12 あなたと一緒にいたい

 翌日、彼女の席は空でした。

 一度も彼女の家に上がったことのない私は、もちろん訪問することもできなければ、会いに行く顔もありませんでした。

 その更に次の日。彼女は学校に来ました。私に対して硬い笑顔を浮かべる彼女を見るたび、目を逸らしたくなっていました。しかし、慣れない笑顔を張りつけてまで私に悟られたくない彼女に、もしかするとそれでも私を受け入れてくれるという最低の安堵感を覚えました。

 週末を空っぽのリビングで過ごした次の週の月曜日、私たちは修学旅行のため沖縄に向かう飛行機に乗りました。


 小窓から見えるのは燦々たる海。東京が一つの都市として視界に収まって、広大な鏡の上に雲が漂っています。

「すごい、東京が全部見えるよ!」

 私はとなり席の彼女に笑い掛けました。彼女の切なげな笑みを目にするたびに、胸を焼かれる思いが押し寄せてきます。しかし、私はそれを作り物の笑顔で覆い隠すしかありません。裏切り者はきちんと裏切り者として振る舞うことで、この関係から脱却すべきです。

 突如、彼女は腕を伸ばして私の髪に触れました。細い手、私より少し身長が高くてすらりとした体格、そして見上げた先には今にも泣き出しそうな無表情。矛盾した両者を同時に纏った顔色でした。彼女はぷいと目を逸らします。

 これこそが正しい道です。胸が痛いのは、ただの通過点でしかありません。これを乗り越えれば、私はきっとまた楽になれるはずです。

 それでも、別れを告げないまま彼女に裏切りを見せつける行為は、まさに私がなお間違った道を追い求めている証でした。私は本当に、正しい道を歩んでいくべきなのでしょうか。


 ホテルに着いたとき、辺り一面がすっかりと静まり返っていました。夜の帳から透けて見える海は、錆びた鉄が混じったようなくすんだ色合いです。半年前、この海に寄り添って建てられた別荘があり、そこには未来があると本気で信じていました。鮮やかに繰り広げられた夢物語に汚点がつくのは、いつも唐突です。

「ちょっと話があるから、来てくれる?」

 シャワーを浴びたあと、ルームウェア姿の彼女に手招きをされて、ベランダに歩み寄ります。シンプルな白い丸テーブルが一つ、無造作に置かれていました。

 沖縄であっても夜風で肌寒くなります。彼女を直視できず、代わりに空を見上げました。東京とは違って、一点一点の星が瞬いています。

「星が見えるよ!」

 何一つ、明るく笑う理由などないのに。それでも私は笑顔を作ってしまいます。

 私を眺める彼女にちらりと目を配りました。柔和な笑みを浮かべて、私を見守っています。何事もなかったかのような笑みだからこそ、瞬時、私はとても怖くなったのです。彼女はまるで吹っ切れたみたいな顔をします。いつでも私を拒絶できる顔です。

 恐れて縮こまる私に対して、優しい笑顔のまま彼女は口を開きました。

「小さい頃、こうやって手を伸ばすと星を掴んで、金平糖にできるってお母さんが言ってて。捻くれた子どもだったからさ、昔から信じていなかったけどね。君に出会って、信じられそうだよ。確かに絶対にあり得ないと思っていたことでも、起きるんだよね」

 絶対にあり得ないと思っていたことでも、起きる。この言葉の背後に見え隠れするものを、私たちは知っているのです。

「ホワイトモカも飲んでみたよ。やっぱりあれは甘すぎる。私に甘すぎるのはだめなんだ。舌が痺れてちゃんと判断できなくなる。それにしても今日プールつきの別荘を見つけられなかったね。ここはリゾート地だから、絶対にあるはずなんだけど……」

 どうして今、これほどたくさん私に言葉を振り掛けてくるのでしょうか。彼女の発する声一つ一つが熱を帯びていて、冷たくあろうと励む自分の決意を融かしていきます。私は決意を固める必要があるのに。一度愛したものを手放すのは、体の一部をちぎり取るような痛みを伴います。中身が脆い私でもきちんと耐えるためには、決意を持たなければなりません。

「そう、だから何が言いたいのかって、海辺の別荘は必ずあるってこと。ここになくても海の更に向こう側には……」

「大丈夫だよ」

 私は彼女の話を中断しました。これ以上彼女の切なげな声に触れるべきではないと判断したためです。

「あなたの言いたいこと、何でも聞くから。何か、あるんでしょう?」

 私は彼女に微笑みました。笑顔。そう。何があっても笑顔です。敵意がない、あなたを害さない、あなたを受け入れる。これらの情報を伝えるのが笑顔です。私は絶対に泣きたくありません。私は悲劇の主人公ではなく、裏切り者です。

 彼女は無表情に切り替わりました。一度海の向こうに顔を背けてから、再び私に視線を戻します。私は待ちました。彼女は歩道橋の出来事に関して聞いてくるのでしょうか。もしそうであれば、私は冷徹に答えるべきでしょうか。

 彼女は息を吸いました。私は彼女の質問をじっと待つのみです。


「私たち、別れようか」


 重たい金属に頭を打たれた感覚がしました。

 私は突っ立っています。彼女の表情も、寒い夜風も、静かに波が引く海も、全てを視界に捉えているのにも関わらず、それらがあくまで別世界にあるかのような距離を感じました。ここに立っている私の体自体も、私から遠ざかっていきます。

 ――私たち、別れようか。

 浮気を目撃してもなお私を愛するほどの理由が、彼女には最初からありませんでした。さもなくば、直接別れのステップに踏み切りはしません。

 私が彼女に掛けた望みはあまりにも滑稽でした。私の妄執が叶わないのは彼女が冷酷だからではなく、裏切りに寄り添って生きてきた日々によって私が一般的な、道徳的な、倫理的な判断の仕方を忘れたからです。

「突然に言い出してごめんね。でも、理由は君が一番分かっているでしょう? もう聞いたところでどうにもできないけど、あの男は恋人だったんだよね」

 あの男、とはKのことでしょう。恋人ではなくても、まるで恋人であるかのように彼女に見せる必要があります。私はまだ捨てたくない、彼女がなお愛してくれるという可能性を。

「そうだとしたら、あなたは、私のことが好きじゃなくなる?」

 私は俯きました。返事が返ってきません。

 とっくに知れていたはずです。彼女が切り出したのは別れであって、尋問ではありません。彼女の中に私が席を占めているかさえも分かりません。

 私はまたもや正解を歩みながら、あえて踏み外そうとしてしまっています。それはよくないことです。私は笑顔で彼女に謝って、関係を断って、怖いくらいに素敵だった一年を終わらせるべきでした。それでも彼女の答えを私は捻じ曲げたくて、私を愛していると言ってほしくて、

「ねぇ」

 と答えを促しました。彼女は答えません。

 静寂がどれほど続いたのでしょう。そうして、私と彼女の距離が既に取り返しのつかないものであると思い知らされました。

 ――私たち、別れようか。

 これが、誰よりも私を愛してくれた彼女にとっての真実です。脳も、目も、手足も凍てつきそうです。きっと風がまだ吹いているからでしょう。冷たい空気で、頭が回らなくなります。

 どう足掻いたところで、盲目的に信仰してきた永遠に続く愛は存在しません。誰のせいでもなく、社会のせいでもなく、ただ摂理としてそうできているのです。

 涙が出た気がします。笑顔を張るのは何よりも得意なはずなのに、もう作り笑いさえも出てきてくれません。自業自得です。それでも私は、夢を見ていました。脆い私は外面だけの強さを盾にして、彼女の気持ちを量ろうとしていたのです。その気持ちは既に判明しました。それを押し曲げることは許されるのでしょうか?

 そんな疑問を馬鹿馬鹿しいと一蹴する如く口が言うことを聞かず叫びます。

「あなたと一緒にいたい!」

 理論も摂理も将来の後悔も分からない。ただ私はあなたと一緒にいたい。あなたに愛されたい。どんなことがあっても変わることのない愛がほしい。ほしいよ。だって永遠に続く幸せがほしい。

「私を見捨てないで! お願い、私に彼氏がいても……あなたのことを裏切ったとしても、好きでいてくれるって、言ってよ」

 彼女はずっと無表情で黙っています。いえ、異様な私を困惑して見定めています。切れ長の目、手の温度。その温もりはずっとずっと変わらないと言ってほしい。

「あなたまで――私を一番好きでいてくれたあなたまで、もし、もしも、終わりがあるなら、私はどうすればいいの。私は変だよ、すごく変になったの。私はとっくの昔に、安心して人を好きになるのを諦めたのに! あなただけはきっとそれでも好きでいてくれるって、思いたくて……」

 膝から、崩れ落ちる。ベランダは床さえも冷たい。私は手を押さえてみました。いつも通り冷えています。彼女が握っていてくれた手、まるで抱き締めるように握っていてくれた手。人の体温って気持ちいい。気持ちいいと知ってしまったのです。そして独りはとても寂しい。人に触れられない独りはとても寂しいです。もう私は空っぽのリビングに置き去りにされたくありません。

 私は右手を伸ばして彼女の腕を掴みました。身震いが止まりません。やはり、彼女の身体は温かいです。ほかほかしていて、気持ちいいです。ほっそりとした腕。どうか、このまま離れないで下さい。あなたが私を陽だまりに連れ出しました。お母さん、弟、小犬たち、そしてお父さんが消え去ったあと、ずっと寒い三階で震えていた私を陽だまりに連れ出しました。もう私は空っぽのリビングに置き去りにされたくない。

 どうか、私の手を取って下さい。


 彼女は私の手を振り払いました。


 好きだった。

 ぼんやりと胸の奥からこぼれた言葉は、自分にさえも聞こえません。

 体で唯一温かいのは、涙が流れ落ちる目だけ。床に落とされていく。水たまりを作って、広がっていく。一度こぼした涙はもう掬えません。私が引き裂いた彼女の心もきっと同じなんです。

 私はもう正解とは何なのか分からなくなりました。

 誰にも深く関与せずに生きてきた結果こそが、彼女に縋りつかざるを得ない私であり、そうして彼女に拒絶される私でした。私は正解と言って人から遠ざかろうとしながら、愛されたいと願う本心には手も足も出ませんでした。私は変わらないものなどないと断りながら、本当は変わらない愛に全ての期待を掛けていました。

 永遠への憧れを捨てられない私は、自分に永遠などないと見せつけたところで、傷ついて、更に永遠を追い求めてしまうだけでした。

 ふらりと立ち上がります。目の前の彼女はもう、私に優しくする理由を持たない赤の他人です。私は人間に好かれる味を彼女に教えました。そして彼女は人間に愛される温度を私に教えました。そして私は彼女を裏切りました。だから終わりが訪れるのは当然です。

 私はベランダから室内に入ろうと考えました。しかし、温かい場所にいるより、今の自分は熱をとことん風に奪われた方がいいとも思います。

「……こう言えばいいのか。私は、君に彼氏がいても君が好きだよ」

 突然、ずっと沈黙を押し通した彼女が口を開きました。

 うまく言葉の意味が頭に入らなくて、ぼうと彼女を眺めました。彼女の顔は白紙です。何を考えているのか全く分かりません。彼女が意味しているのは、私と彼女は終わらない、ということですか? 私に彼氏がいても好いていてくれるということですか?

 裏切られてなお私を愛してくれるというのですか?

 黙り込んでいたのは拒絶ではなく、決意のためだったのですか? 私の手を振り払ったのは、単なる動作以上の意味を持たなかったのですか? 私を許してくれるのですか? 私は信じていいのですか?

 彼女はにやりと笑いました。

 記号が読み取れません。どうしてあなたは笑う。冷徹な視線は槍のように怒りをも悲しみをも切なさをも破り捨てて、ただ私の脳を貫き通しました。

 言葉が続きます。

「彼氏がいたところで、君に別れさせればいいだけの話だよね? 大丈夫、何があっても私は君を愛しているよ」

 愛、している。

 白砂糖のさらさらした余韻が脳内でこぼれていく間、すかさず体を引き寄せられ、唇に温かいものが当たります。乾燥しているためか表面がカサカサしているけれど、押したら跳ね返ってくるくらいには弾力性が感じられました。彼女に強引に求められてもなお体を離すほど私は器用ではありません。夢見心地の瞳に映り込んだのは、氷を浮かべたままの彼女でした。瞬時に怖くなって、触れた体を引っ込めようとします。だのに、うまく動きません。

 ああ、そうか。きっと私の体は、熱い彼女の腕の中から抜け出したくないのです。


 ホテルの室内に入り、私と彼女は平常時ではあり得なかった距離感でベッドの上に座っていました。すらりとした腕で体を固定され、このまま彼女の胸にもたれ掛かります。私の携帯を手に取って、私に渡してきました。

「じゃあ、携帯のロックを解除して」

 彼氏の連絡先を削除しろ、ということでしょう。しかし、そもそも私には彼氏などいません。恋人はたった一人、彼女だけです。もしここで彼女に見られながら操作した場合、私の裏切りが寸劇だったと察知されるでしょう。それではいけません。

 私が二股を掛けるような人間であっても、彼女はこれからもずっと愛してくれるのでしょうか。すぐに私を手放すかもしれません。もし彼女がこの嘘を理由に私を突き放した場合、私への愛はたったそれだけなのでしょう。

 行動の採択に思考を巡らせ携帯を受け取らない私に、彼女は代替案を持ち出しました。

「自分で削除してから私に見せて。電話帳とSNSの連絡先」

「それなら」

 それなら、そもそも彼氏の連絡先なんてないことがバレなくて済む。後半だけ口をつぐんだためか、鋭利な眼光に背筋をなぞられます。

「メモ帳で書き留めようとしても、見ているから無駄だよ」

「うん。そんなことしない」

 私は彼女の身体からちょっぴり離れた場所で携帯に指を滑らせました。見られて困るものが携帯に収められるほど、私は有意義に日々を過ごしていません。彼女に見られたら照れるようなものは、あるけれど。

 結局、ホーム画面の背景のみを変えて、携帯を彼女に差し出しました。

「できたよ。どうぞ」

 彼女は画面に目を落とします。一分ほど経つと、先程の猛禽ではなく、垂れ耳の黒ウサギを思わせる弱々しい声が響きました。

「最後の挨拶とか、しないんだ」

 そうやって私はやっと彼女の立場も含めて状況を俯瞰させられます。

 私が今携帯を操作したのは、建前上、正規の恋人と別れるためでした。つき合う以前はたびたび彼氏の存在を匂わせてきたものですから、彼女からしてみれば彼女こそが浮気相手なのでしょう。連絡先を削除すれば、浮気相手に示唆されるままに正規の恋人を裏切ったことになります。私は軽々と人を裏切っていく風に見えたのでしょう。

 いいえ。たとえ状況こそが誤解だとしても、私は確かに軽々と幸せを突き破るような人間です。

「そうね」

 私は答えました。最後の挨拶をする相手がいませんので、あながち間違いではありません。

 彼女は鼻で笑いました。

「どうせ、あとで会ったらまた聞き出せばいいもんね」

「あなたから見たら、そうなるね」

 胸がぎゅっと引き締まったように感じました。全てが私の仕向けたことであるにも関わらず、傷ついた彼女の冷ややかな皮肉を悔しく思う心が最低で、残念で、どうしようもなく気持ち悪いです。

 私は悲劇の主人公ではなく、裏切り者だ。念を押して、得意な笑顔を無理やり咲かせました。

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