10 ちっぽけな望み
嫌な夢を見た気がしました。
目覚まし時計を拾い上げると、今は朝の十時半みたいです。悪夢を見るのは、寝坊をしたからでしょうか。火曜日。本来ならば学校の三時間目が始まる頃です。
枕の側に転がっていた携帯を開きました。彼女からメッセージが来ています。
『世界史ノート』
たったこれだけの文ですが、下にはノートの写真がこのまま印刷できるサイズで貼られています。少し上に指を滑らせると、一限の現代文もあります。
私が言うと変ですが、いい彼女を持つって幸せですね。
『今起きたよ! 羨ましいでしょ?』
夢のことを忘れたくて、はっちゃけた文章を送信しました。
『羨ましい』
素直に返されます。笑いをこぼしてしまいました。
これから身支度をして、戦いに臨まなければいけません。今日は関係者が集まる昼食会です。まあ、会社を引き継ぐなんて望みはとっくの昔に捨てました。ただし取れるものなら財産は多く取るのに越したことはありません。できれば不動産がいいでしょう。小さなビル一つだけでも十分生活していけます。それに、あの人たちに取られるくらいなら私が取った方がましです。
私はクローゼットの一番奥で放置されていた赤ワイン色のドレスを、ハンガーから外しました。埃を被っているか不安でしたが、手に取ってみると余計な心配だったみたいです。ええ、赤はいい色です。より攻撃的になれます。
窓の外を眺めながら、着替えていきます。秋の風物詩らしく、街路樹の紅葉が去年同様美しい絨毯を道路に敷いています。展望台に行った春の日から、もう半年が経ちましたね。つき合って一年になるのでしょうか。
一年だけは幸せを噛み締めようと、自分の中で制限を設けました。タイムリミットは、既に目前に迫ってきています。一年分の幸せがそのまま不幸せになります。しかし、それはたった一年だけなんです。その痛みを更に積み重ねてはいけないのです。
だけれども、私はそれでもなお彼女を手放すことが怖いです。だから、唯一この幸せを繋ぎ止める可能性がある最悪で最低の手に出ると決意しました。もしも彼女がそれでも変わらない愛をくれると言うならば、彼女との永遠はあり得るのかもしれません。だとすれば、私が彼女と寄り添うことは許されてもいいはずです。
昼食会のメンツは不愉快な人たちばかりでした。あの女、あの男、元弟、不倫相手、お義母さん、後継者くん。ある意味勢揃いです、私も含めて。
「お久しぶりです」
私はお辞儀をしてから長テーブルの席に着きました。話すこともありませんので、そのまま黙り込みます。元弟は私を嫌そうに一瞥してから、となりに腰掛けました。スーツを着ていますが、どうも窮屈そうです。
「一年ぶりですね」
彼に笑い掛けます。しかめっ面はまるで出会った頃の彼女みたいです。頑なに笑おうとしません。まあ、笑うべき相手がこの場にいないからかもしれませんが。
「俺はお前と違う陣営だからな」
陣営、ですか。そんなゲームみたいな話だとよかったのですが。陣営を拡大して攻略していけるのなら、私がとっくにしていました。
「ええ。でも、これは最大手からどれだけ資源を頂けるかの話ですよ。私とあなたの立場は同じです」
子ども用食事椅子に座った向こう側の後継者くんに軽く手を振りました。私を見ると、彼は興奮したように身を乗り出します。立ったままのお手伝いさんが彼を制止しました。私はにこにこ笑顔をやめません。
「お前、あいつに思うことねえのかよ」
「五歳児ですよ?」
「それでもお前はある意味俺より状況がひでえだろ。自業自得だけど」
「まあ、恋人がいてくれますから」
彼が噛みついてくるであろう話題をさり気なく提示しました。案の定、小声でありながらも彼は驚いたように口をぱかっと開きます。
「お前、マジか」
どう冷たく振る舞おうと、男子中学生はこんなものです。顔と背丈だけはやけに大人びていますが、所詮男子中学生なんです。
「ええ。それであなたに協力してほしいことがあります」
「は?」
お前は何を言っているんだ、という声が聞こえるくらいに不可解そうな表情。片方の眉だけを吊り上げています。我ながら、元弟が単純すぎるのもどうなんでしょう。もっと冷たくなって、心を閉ざして、鋭い人間であろうとしなければ、勝ち取れたはずの資源も勝ち取れなくなります。
「お食事会が終わったあとに、また用件を話します」
私はにこりと彼に微笑みました。
むせ返るような重い議題でまずくなったフランス料理を胃に収めたあと、やっと解散の時間になりました。私が勝ち取ったのは、大学以降の仕送り金と、よいロケーションにある高層ビルです。大学に入ればそこに引っ越すことになりました。実際に行ったこともないビルをまるごともらうことに実感が湧きませんが、正直それさえあれば仕事をしなくても生きていけるでしょう。
このように、私は戸籍上の有利もあって納得の結果になりました。意外なのは、元弟の陣営にも寛大だったことです。お義母さんのご厚意を感じてしまいますね。たくさんやるから、もう一生関わってくるな。そんなところでしょうか。
まあ、あの人もただの財産目当てであの男と結婚したのではなく、きちんと先妻を忘れられるようにしたいと願うくらいには愛情を持った人間です。だから、私に冷たく当たったところで嫌いになり切れない部分はあります。後継者くんから財産を奪うため私が邪魔なのではなく、あの女の遺産だから邪魔なのです。
「それで、俺に何の話なんだ」
元弟は将来財産を分け与えられることでウキウキしつつも、何事もなかったかのような声音を作り出して私に質問してきました。
「協力してほしいことがあります」
「お前の協力を俺がするとでも思ったか?」
「ほら」
私はバッグから白い財布を取り出しました。彼女の趣味に合わせて買った、かわいらしい純白の財布です。それを開けて、五万円を数えて見せました。そして、手のひらに乗せて、彼に差し出します。
「お前、クソが!」
彼は迷いなく五万円をぶんどりました。
これで契約が成立しました。心が痛くなるくらい、私も彼も何かしら欠けているのです。
「やることは簡単ですよ。来週火曜日、私の指定した場所に来て下さい。私が指示するまで私と待っていて下さい。指示したら、私があなたの顔にキスをします。そしたら腕を組んでその場を離れるだけです。簡単な話でしょう」
彼の顔から血の気が引き、大きく見開いた目は私をじっと見ています。狂気に囚われた化物に怯えるように、とうとうネジが外れてしまった機械を憐れむように。彼は何歩も引きました。潔く奪い取られた五万円が震えています。
笑顔を忘れるな、得意でしょう。
ええ、私は微笑んで見せます。
「あなたしか、頼る相手がいません」
手を合わせて、頭を下げました。動揺を見せない私に、彼は恐る恐る口を開きます。
「おい、やるにしても確認させろ。お前は何のためにそれをする?」
「恋人に見せるためです」
素早く拳が振り払われます。
今度も迷いなく私に殴り掛かろうとした彼の手を、私は止めました。こう見えても部活で筋力は身についているのです。ドレスですから、本気で襲い掛かられたら無理でしょうけれども。そんなことはどうでもいいです。
どうでもいいことを必死に思い浮かべて、笑顔を保っています。
「何でお前がそんなことをやるんだよ! お前が一番見せつけられたんじゃねえか! 俺はそんなんぜってえに許せねえ!」
高級レストランの前であるにも関わらず、彼は声を張り上げて虚空に叫びました。叫びながら悲しみと怒りが混じった顔で懸命に訴え掛けてきます。
「何があったのかは知らねえ! だけど別れるなら普通に別れろよ! 裏切るって笑顔で言うもんじゃねえだろ!」
ええ、まさにそうなんです。
しかし、最悪のやり方で裏切っても彼女は愛してくれるという可能性を、どうしても手放せないのです。本当の脆い私は、彼女に愛されているままでもいい、幸せになってもいいという可能性に縋りつこうとします。
もしも普通に別れたならば、私と彼女はそこで終わりです。
しかし、もしも裏切りを見せつけられても私を愛してくれるならば、もしかしたら、今度こそ永遠に続く愛があるかもしれません。
そんな風に、馬鹿で、わがままで、ちっぽけな望みを抱きたいのです。
「おい」
彼は静かになりました。熱くなった私の目から、涙が不本意に滲み出てきたからなのでしょう。ごめんなさい。いつも肝心なところで素が出るのは私の悪いところなんです。
私は裏切り者。小学生のときからずっと。最初から最後までずっと。
一人で勝手に決めて、一人で勝手に泣いている自分が気持ち悪くてしようがありません。しかし、抑えようとするほどに涙が溢れてきます。穴を掘って飛び込みたい。他人に脆い中身をさらけ出したくない。
彼は掛ける言葉が見つからず、口をつぐみます。私はひたすらに汚れた目元をみっともなくゴシゴシと拭くだけでした。
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