16 全部
彼女と出会って三年目の冬になりました。吹き荒れる寒風に乗せられ、真っ白な結晶たちが道路に散らかっていきます。私は小奇麗なブラウスと濃紺のスカートに着替えて、最上階に出向きました。
あそこに近づくだけでも頭痛がしそうですが、幸いモカちゃんがいてくれます。白い小犬がぶんぶんしっぽを振る姿を想像しながら、できるだけ気持ちを落ち着けてドアノブを握りました。
「こんにちは」
「おねえさんこんにちはー!」
後継者くんは既にドアの前で待っていてくれました。優しい子です。そしてまんまるの瞳は愛らしいです。恨むべきは私たちの立場でしょう。それだけで、客観的な長所は全て汚れて見えてしまいます。ううん、きっと私の心が狭いだけです。
しばらく待つと、モカちゃんも玄関に走ってきました。人間のように立った姿勢で、私に抱っこをせがみます。後ろ足に負担が掛かってしまうことを心配して、私は小犬を抱き上げながら話し掛けました。
「モカちゃんは人間じゃないんだから、ずっと立っていちゃダメだよ」
「あなたにうちの犬をとやかく言われる筋合いはありますか?」
ふと小犬から顔を上げると、腕を組んだお義母さんがしかめっ面で立っていました。彼女はゴミを見ています。これほどの嫌悪を一身に浴びる機会はめったにないものです。思わず、出会った頃の彼女に重ねてしまいました。そうしたら、不思議とお義母さんの態度もかわいく見えるようになりました。
モカちゃんのふわふわした毛に手を何度か潜らせてから、お義母さんの後ろを歩いてリビングに向かいました。目の前に広がった空間は、あまりにも記憶と掛け離れていました。真ん中にあった食卓は端に寄せられて、代わりにパステルカラーのおもちゃスペースが設けられています。また、ソファには無造作に高級ブランドの洋服が放置されています。その上に、革バッグがいくつか転がっていました。全く、離婚してから会社が急成長したのですから、甘い蜜が十分に吸えなくて損したものです。
本当は会社なんてなくても、家族とここで生活していたかった。
このリビングを目の当たりにした私を顧みず、小さなおもちゃの車に乗った後継者くんははしゃぎながら横を通っていきます。
「あなた、そこに立っていたら子どもが危ないでしょう? 早くこっちに来てくれません?」
「お言葉に甘えて」
幸い、私は笑顔が得意でした。全くブレないとびっきりのもの一つ贈ると、ぞっとしたようにお義母さんは一歩下がります。
「不気味な子」
小さく呟く声が、しっかりと私の耳に入ってきました。
あの男が家に到着した頃、いよいよ本題を切り出しました。今日この最上階にやってきたのは、学費や引っ越しなどの確認事項について話し合うためです。特に、経済的な理由から奨学金を取りにくいため、あらかじめ渡してもらわなければなりません。
あの男は苦笑いをしながら、私の斜め向かい側に腰を下ろしました。彼のとなり、すなわち私の真正面はお義母さんです。
「大学の学費までは渡しますし、引っ越しの業者も手配します。将来あなたに分け与えられるビルです」
お義母さんは相変わらず簡潔に終わらせようとしました。あちらが少し譲れば揉めることはありませんので、賢明な判断です。
まあ、あちらからすればどうということはない金額ですが。
「ありがとうございます。ご厚意に甘えさせて頂きます」
私は頭を下げて、礼を述べました。こちらだって速やかに事を済ませたいです。
「あと、ピアノは返してもらいます」
「ピアノ、ですか?」
「ピアノは元々こちらの財産ですし、子どもに習わせる予定ですから」
私はあのピアノと過ごした日々を思い返しました。泣いてばかりの私が、気分を落ち着けるためによく弾いたピアノです。小犬たちが去ったあと、心の支えの一つとなっていました。昔の自分ならば、私に譲れと言うのは酷なことでしょう。
しかし、不思議なことに、今の私には強いこだわりがありません。ピアノを持っていかれても、私はきちんと人前に立って、笑顔を作っていけるような気がします。または、心から笑えるかもしれません。
「どうぞ」
反抗するとでも思ったのか、向かい側の二人は驚いた顔をしました。
その後、計算しておいた諸費用を項目ごとに説明してあげると、すんなりと合意に達しました。さっさと席を立って彼らの家から離れようとした私ですが、自分だけの家を与えられることが何を意味しているのか、突然に閃きが舞い降りてきました。
「最後に確認したいのですが」
思い立ったが吉日、ではないけれど、一気に押し寄せた期待を胸に抱いて食卓の方に振り向きました。早くリビングから出ていかない私に対して、お義母さんは苦い顔を呈しています。お構いなしに、私は嬉々として続けました。
「引っ越し先の部屋は自由に運用して大丈夫ですよね?」
「どういうこと?」
「例えば、友達と一緒に住む、とか」
そうなのです。もしあの家が三階と違って完全に私のものであるなら、私は彼女を招き入れて同棲できるのではありませんか!
恋人と同棲するなんて、女の子ならきっと一生に一度は夢見たことがあります。
毎朝彼女を起こして、朝ごはんを作ってあげて、そしたら一緒に学校に行くの。講義が終わればぶらぶらお散歩をして、午後のカフェでスイーツを食べて、帰る前にスーパーに寄って晩ごはんの材料を揃える。そして、夕食は一緒にスープを掻き混ぜながら、学校の出来事を語り合って。なんてできたら、幸せすぎて蒸発しそう!
まるで少女漫画に出てくるような未来図を描いていたら、ため息をつくお義母さんの声が聞こえました。
「私たちとはもう関係がありません。何をしようとあなたの勝手です」
ぱあと顔を綻ばせたのは自覚しています。最上階が彼らの所有物となってから初めて、素直な笑顔を咲かせました。
「ありがとうございます!」
かつてここで暮らしていた頃みたいに、私は玄関へ小走りをしていきました。ぶつかりそうになった後継者くんは慌てふためいて、急停車をします。外に出る前に、
「じゃあね」
とモカちゃんに白い歯を見せて笑いました。クリーム色の小犬はしっぽを振りながら、純粋な瞳で見上げてきます。
心のシャッターを切ってその愛らしい姿を脳に焼きつけたあと、私は音を立てずにドアをゆっくりと閉めていきました。隙間から、車をどこかに置いてきた後継者くんが私に手を振っているのが見えます。
「モカちゃんを大切にしてあげてね」
そうお願いすると、男の子は笑顔で、
「うん」
と大きく頷きました。そんな彼を初めて本心から好きになれた気がして、こちらも自然と口元が緩みました。
カチリと、金属がうまく組み合わさったときの軽い音がして、ドアが閉まります。
一月の仕舞い際、高校最後の登校日が訪れました。
同級生たちは「青春の終わり」と言って惜しむけれど、案外あっけなく、いつも通りに一日を過ごしました。放課後になっても、廊下に人が群がって連絡先を交換しています。私は視線を教室の隅に動かしました。
窓から眩しく差し込む夕日が瞳孔の奥にまで刺さり、彼女の顔が影となって見えません。教室の一角だけが、静かに、夕暮れ時と溶け合わさっていました。きらきらと光の残滓が床に沈んでいきます。
夕日が綺麗だな、と思いました。
鮮明な景色の中で佇むシルエットも綺麗だな、とも思いました。
彼女はカバンを片づけているようです。誰にも声を掛けないし、誰からも声が掛からない。私はドキリとしました。人からの好意を強く求める一方で、人に近づかない彼女の矛盾が、たまらなく愛おしく感じられるのです。
「皆、連絡先を交換しているよ」
近寄ることができるのは私だけです。
「君の連絡先以外はいらないよ」
淡い笑みも私だけに向けられました。橙色の光を頬に浮かべていて、丸みを帯びた顔の輪郭が際立ちます。近づいて初めて、彼女の目にクマができているだけでなく、ひどく泣き腫らしたようにまぶたがぷっくりと赤く膨らんでいることに気づきました。
彼女は可憐です。廊下にいる人たちとは違う意味で、一人の女の子だと思わされます。とんがった外面的な強さとは逆に、心の拠り所が常にふらふらしています。むしろ、弱みがないふうに装っているぶん、本当の彼女に触れた際はその繊細さに驚くことになるでしょう。
彼女の状態が心配になりましたので、私はもう少し彼女といることにしました。椅子を彼女の席に引っ張ってきて、腰掛けます。彼女もまた、整理したカバンを机に置いたまま椅子に座ります。そして、受験勉強で疲れたからか、私といるのにも関わらずうつ伏せになりました。
じんわりと教室が残照で焼けます。古びた掃除用具入れや、無造作に放置された塵だらけの広告にも、夕日の淡い炎が灯ります。廊下は煩わしいのに、なぜか、規律正しくリズムを刻む時計の音まで聞こえてきました。
「もし私がどんな大学にも入れないような落ちこぼれで、世界で一番優秀じゃない人間でも、私を好きでいられる?」
彼女はうつ伏せの体勢で、感情のない声で、淡々と問い掛けてきました。
私にとって、彼女の言う優秀さは何の意味をも成しません。しかし、彼女は異様に執着します。彼女の家族は優秀な彼女しか愛さないのでしょうか。だからひたすらに渇いているのでしょうか。
「いつもそんなことで悩んでいるところも、私は全部大好きだよ」
光の粒子が舞い降りる彼女の黒髪に手を置きました。
「全部?」
彼女は合格の通知を聞いたかのように、勢いよく顔を上げて、私を覗き込みました。その揺れる瞳は飴を奪われた子どものものです。満たされない感覚に耐えるのに必死で、言葉の続きを切望しています。
受験で荒んだ心をどうにか立て直すために、私は彼女の望む回答を口にしました。
「そう。あなたが好きなの。いつも頑張っているのを私は知っているよ。頑張りたくないのも知っている。頑張っていても、頑張っていなくても、結果が出ても、出なくても、私は全部大好きだよ」
彼女の肩が震え始めました。突然、最初から赤かった目に涙が溜まって、とめどなく流れていきます。私は戸惑いましたが、すぐに彼女の背中を軽くさすりました。彼女が人にそうしてもらえなかったぶんまで、たっぷりと愛情をあげたくて。思えば、展望台で同じことをしてもらったのは、もうすぐで二年前の出来事となります。
彼女は唇を噛み締め、嗚咽しました。腕で目を覆い隠しています。きっとこんな姿を他人に見られたくないのでしょう。皆と会うのも残り卒業式のみだというのに、かわいいです。どうしようもない強がりな彼女に、思わずほっこりしてしまいました。
「そう」
彼女は努めて冷淡に返事しようとしましたが、荒れた呼吸によって声音が揺すぶられています。私はただただ、彼女の背中をさするのみです。
彼女は疲れたのでしょう。だから、私の回答を聞いて、過剰に反応してしまっているのです。
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