15 カラメル
最後の柵を飛び越えてから、彼女は一層優しくなりました。いえ、甘えてくれるようになった、と言った方が適切かもしれません。
過去であれば、彼女が私に対して何らかの行動をとるのは、決まって獰猛さを覗かせたときでした。例えば、彼女が別れを切り出した日。私たちのファーストキスは冷淡に行われたものです。あれは慈しむための口づけではなく、「君は私の所有物だ」という意思表明でしょう。
しかし、今は時折自分から私を求めてくるようになりました。いつだって私の需要を満たすのを最優先にしていた彼女が、本心から私に触れたいと思ってくれた。この事実は空っぽだった壺にどくどくと爽やかな清水を流し込んでいき、私の毎日に虹を架けてくれました。彼女といるときは、一時的にとはいえ、過去を忘れるほどに幸せになります。要するに、私には周りを見渡す余裕が生まれたのです。
こうして初めて、足繁く私の家に通う彼女の状態が異常だと気づきました。
泊まりに来てくれた日に事情を伝えてもらえなかったのにも関わらず、あれからどんどん私といてくれる回数が増えていきました。とうとう夏になって、私の家で勉強することも、くつろぐことも、触れ合うことも、すっかりと生活サイクルに織り込み済みです。リビングが空っぽではなくなることは嬉しい限りですが、一歩引いて観察してみれば、彼女の様子がおかしいのは一目瞭然でした。
何だか、家に帰ることを嫌がっているようです。
努力家で完璧主義者の彼女はきっと、背中に乗せた期待の重みが並の人間とは桁違いでしょう。幼少時代から押し潰されていたのが性格に表れたと仮定すれば、本人だけでなく、家族からも将来を嘱望されているに違いありません。現に、彼女は未だに私の成績を気にします。それによって辟易されることはないとしても、目標にされているのは確かでした。
そうやって受験のプレッシャーから逃げるように私のところへ来る彼女の態度は、カラメルです。とことん甘くて、ねっとりしていて、熱くて、けれども既に焦げていて苦い。日に日に激しくなっていく彼女の現実逃避をなぜか不安に思う私は、しかし、彼女に打ち明けることがなかなかできませんでした。
リビングが再び空っぽになるのが、怖くて。
八月の下旬、
『今日はそっちで寝ていい?』
というメッセージが唐突に届きました。これは質問ではなく、通知です。彼女は私の答えを見据えて、既にこちら方面の電車に乗っていることでしょう。携帯を閉じます。
到着した頃、玄関に踏み入れたばかりの彼女は早速私をぎゅうっと抱き締めました。服から外の世界の匂いがします。まるで塩と油を振り掛けて炒めたようです。見上げると、凛とした顔は既に疲弊し切っていました。それでも、重圧に打ちのめされた直後は髪を濡らしたときみたいに、脆さが美しさを引き立てています。
「家族には来るって言った?」
胸に顔を強引に当てられた私は確認をしました。彼女は頭を振るだけです。声も発さず、ただ力の全てを私に掛けています。
苦笑しました。
「そんなんじゃ、彼氏でもできたのかって怪しまれちゃうよ。ほら、塾って他校の生徒もいるからね」
「あとで連絡入れる」
「そういう問題じゃないのー。でも連絡は入れてね」
ひょいと体を囲む腕をすり抜けて、私は彼女の頭を軽く撫でてあげました。彼女は笑いました。それは、虚無感を覚えさせるような危うい笑顔でした。
体を流す彼女をソファで待っている間、ずっと胸に抱く違和感に対峙していました。今の生活はまさに理想的な生活です。しかし、どうして胸がムズムズするのでしょう。彼女はこの上なく愛してくれています。だから、私もこの上なく幸せなはずです。
――生きていくとすれば、幸せになりすぎちゃいけない。幸せなときに不幸せになりに行った方がいい。
ふと胸を過る記憶。私自身の言葉が、突然、現在の幸福を引きちぎってボロボロに破いていきます。そうでした、そもそも幸せになっている現在がおかしいのでした。幸せはいつか滅びる。だからこそ大きな幸せを、愛を、避けて生きてきたのではありませんか。
だけれども絶対に彼女を手放すことはできません。私はもう彼女なしでは生きていけないのです。彼女の温度で私はごまかしてこれました。私がなくしたものを埋める温度なんです。過去を独占するあの憎い娘が持っていった記憶の欠片を、代替品として自分の体に埋め込んだのです。煌めくこの日々が破滅したら、私は、また一人になる。絶対に嫌!
永遠がない世界でも、永遠に幸せでいるためにはどうすればいいの?
恐れたゆえに根拠を示さず否定していた考えが再び頭角を現しました。もし彼女と一緒に世界から消えれば、私たちは不幸せにならずに済むのでしょうか。決して彼女が離れるのを耐えることができない私は、そうなる前に幸せな瞬間を最後として留めておくべきではありませんか。そしたら、生きている間私たちはずっと幸せになれます。
ええ、ダメですよね。分かっています。もしこれが最善の方法なら、これほど心が恐れやしません。
ため息をついて天井をぼうと眺めていると、シャワールームから出てきた彼女は、軽々と私を膝の上に乗せました。重いと感じないのでしょうか。これでも身体は成長した大人の女性なのです。
彼女は私の髪に軽く鼻を近づけて、砂糖の詰まったマカロンでも食べたかのような面持ちで呟きました。
「綺麗だね」
キツく抱き締められているためか、またはシャワーの熱が伝わったのか、彼女に触れた部分だけ肌が赤らみ始めました。彼女は、ぼやけた瞳。
これです。いつも彼女はこうして私に寄り掛かろうとするのに、どんな状況に身を置いているのかは私に明かしません。かつては受験の相談もしてくれていたのですが、夏に入ってからはそれさえもなくなりました。あたかも楽しそうな笑顔を作って、私と勉強をするだけです。
私の立場からすれば、現状維持は最善手です。だというのに、客観的な状況を告げる義務感が心の中で大きくなっていきます。
どう自分の心情を伝えればいいのでしょう。顔を仰向けて、真上にある逆さまな瞳をじっと見つめました。恍惚としたそれは、愛情なのか、崇拝なのか、強迫観念なのか。後者でないことを祈りながら、口を開きます。
「太宰治の『人間失格』って読んだことある?」
「一応」
「だったら伝わるかな。めっちゃ失礼なこと言っていい?」
「どうぞ」
「あなた最近、あれの主人公に似ているよ」
インパクトを重視して言葉を選びましたが、あの物語のごく一部のみを指しています。詳しくは語らなくてもいいでしょう。何せ、簡単なことです。どうしてもあなたの溺愛っぷりは現実逃避から来たように見えます。たったそれだけのことです。
「何が言いたいの?」
「本当に失礼だけどあえて言うよ。うちに泊まりに来るのは、薬物を売ってくれってせがむのと同じでしょう?」
私は笑みを顔から剥がしました。何の利益も生じない勧告をするなんて、昔の自分にはあり得ない行為でしょう。
「家族と何かあったみたいだけど、自分をへし折ってでも謝るべきだよ。この際どっちが正しいかは置いといて」
彼女が家族と和解したら、私のもとに来てくれなくなるかもしれないのに。
彼女は大好きな人、恋人、心を開いた人――それらである以前に、一人の人間です。そして私はたった一人だけでいいから、このリビングで佇む自分に寄り添う者にいてほしいのです。
「らしくもない忠告をしちゃったね。何であなたにこんなこと言うのか分からないけれど……」
「私だってできることならどうにかしたいよ」
言い終わらないうちに変貌した声が遮ります。
暴力的に口を閉じさせる、凄まじく冷たい瞳でした。目が合う。骨の芯まで一気に冷めていきます。
彼女はすぐにはっとして、ふやけた作り笑いでごまかそうとしました。
「ごめん、違うんだ。そこまで険悪な訳じゃなくて、ただ受験が近づいているから私も家族も焦っているだけなんだよ。だからここに来るのはただの私のわがままで、それにほら? 君に会いたいし」
腕を強く引っ張られて、ぽふっと顔が彼女のシャツに埋められました。一転して、どこまでも温かい彼女です。私は抵抗する振りをしましたが、ずっと彼女に触れていたい率直な自分はもちろん逃げる訳には行きません。先程の冴えた瞳のイメージがどんどん上書きされていきます。彼女の二面性に気づかない訳ではありませんが、両者を結びつけるのは非常に難しいです。
そして、ごまかされていると知っていてもなお、私は彼女の心に踏み入るのをやめざるを得ませんでした。代わりに、黙って身を預けます。まるで、彼女の私、になったみたいに。
「触ってもいい?」
彼女の声は焦げていて、苦いです。しかし、熱くて甘いです。私に好かれるためではない、背伸びし切れていない少女としての素顔を覗かせています。
腰を握っていた手が、徐々に位置を下にずらしていきました。きっと、ワンピースの裾にまで。その奥にまで。
「質問したいことがあるの」
頭が働いていないからかもしれません。彼女の動きを中断して、口が勝手に動きました。
「あなたは、永遠はあると思う?」
もし、もしあなたが「永遠はあるんだ」と答えてくれれば、私はあなたとずっと幸せに生きていけると信じられるかもしれない。永遠などないという前提さえも覆すように、私に目隠しをして下さい。
私は密かに期待していたと思います。
しかし、同時に私は忘れていました。つき合った日も、別れ話を切り出された日も、彼女は肝心なときに私の求める答えをくれないのです。
「ごめん。今は、よく分からない」
彼女は落ち込んだ顔を覗かせました。その視線は床に注がれます。いえ、床を越えたどこかでしょう。彼女の家なのでしょうか。塾でしょうか。それとも不安定な未来でしょうか。
当たり前です。彼女は私よりも混乱しているのですから。
「大丈夫だよ」
笑いたくもないのに、私はにっと笑って見せました。
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