13 ペアカップ
あれから半年。春風が道路にピンクの粉雪を撒き散らしていました。ひらひらとして透き通る花弁たちを眺めながら、彼女と共に放課後の街を歩きます。
公共の場ではすっかり手を繋がなくなりました。理由は分かりませんが、私は気にしません。普段の優しい態度がいつも通りですから、私はきっと大事にされているのです。または、私と違って彼女は大人になったのかもしれません。
「今日はうちに上がってくれる?」
ふんわりとした美しい景色に心が躍っているからか、私は叶わないであろう願いを思わず口にしてしまいました。というのも、受験生らしく足繁く塾に通う彼女は、もはや思いつくままの行動が許された昔の彼女ではありません。頑なに弱音を吐かないのに、プレッシャーに抗うのに疲れたとたびたび口からこぼしていました。努力家でしかも完璧主義者ですから、背中に乗せられた期待から寸刻も離れることができないのでしょう。
私の誘いに対して、彼女は足を止めました。新学期なのに早速、ブラック企業勤めの社会人みたいな顔をしています。彼女は押し黙っていました。心の中で、楽な方を取るか正しい方を取るか、取捨選択をしているのでしょう。
「今週は全部塾」
簡潔に述べて、再び足を踏み出します。
当たり前な判断ですが、もっと彼女のとなりに立っていたい私には残念な決断でした。いけませんね、彼女を応援すべきなのに。ドラマでは仕事で忙しい配偶者を持った家庭主婦が泣き喚くたび煩わしく感じていましたが、今なら何となく共感してしまいます。
私は彼女の制服の裾をぎゅっと掴みました。もう朝も昼も放課後も一緒にいてくれているのに、自分のどうしようもなさに呆れてしまいます。
彼女はちらりと私に目を配りました。突然、頭を触られます。撫でられるのかな、と思って目をつぶって待っていると、頭上に乗った温もりはすぐに消えてしまいました。
「花びらがついていたんだよ」
彼女はおかしそうに目を細めて笑いをこぼしました。視線の先は、りんごになった私の顔です。
ふと、くるくると周りを観察する彼女。道路は何台かの車が高速で駆け抜けていくだけで、ほとんど人の気配がしません。こちら方向の学生が少ないからでしょうか。それとも帰り道がちょうど表通りから外れた場所にあるからでしょうか。とにかく、歩行者がいません。
腕に体温を通されて、気づけば私は彼女に引っ張られていました。桜の木。ほんのりといちごミルクが掛かったような影が落ちてくる中、前髪を軽く持ち上げられました。
桜の花弁が一瞬だけ熱を帯びて、おでこに触れた気がします。
呆然と突っ立った私を置いておいて、彼女は言葉のないままちょこちょこと早足で去っていきました。大きな風が吹きます。ゆさゆさと揺らされた桜たちが、彼女の背中を隠そうとしています。
風に背中を押された私はやっと追い掛けることを思い出しました。元テニス部キャプテンの本気を見せるときです。すぐさま追いついて、力を込めて彼女に抱きつきました。彼女とくっついた体の前方だけが湯たんぽです。
腕を解かれるかと思いきや、彼女はこのまま立っていてくれました。顔をぐっと彼女の背中に押しつけます。あったかい。
「塾が、あるからね?」
自分自身の心に楔を打つ彼女の生温い声が、更に愛おしさを私の中に送り込みました。
ビルにまで送ってもらったあと、しばらくソファでごろごろ転がりながら悶えていました。彼女はすごく優しい。もう、顔から火が出るくらいに。
今の私は本当に幸せ者です。どうしようもなく幸せ者です。この幸せをどう繋ぎ止めればいいのでしょうか? このままじゃ、彼女に別れを告げられたら死んじゃいそうです。絶対に離れたくない、ずっと一緒にいたい。
でも、永遠なんてないのです。人生でこんな風にほかほかした気持ちが胸に充満したことは、何度もありました。かつての家族と夕暮れを見たとき、子犬たちと生活し始めたとき、皆で旅行に行ったとき。全てダイヤモンドよりも煌めいていたはずなのに、気づけば鉛筆の芯よりも暗澹としていて、パラパラとちぎれていきました。あっという間に、不幸せの仕打ちが訪れました。こうして起伏のある人生が均一化されてしまうのです。
もしも、幸せが最高点に達して、あと一秒で下り坂になる瞬間を留められたらいいのに。もしも、気持ちが薄れて離れ離れになる前に、愛する瞬間を留められたらいいのに。もしも、苦しみを背負い切れず壊れる前に、最も心が解放された瞬間を留められたらいいのに。それこそピンを留めるように。
一番幸せな瞬間に死んだら、私たちはずっと幸せになるのかな。
ぶんぶん頭を振りました。こんなんじゃ、ただの心中です。自死です。どうしてこれほど恐ろしいことが思い浮かぶのでしょう。熱に浮かされすぎて、ついに気が狂ってしまったのかもしれません。
ええ、ええ。夕食の材料を買いに出掛けましょう。ついでにショッピングでも楽しみましょうか。かわいい小物やインテリアの雑貨屋さんが駅の周りに集まっています。彼女の住居雑誌にはまってから、味気なかったリビングをずいぶんと色とりどりに飾ったものです。
ねぇ、最上階の住人さん。誰もいてくれないぶん、寂しさを紛らわすために仕送りを使っても、怒られることはありませんよね?
青白い月光が夜桜の間から地面に落とされます。春の夜は少々肌寒く、私は純白のポンチョを羽織って駅に向かいました。下には白パンツを履いて、かごバッグを合わせて。甘すぎず引き締まるよう心掛けてはいるけれど、着実にファッションスタイルが彼女の趣味に影響されていきました。
これも彼女のせいですよ。どうしてあれほど私に白を着せたいのか、不可解なものです。でも、もしこれでもっとドキドキさせられるなら、私は頑張ってかわいくなろうと思います。
まさか、自分にも乙女の思考ができるとは思っていませんでした。
駅にたどり着き、まずは近くのスーパーで旬の野菜とお肉を買いました。料理の腕だって磨いておかなければいけません。牛乳や調味料も補充したあと、私は雑貨屋さんに向かいました。
字の通り、多様なカテゴリのものが雑然と室内に並べられています。しかし、この整序されていない雰囲気は案外好きです。私もこの場所のように、ありのままで生きていけたらいいのに。ため息をつくと、隅っこに配置された白黒のマグカップが目に入りました。
ペアカップ。カップルたちの憧れだとは知っていましたが、まさか自分でもこれほど惹かれてしまうとは。思わず手に取って、キズがないか確認してから、レジに持っていきました。
「最近、うちではペアカップが人気なんですよ」
人懐っこい笑顔の店員が私に質問しました。
「彼氏さんですか?」
「いえ、友達です」
申し訳なさそうな店員に、私は微笑んで見せました。恋人ではありますが、彼氏さんではないのです。でも、きっとどの彼氏さんよりも大事にしてくれるような子なんです。私がその子に愛されていいほどできた人間ではないのにも関わらず、彼女はいっぱいいっぱい甘やかしてくれます。
雑貨屋さんを出て、私はマグカップの入った紙袋を抱いて帰路につきました。夜の街は、空気に溶け込む緩やかな灯火に包まれています。骨の髄まで染み込む夜風に吹かれ、ポンチョの裾をぎゅっと握りました。すると、突然携帯が鳴り出します。
こんな夜遅くに、一体誰が掛けてくるのでしょうか。彼女かな、と期待が心を過りましたが、彼女は一度も自分から電話を掛けてくれたことがありません。となると、何かの不祥事が起きたのでしょうか。しっぽを振って目を輝かせる小犬たちの顔が映し出されます。
それでは、いけません。
胸が騒ぎ、私は慌てて固く冷えた物体を耳に当てました。
「突然にごめん。今日、家に泊まってもいい?」
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