に収められているのは、チョコくんの写真でした。
寝顔、食べている姿、遊んでいる様子。茶色い小犬の何気ない日常を切り取った数ページ。ボールを転がして、おいしそうにご褒美を食べて、幸せそうに人間の膝に乗って寝ている。昔はモカちゃんのものと並んでいた犬小屋。私が作ってあげていたレシピ。きっと今はKが作っているのでしょう。
彼らの暮らしからは想像できない、贅沢なおやつを食べている写真もあります。日付は、一昨年の秋です。彼女を傷つけるための資金がこんな形で小犬の口に収まるのは皮肉な話で、苦笑することが許されるべきかすら分かりません。
音を立てずに、アルバムを閉じました。私は、ぼやけた世界にたった一人。昼下がりの窓を通って、陽光が燦々と一人っきりのリビングを照りつけています。
「永遠があったらいいのにね」
独り言が虚しく転がり落ちました。
私は信じたいです。彼女はずっとずっと一緒にいてくれなければなりません。決して私たちは離れることがありません。決して愛に終わりは訪れません。
しかし、あの頃も全てを信じていたのです。今日、届かない幸せをアルバム越しに覗くとは思いもしなかったのです。
私は何らかの形で証明したい。今の彼女なら、何があっても私を愛してくれるのだと、確信を持ちたい。だって寂しい。一人は寂しい。彼女といると寂しくなくなる。だから幸せ。すごく、すごく。蕩けた夢の中にいるように、日向ぼっこをしているように、夢うつつで愛されることができて、寂しさを忘れ去ることができる。
ソファに頬をくっつけて、目を閉じました。二匹の小犬。モカちゃんとチョコくん。お母さん、お父さん、弟。悪夢は怖いです。しかし、幸せな過去の夢こそ何よりも恐ろしくて、見たくもありません。
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