14 深くへ

 はやる気持ちに任せて、マグカップの袋を抱きながら家まで小走りしてしまいました。冷たい空気が肺に流れ込んで、咳が出そうになりますが、それどころではありません。

 ――突然にごめん。今日、家に泊まってもいい?

 彼女は泊まりに来てくれると言うのです! きっと何かよろしくない事情があるでしょうけれど、私は嬉しいに決まっています。はい、もう、宝くじで一億円が当たったみたい! 神様ありがとう、本当にありがとう! 早速マグカップの出番が来ました。彼女のためにホットココアを入れましょう。この間試着した勢いのまま買った新しいワンピースを着て、シャンプーも変えてみましょう。彼女は気づいてくれるかな? 気づいてほしいな。それで、かわいいね、って言ってくれたら!

 いけません、ついはしゃいでしまいました。彼女は気分が落ち込んでいるかもしれないのに。いきなり電話が掛かってきたということは、家出なのでしょう。冷静沈着な彼女がそうするくらいですから、きっと胸の奥がゴミ屋敷みたいになっていて、私のようなお泊り会気分ではないのでしょう。私もできるだけ気持ちを落ち着けて、彼女に合わせるべきです。

 三階のドアを開けて、真っ暗な玄関に入ります。

「ただいま」

 誰もいませんが、挨拶は幼い頃から続く習慣です。もしかすると、いつか彼女に毎日「おかえりなさい」できるかもしれない、なんて。そんな未来があったら、きっと私は過去を忘れ去るくらいに幸せになっているでしょう。

 新調したセーラー襟つきの白いワンピースを持って、シャワールームへ。上着とズボンを脱いで、洗濯機の中に入れます。鏡に映るのは、僅かに火照っている自分の身体です。私には、素肌を彼女に晒す勇気があるのでしょうか。彼女は本当に私でも大丈夫なのでしょうか。

 今日、踏み越えられるかもしれない。

 首をぶんぶん横に振りました。私が彼女を享受したいからと言って、勝手にこの思いを押しつけてはなりません。彼女はこの手の話をしませんし、私との交わりをよしとしない可能性だってあります。その上、彼女は機嫌が悪いかもしれません。

 でも、私は彼女となら。いつも服越しに伝わっていた温度に直々身体をくっつけて、口数少ない彼女から素敵な言葉をたっぷりと浴びせられるならば。

 これ以上想像してはいけないような気がして、思い切ってまだ温まっていないシャワーを頭に掛けました。突然の来訪に、動揺しすぎたようです。


「今日はよろしく」

 玄関に上がった彼女の態度はいつも通りでした。胸を撫で下ろして、私は彼女をリビングに案内します。ただ、目の下に青いくまが沈積しており、唇も薄い紫色を呈していました。背筋をピンと伸ばしながら、微笑を浮かべて私と会話してくれていますが、私の家ではもう張り切らなくても大丈夫なのです。逆に、こちらまで心が痛みます。いえ、彼女を残忍に傷つけた私が、そう感じるのは偽善ですよね。

 キッチンに入って、予めキレイにしておいたマグカップの中にホットココアを注ぎます。白と黒。くっついた二つのマグカップから、体をリラックスさせるカカオ特有の香りが放たれました。リビングにまで持っていきます。

「どうぞ」

 礼儀正しく両手を膝に乗せて椅子に腰掛ける彼女に、黒いマグカップを差し出しました。軽く首を傾げて、

「ありがとう」

 と静かな声音をリビングに響かせます。黒髪が揺れて、肩に落ちる。その滑らかな動きに目を奪われた私は、いつも以上に彼女を求める欲求を押さえつけて、笑顔で返事をします。

「マグカップね、白と黒のペアがあったから、今日買っちゃったの。まさかこんなすぐに役立つなんて」

「いきなりお邪魔してすまなかったよ」

「ううん、すごく嬉しいの」

 恥ずかしいセリフを口にしてみました。

「あなたといるだけで、いつもドキドキしているから」

 呆気に取られた彼女の顔。失敗したのかな、と発言を撤回したくなった頃に、彼女はココアを啜りながら、矢で仔鹿を仕留めた狩人の不敵な笑い方をしました。

「君は最近かわいいことたくさん言うよね」

 私もマグカップに口をつけました。確かに、ココアは血液を甘く熱く融かしていきます。彼女は大変なのに、こんな気分じゃたくさん甘えたくなってしまいます。だって、おでこにちょこんとキスしてもらうだけでずるずると幸福を引きずってきた私です。お泊りまでしてくれるのは、期待するに決まっています。

 彼女はココアを飲み終わったあと、シャワーを浴びに行きました。私は二つのマグカップを片づけてから、リビングの椅子に掛けてあった黒いオーバーコートに視点を定めます。

 ちょっとだけだから。

 気持ち悪い行為だとは自覚しながらも、彼女の見ていない隙を狙って真っ黒なコートを羽織ってみました。さらさらとした肌触りですが、体がすぐに温まります。何よりも、比喩し難い彼女の香り――ソープにもミントにも似つかぬ清潔感のある匂いが、ふんわりと私を包み込みます。

 部屋まで行って、鏡の前でくるりと回転してみました。中にあるセーラー襟のワンピースとは全く調和が取れていない上、体が過剰包装された和菓子みたいに滑稽です。こんなにも似合わないのはがっかりですが、そのぶん普段着こなしている彼女に感心しました。

 コートを元の状態に戻す前に、一度顔に近づけてみました。彼女の匂い。ずっと私と一緒にいてくれる彼女の匂い。

「あなただけは、私を置いていかないでね」

 かつて小犬たちが遊び回ったリビングに座り込んで、私は黒いオーバーコートをぎゅっと胸に抱き寄せました。コートはぐしゃりと丸まって、私に彼女の温もりを引き渡します。


 彼女を待っている間、私はソファに座って住宅雑誌を読んでいました。シャワールームの扉が開けられます。シャワー上がりの彼女は、最初に来たときと同じように湿気で髪を艷やかに濡らしたまま、私の側に腰を下ろしました。

 彼女の体が近づくだけで、蒸し器の蓋を取り上げたような湯気がふんわりと私を包み込みます。一緒に雑誌を読むのを言い訳に、となりでページを覗き込む彼女にワンピースをぴったりとくっつけました。ほかほかして赤い肌は、蒸し立て饅頭です。思い切り寄り掛かっても、そのまま沈んでしまうくらいに受け入れてくれます。あったかい。

「いつか海辺の別荘で夏を過ごしてみたいね」

 私は遠い遠い未来の夏に思いを馳せました。しかし、本心から澄み渡った海を夢見て笑う私に対して、彼女は苦笑一つと小声だけを返したのです。

「そう、だね。私が強くなったら買ってあげるよ」

 何だか、私はぽつんと一人、自分勝手に描いた青写真の上に立っているように感じました。じっと雑誌に目を定めて淡々と読み進める彼女は、私に真意を読み取らせません。外面に反して、彼女は繊細です。だから、私は踏み入ることを断念しました。

 ページを全てめくってから、私は雑誌を本棚に戻しに行きました。振り返ったとき、彼女は変に口を開けていましたが、慌てて顔を食卓の方へ背けられます。照れているのでしょうか。ソファに戻っても、彼女は言葉を探しているようでした。

 意識されていると気づき、先程の甘い気持ちがぐっと湧き出てきました。やっぱり私は、彼女にたくさん甘やかしてもらいたくて仕方がないのです。

「あのね。今日、いつもと違うワンピースを着ていて、シャンプーとかも変えたりしているから」

 普段絶対に褒めてくれない部分を褒められたい、というわがままをまず叶えるために口を開きます。手を彼女の上に重ねました。湯たんぽみたいに温かくて、柔らかくて、少女らしくて、それでいて私より少し大きな手。私を夢中にさせてくれた感触。彼女も、私の指を弄り始めました。手と手が絡み合います。

 返事をくれませんので、

「ねぇ、聞いてるー?」

 と催促してみると、

「あ、うん、聞いてるよ」

 思い出したように顔を上げる彼女。

「せっかく頑張って言ったのに、絶対聞いてないでしょ?」

「見たときからずっとそのワンピース、その、似合ってると思っていたよ。あと、いい匂いするって」

 いつもは変化に乏しい口元を明るく緩めて、彼女は言葉を物色しながら、赤ちゃんに向けるような慈愛に満ちた目を細めました。ちょこん、と指でセーラー襟を突かれます。

「そう、それが聞きたかったの」

 体が先に動いて、顔と顔の距離を思わず一気に縮めてしまいました。目を見開く彼女は、しかし、私に抗う素振りをしません。これは、同意と見なしていいのでしょうか。互いを熱い吐息で染めます。あと一歩進むための足枷は、セーラー襟だけなのです。

 だというのに、彼女は石像になりました。いえ、瞳は揺らいで、脈動は激流がほとばしるようですが。なぜか、私の襟を取っ払いません。そこまで行かなくても、もどかしい距離で放置された唇を塞いでくれません。まさか、ここまで近づいた私の意図が分からないのでしょうか。それとも、彼女は引き戻れない関係に身を置くことを妥当に思わないのでしょうか。

「あの」

 落胆した心情を反映して、唐突に投げ出された私の声は沈んでいました。

「ここまでやったんだから、その……鈍感なのか優しいのか……」

「えっと、つまり?」

 見事に引きつった笑顔で、きっぱりと思索をやめて私に問い掛けてきました。抜けた部分があるのもかわいいですが、自分の真意をありのままに語るのは恥ずかしくてできやしません。

 言葉にしなくても、雰囲気さえ伝われば。

 ぽん、と彼女のももに座り込みました。そして、ゆっくりと腕を伸ばして、彼女の肩に重みを掛けながら首に手を回します。猫に捕らえられたネズミのように、びくりと彼女は震えました。その反応を見て、独りよがりなのかな、と今更後悔していると、ふと、背中に温度が乗せられたのです。彼女の手。私の体勢をしっかりと固定する手でした。

 決意のために、肺に入り切らないほど大きく息を吸い込みます。唇をぐっと結んでから、小声を弾き出しました。

「あのね、その。このままキスしたい、と思う」

 言い終わった瞬間、ぷいと首を回して目を逸らさざるを得ませんでした。キスをせがむなんて初めてなのです。

 ももが彼女のつるりとした肌に接触するほど、二人の間に熱を蓄積していきます。彼女の膝にまで円を描いて広がるワンピースを見下ろしてから、再び顔に視線を持っていきました。早く返事してほしいです、じゃなきゃ恥ずかしくてしようがない。もし思い切って甘えていいのなら、はっきりと言って下さい。そしたら、あなたの香りが私の全てになるまで、唇を重ねていたい。

「ああ……じゃあ、触ってもいい?」

 片手で口を押さえながらも、彼女の声は落ち着いています。私は頷きました。とたんに、力強く背中を押されて、胸に抱き寄せられます。互いの顔を見つめ合いました。そうして、彼女は私の唇にキスを仕掛けて、深くへ。

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