18 先輩
彼女も無事合格し、私たちはT大の新入生になりました。
葉桜の季節。彼女と共にエレベーターに乗って、新居のビルを出ました。春風は彼女の黒いオーバーコートを舞わせながら、下にあるジーンズを覗かせます。私は薄いコートの裾をぎゅっと掴み、ゆっくりと駅へ歩いていきます。彼女は歩くのが遅めです。一人でいるときはテキパキと動いていた印象があるのですが、わざと速度を落としているのでしょうか。
となりの彼女を見上げました。空気の流れに沿って、短めな黒髪が爽やかに揺れています。本当に夢の同棲生活が叶っている、と実感しました。
一緒に暮らし始めたばかりですが、漫画から飛び出たような日々です。昨晩、コンビニで買った一本のコーラを分けて飲みながら、これからの家計について確認しました。ペットボトル入りのコーラなんて、生まれて一度も買ったことがありませんでした。もしこれで毎日の放課後一緒に帰れるとしたら、まさに理想が現実になったのも同然です。
「サークルはどうする? 私は今日テニスを見てくるの」
試しに話を振ってみました。もしそれぞれ違ったサークルに入れば、帰る時間もバラバラになります。それをお互い念頭に置いていましたので、新歓のときからあえて口にしない話題でした。
彼女は私の方に振り向きました。眉一つ動かさずに答えます。
「テニスって、チャラそうな感じがするけど」
「行ってみないと分からないのよ? 部活だと、本気すぎてついていけなさそうだし」
「そう」
興味なさそうな返事を聞いて、不安が心を過りました。私はもっとリアクションがほしかったです。できれば、テニスサークルに入るのを頑なに拒むような、激しい反応が。私と一緒に帰りたい、という言葉が。
しかし、彼女の許可を待っていると、案の定頷かれてしまいました。
「分かった。だったら、帰りは何時くらいになる?」
「迎えに来てくれるの?」
「うん。だから時間が知りたい」
少なくとも今日は私と帰りたい模様です。
どうしましょう。はっきり言ってテニスサークルはどうでもいいです。私は彼女に引き止めてほしかっただけです。彼女に、私がどこかに行ってしまわないように手綱を握っていてほしかっただけ。
ずるい方法を思いつきました。するりとその腕の中から逃げてしまう危うさを知らせれば、私を手元に置いておく気になるかもしれません。
「六時くらい。そしたら、場所を連絡するから」
嘘をごまかすために、笑顔を作りました。彼女はいつも本物の微笑みを私にくれるのに、こうして作り笑いをするのは私の悪い癖です。しかし、やめられないのが厄介なところです。
彼女に連絡をするつもりはありません。これは一種の裏切りでしょう。それでも、ほしいものを手に入れるためならば躊躇なく彼女を傷つけることができます。そんな心に後ろめたさを覚えながら、私は彼女が不安に思ってくれることに期待しました。まるで、かつて歩道橋の下でキスしている場面を見せつけたときのように。
午後、私は一人でテニスサークルの活動場所に足を運びました。新歓のチャンスを逃れてしまったので、今回の来訪は突然です。ドアを開けると、休憩時間なのか、先輩たちはダラダラと会話していました。
「すみません、ここはテニスサークルで合っていますか?」
知らない他人の間に割り込むときも、笑顔が大事です。私は薄っぺらい笑みを顔に張りつけたまま、部屋に入っていきました。
すぐに先輩たちと打ち解けることができました。彼らによると、今年に加わったメンバーはテニスの経験者が少ないようです。中学時代に大会優勝経験がある私は大歓迎されて、このままサークルに入ることを強く勧められました。
「まずは体験したいと思います」
笑顔を崩さず、正式に加入することを控えめに断りました。
先輩たちにサークルの活動内容を一通り教えてもらったあと、テニスコートで遊んでみないかと誘われたため、春の柔らかな陽光の下に出掛けます。整頓された平らな地面を久々に踏み締めながら、真ん中のコートへ歩いていきました。既に何人かのサークルメンバーが観客として、仲よく肩を並べて座っていました。ある男性の先輩からラケットを渡されましたので、お礼を述べて受け取ります。女性からの人気が高そうな、清潔感のある見た目です。
その先輩は当たり障りのない微笑を私に向けました。
「ペアをやらせてもらうことになったから、よろしくね」
「久しぶりなので上手にできないかもしれませんが、よろしくお願いします」
私も当たり障りのない返答をしました。
対戦が始まります。さすがにサークルで長くやってきただけあって、先輩も対戦相手も技術は一流でした。それに対して、私は中学時代の経験があるとはいえ、最後にラケットを握った記憶は遥か昔に遡ります。高校生になったとたん飽きて続けなくなったのですから、恐らく前回に遊んだのは中学の引退試合でしょう。
ボールを追い掛けてラケットを振るうちに、かつての爽やかな感覚が舞い戻ってきました。球体は風を切り、白いラインの端へ直進する。すかさず地面に食いつくように足を踏ん張り、ラケット越しに擲つ。皮膚から滲み出る汗が心地よくて、不覚にも、彼女に出会わなかった頃の自分を思い出しました。
ギリギリで点数が相手陣営を上回り、こちら側の勝利となりました。先輩はこんがりと焼けた分厚いハムのような手を私に差し出して、ハイタッチを求めてきました。肌と肌が一瞬だけ触れ、汗でビショビショに蒸れた硬い感触がしました。そして、生々しくしょっぱい匂いが鼻につきます。
観客席から試合を見ていた人たちは私に駆けつけて、興奮した声で、
「すごかった! 天才だと思った!」
と大げさな称賛を浴びせてきました。サークルメンバーを増やしたいのでしょう。私はどこまでもへりくだった態度を変えません。
「いえいえ、ペアの先輩がすごいだけですから」
そう言って、こちらに歩み寄った先輩に笑い掛けました。
「いやいや、俺は何もしていないよ」
彼は照れ臭そうに頭を掻きながら否定します。
その後何戦も試合をしたあと、私たちは元いた場所に戻ろうとしました。空は既に赤みを帯び、遠方に広がる深海色が徐々に浸透してきます。淡いオレンジの雲が一つきり漂う姿を眺めながら、疲労した身体をグループの中で引きずり動かすことに一種の充実感を覚えました。砂浜から引いていく波よりも浅く表面的な感覚だけれども、私には人並みの中身があるのだと錯覚するには十分でした。
部屋の扉をがらんと開けて、中で休憩を取ります。時計は五時半を示していました。椅子に腰掛けたメンバーたちは、まるで私の加入が正式に決まったかのように、親しい口調で日常的なことに関しても聞いてきました。
「学部はどこ?」
「法学です」
「そうなんだ。あいつも法学部だよ」
メンバーが指差した先は、試合で私とペアを組んだ男性先輩でした。にこにこした顔で、彼は頷きます。
「学会とかも参加したりしてる有望株だからね」
「いやあ、そんなんじゃないよ」
「またまた。教授には絶賛されているからね、彼」
周りのにやけた顔は、おすすめ商品を押しつけてくるセールスマンのものです。
こんな調子で、携帯を弄りながらメンバーたちはおしゃべりを楽しんでいました。私も持ち前の笑顔を全面に出して、無難な返事を選び続けました。そのうち、時計の時針が六を越えます。周りに悟られないようちらちら携帯に目を配ると、突然、携帯が振動し出します。マナーモードに設定しておいたそれを、すぐさまバッグに放り込みました。軽薄な言葉の応酬を重ねていても、脳内では彼女の到来に対する焦りと期待が増大するばかりです。
しばらくして、背後からがらんと扉の開く音がしました。振り向けば、無愛想な視線を私に送りつけながら、彼女は見慣れた姿で物も言わずに立っていました。すらりとした女の子らしい身体を満遍なく包み隠すコート、黒一色のバッグ。不気味なほどに単調な身なりは、華やかな盛り上がりを見せたこの場とは極めて不釣り合いでした。
余計なことを話すつもりがないのでしょうか。彼女は口を開きません。ただ心底くだらなそうな顔で、じっと私を見つめているだけです。
「あ、もうこんな時間」
先に声を響かせたのは私の方でした。
「ごめんなさい。同居人を待たせていて、もう帰らないといけないんです。また来ますね」
立ち上がって、彼女の元に戻っていきます。呆気に取られたメンバーたちに、ぺこりと一礼をしました。
「ありがとうございました」
扉から出た瞬間、手の甲をひどく握り潰され、強引に校門へ引っ張られていきました。彼女は無言を徹していました。尋常でなく速く歩く彼女に、私は質問を投げ掛けてみます。
「怒っているの?」
一瞥さえくれません。黒いコートの揺れるペースも変化しません。彼女の態度は氷のようです。明らかに、私が約束を破ったことに怒っています。
私はゾクゾクしました。普段感情を露わにしない彼女が私を怒って連れ戻す。この事実を通して、私はまた彼女に愛されていると実感できたのです。
無理やり引っ張られた腕の痛覚が、私にはたまらなく心地よいものとして感じられました。
サークルを体験すると言ってしまったため、私はあれからも何回かテニスサークルに行きました。真面目にテニスしているときもあれば、どうでもよい会話を延々と続けるときもあります。例えば、女性のサークルメンバーに服装を褒められた日は、私もその人のネックレスを褒め返すと、ひたすらファッションの話題を振られました。個人的にはちゃんとスポーツがしたかったのですが、あと何日かの辛抱なので、笑って会話に乗りました。
晴れ渡った春のある日、活動部屋を覗くと、前にペアを組んだ男性先輩しかいませんでした。
「ああ。今日はたまたま皆用事があって、まだいないんだ」
彼は清涼感を漂わせる、好青年然とした格好でパソコンを打っていました。
「そうなんですね。活動はなくなったのでしょうか?」
「いや、待てば来ると思うよ」
私は彼から微妙に離れた場所に腰を下ろしました。勝手に部屋から出るのは変なので、私も彼にならってパソコンを取り出し、講義の内容を整理しました。
せわしないタイピング音以外、部屋は静寂に包まれていました。時々カチカチとマウスを押す音も出てきます。窮屈でしたが、向こうは作業が一段落したのか、
「終わったー」
と大きな欠伸をしました。
「お疲れ様です」
「いやあ、ゼミが厳しくてな。君も法学部だよね?」
「はい」
私は頷きました。志望理由は、ただ彼女と同じ学部に入りたかったからですが。
「だったらゼミ選びは気をつけてね。厳しいところはためにはなるけど、色々きついからさ」
「そうなんですね」
「うん。何か困ることがあったら、遠慮しないで教えてね」
彼はまさに一般に言う理想的な先輩でした。上級生ならではの情報をいっぱいくれたあと、私たちはのんびりと雑談をしました。サークルのことはもちろん、校内の有名人、洋楽、映画。話のジャンルは多岐にわたります。
そろそろ日が沈む頃、話せることもなくなりました。淡々と秒針が進み、空気も気まずくなっていきます。まだ他のメンバーがやってこないことに心がそわそわしてきたら、ふいに、先輩は本意が窺えない神妙な顔つきで聞いてきました。
「そういえば、彼氏はいないの?」
瞬時に心が鋭敏になりました。
思えば、始めから変でした。メッセージではメンバーが遅れることを伝えられていませんし、いくら何でも来るのが遅すぎます。そして、先輩の表情。私の内を探る瞳。見覚えのある顔色。私を細やかに見ているようで、本当は彼自身をよく見せることに一生懸命になっています。すぐに、恍惚とした幼い顔が脳裏に浮かびました。彼女と私がレールを踏み外して、従来の関係が崩れ始めた日のことです。先輩の輪郭は丸みを帯びた彼女のものと比べ遥かに角ばっていますが、本質的には同じものなのです。
私はようやく、仕組まれていたのだと気がつきました。
「やっぱりいるよな。だって、ほら、その、すごくかわいいし」
照れているのか、彼は窓の外に目を向けます。張り詰めた最後の陽光は、ぎらぎらと輝きを窓いっぱいに這い寄らせていました。微妙な空気に気を配ることなく、秒針の音が過ぎていきます。残照に照らされて火照っている硬い頬。思考が慌ただしく動き出しました。
そもそも私はテニスサークルに長居するつもりはありませんでした。ましてや、先輩と必要以上に関わる必要性は全くありません。彼は確かに万人受けするような好青年です。清潔感のある身だしなみ、親近感を覚える話し方、しっかり者の性格。それらに加えてスポーツもできて高学歴。接したばかりの私でも、彼が好条件を一身に集めていることが分かります。
しかし、私がほしいのは恋ではありませんでした。恋は、基本的欲求の延長線上にある小さな点です。私は欲張りだから、点をたどってたどってたどり着いた根源がほしい。心を埋めるのも動かすのも、きっとそれです。心が動くことは、いずれ傷つくことを意味します。それでも愛を求めてしまうのは人の性でしょうか?
私は試しに、かつて幼い横顔をひどく苦しめた質問をあえて口にしました。
「先輩。もし私に彼氏がいたら、どうします?」
くるりと回って、窓に背中を当てました。私は意地悪な微笑みを浮かべたと思います。
先輩の口は半開き状態でした。何かを言おうとしては、取りやめます。彼の上から下までざっと観察すると、Tシャツの裾が握られ、スニーカーが微かに動かされているのが分かります。彼の拳が緩んだ頃、周囲と摩擦を起こさないためにあるような声音が弱々しく吐き出されました。
「どうするって。残念だな、と思うよ。まあ、分かっていたことだけどね」
締まりのない苦笑で妥協するのは、想像通りの反応でした。私は微笑を崩さないまま、冷えた窓枠に指を這わせて、とるべき行動を考えます。
彼の告白を拒絶し、サークルを抜けるのは最も筋道が立っています。私は彼に興味がありませんし、これ以上彼女と共にいられたはずの時間を無駄なことに費やしたくありません。私に対する生温い熱情は、到来しようとする夜の風に容易く吹き飛ばされてしまいそうです。彼はまるごと私を好きにはなれません。彼は裏切り者を愛せるはずがありません。
逆に言えば、たとえ私が裏切り者であったとしても、今のあの人は愛してくれるはずです。だって、彼女は誰よりも私を愛してくれた、大事にしてくれた。私はもう彼女に縋りつくしか道が残されていません。だというのに、彼女がどす黒くて汚い私でも愛してくれる確かな根拠がないのです。
魔が差した、というのでしょうか。私は突然取り憑かれたように心をすり替えました。
「ねぇ、先輩。彼氏なんて、いませんよ」
もしくは、不変の愛が手に入るまで、何度でも繰り返す運命にあったのかもしれません。
言葉を失った男に、とびっきりの笑顔を見せました。
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