8 幸せになったぶん

 桜の花が咲き誇る春になりました。高校二年生の始業式を迎えたばかりの私と彼女は、一緒に海沿いの展望台で景色を見るデートの約束をしました。

 インターホンが押されましたので、ビル正門のロックを解除します。ドアのロックも予め外しておき、玄関に座って彼女の来訪を楽しみにしていました。

 ドアがガチャンと音を立てて開きます。

「今日は雑誌の発売日だ」

 挨拶を飛ばしてこう言ってくるくらいには、私たちもつき合いが長くなりました。

 私は伸ばした彼女の手から住居雑誌を受け取って、彼女の格好を観察しました。いつも同じような服を着ている彼女でも、今日は黒スキニーにボーダーのTシャツ、そしてアウターは定番のデニムジャケット。何だか普段より春っぽいですし、女の子がメンズファッションで身を包むと華奢なスタイルが映えて、私はとても好きです。

 逆に私は彼女と全く異なった系統の服を着ています。それも、彼女はどうやら私がガーリーな格好をするのを好んでいるようです。彼女の趣味に合わせて私服を買うと、どうしても白いワンピースや花柄のスカートばかりになってしまいがちです。高校生としてこればかり着るのは少し恥ずかしいですから、もちろんシンプルさを心掛けています。周囲に好印象を持たれることだけは得意です。中身はこんな人間なのに。

 予想通り、キッチンから出てきた彼女は私のワンピースをちらちらと見てきました。なぜか、服をかわいいとは言ってくれません。私自身を褒めてくれることは多いのですが、彼女のために影で色々努力をしたことにも気づいてもらいたいものです。

 ええ、どうして私は努力なんてしてしまっているのでしょう。

 私は恋をしていませんが、それだけ愛してくれる人を留めておきたかったかもしれませんね。執着すればするほど、離れた際にダメージを受けることになるのに。どうしようもない馬鹿です。


 落ち着いた青を呈する一面の東京湾が展望台を包み込んでいました。お花見の季節だからか、全く人がいません。海を突き進む灰色の貨物船が広い青の世界に比べてどうしようもなくちっぽけで、何だかこちらまで心細く感じます。母なる海と言うらしいです。なるほど、だからこそ人間は海と決別したのにも関わらず、海に心を寄せ続けるのですね。

 彼女はあそこの果てに海辺の別荘があると言います。未来の話は過去の記憶と同じように、眩しくて、儚くて、心を奪われてしまうものです。

「すっごく綺麗!」

 私は思い切り感嘆の声を上げました。私を連れてきた彼女を喜ばせたかったからです。

 眺望を説明するパネルのとなりに望遠鏡が設置されていましたので、早速使ってみることにします。目を近づけて望遠鏡を動かすと、すぐさまパネルに書かれた建物たちを見つけました。より明確に映し出したくて、観光望遠鏡にしては珍しいピント調整ハンドルを回します。本格的な操作ができればよいのですが、観光用としてはこれだけでも自由度が高い方です。

「どう? プールつきの別荘が見える?」

 彼女は明るい口調で話し掛けてきました。

「それは見えないけど、紹介に書いてある建物は全部見つけたよ!」

「早いな。さすが」

 突然、望遠鏡を覗き込む私の頭に温かい手がぽんと置かれます。ドキリとしました。そのままわしゃわしゃされます。彼女を見上げると、相変わらず申し訳程度の笑みを浮かべていますが、私に定められた視線はとても優しいです。もっとしていいよ、と伝えるために私は目をつぶりました。視覚を排除したぶん、焼き上がったパンのような温もりが、頭の上に乗せられていると実感します。

 しばらくして、彼女の手が離れました。私は再び望遠鏡の操作をし始めましたが、心の中ではまだ妙にドキドキしています。今、彼女が私のとなりに立っている。おそらく慈しむようにじっと見守ってくれている。

 その姿が、本来忘れ去ったはずの父親の姿に似ているのです。

 幸せが不幸せに転じたあと、私はあえて記憶を避けました。幸せな時間が深ければ深いほど、思い出したときに胸が収縮してぎゅっと苦しくなって、遠くへ飛んでいった意識が現在を自覚したとたんに、もう取り戻せないことを暴力的に再認識させられます。私はその感覚をひどく嫌がりました。四人と二匹で暮らした日々を体験したのは私であるはずなのに、そこにいたのは遥か遠くにいる誰かで、私ではないのです。

 つまり、記憶の欠片を拾うことによって、今の私が欠如していることを突きつけられます。体の一部が足りないみたいに。

 だから、彼女にずっととなりに立っていてほしいのに、ずっと私を見ていてほしいのに、そうされ続けることがとても怖くなりました。同時に、私は彼女からその恐怖を払拭するに足るほどの温もりを求めてしまいます。例えるなら、寒い夜に明かりをふんわりと漂わせる街灯に集う虫でしょうか。月に届かないまま、近くにある光源で目が眩むのです。

 恐ろしい考えが脳を掴んで離しません。私は決して踏み越えるべきでないライン踏み越えてまで、彼女に打ち明けたくなりました。私に対して常に広げられたその腕に、飛び込みたくなります。

「それにしても、あなたとここに来れてよかった」

 彼女に私の心を託す覚悟がきちんとできない一方、私の信条はもはや風前の灯火でした。

「一人暮らしだから、いつも誰もいなくて寂しかった」

「家族は会いに来たりしない?」

「うん。全然」

「実家にいるの?」

「ううん」

 弄っていた望遠鏡を元に戻したあと、彼女の顔を見つめました。私と目が合ったことで、いつも通りの無表情が心配そうな顔に変化しました。私から笑顔が抜けたからでしょうか。彼女は私の言葉を待ち構えているようでした。

「あなたに話しておかなきゃだよね。私の家族がどこにいるかって」

 本来なら、話すべきではないのです。私はきっといつかあなたから離れなければいけない日が来ます。それが正しい私のあり方なんです。愛さなければ、失うこともないからです。

「普通に、実家かと」

「建前と本当のこと、どっちが聞きたい?」

 私は視線を床に落としました。本当の私を人に見せることは、とてつもなく恐ろしい。彼女の顔を見たまま、私はきっと話せないでしょう。

 でも、どうか仮初めの温もりを与えて下さい。

「建前でいい」

 予想通り、優しい彼女はこちらを選択しました。

「優しいのね」

「建前の方が聞きたいだけだよ」

「私の家族はね、同じビルに住んでいるの。建前ではね」

 どうしよう、泣きそう。

 ただ現状を述べているだけなのに、泣きそうになっている。どうして自分はこんなに情けないのでしょう。

 でも、全てを話さなければない。そんな風に脳が疼くのです。

「これ以上は話さなくていいよ」

 突然、彼女は私の手を取りました。瞬時に彼女の体温と、華奢だけれどしっかりとしている手の感触を受けます。彼女は、無理して話すくらいならこれ以上話さなくていい、と言いたいのでしょう。ええ、確かに私は無理して話しているかもしれません。しかし、まさに私自身が無理をする必要性を感じたのです。

 私は寂しい。だから慰めてほしい。

 そんなみっともない願いを抱いてしまうくらいに中身が脆いのです。

「私は、初めて人に話そうって思えたの」

 彼女の手に、まだ握られている。あったかい。とてもあったかいです。

「私でも不思議。自分をコントロールできない感じ、っていうか。こんな感じは初めてだと思う。あなただからだと思う」

 もう制御が外れてしまって、進んではいけない軌道に踏み外してしまっているのですよ。それでも、私は、せめてあなたになら。

「本当は、もう家族はいないの」

 ええ、私はもうお母さんもお父さんも持たない、隔離された存在なんです。

 体が勝手に動くことって、本当にあるんだ。もはや意識せず、気がついたときには彼女の体に飛びついていました。頬を擦り寄せると、鎖骨が軽く当たって、気持ちいい。彼女の全身の熱が気持ちいい。ほんわりとしていて温かで、安心してもたれ掛かってしまいそう。

「よくある話なの。お父さんとお母さんが離婚して、私をお父さんが引き取ったんだけどね、再婚相手の人が私のことをあまりよく思っていなくて。お父さんも今度こそうまくいきたいから、私をたまたま余っているビルの三階に住ませた」

 背中に腕を回されたのを感じます。力が強くて、がっしりと掴んでくれています。その胸に顔を当てました。規律正しく、どくんどくんとリズムを刻んでいます。ただの他人であるはずの私を、受け入れてくれています。ああ、彼女からいい匂いがします。何か特有の匂いではないのに、こんなにも懐かしい匂いがするなんて。人の香りです。焼き上がったパンよりも優しい香りです。

 思いの丈をあなたにぶつけたい。そうして受け止めてもらいたい。あなたならば私を許してくれるかもしれない。

「小学生の頃から一人暮らしなの。ううん、時々お手伝いさんが来てくれたんだけど、それも中学生になったら必要ないと言って、来なくなった」

 静かな展望台では、私の声しか響いていません。でも、もはや吹っ切れてしまいました。ただ私の声を響かせるだけです。

「あいつらを家族だなんて絶対に認めない。もし、もし最初から私を裏切るなら私はあいつらを好きにならなければよかった! 旅行に行ったり夕日を見に行ったり誕生日に子犬をくれたり、私を、そうやって騙して!」

 今の私として生きてきた人生の中で、これほど大きな声を上げて思い切り叫ぶことなんてありませんでした。でも、溢れてきます。腹の奥から湧き上がってきます。そうして胸に充満します。喉の容量に限りがあることを悔やむほどに、全てを吐き出したくなります。

 背中が、ゆっくりと撫でられました。彼女を困らせたかもしれません。でも、もう自分を止める余裕もありません。今の私はただ彼女の温度を貪りたい。

「だからね、私は幸せになったぶん不幸せがやってくると思う。誰かを好きになったぶん、失ったときに辛くなるのと同じ。ううん、裏切りだけじゃなくて、結局人間は死んだり、別れたりするんでしょう? 大好きな人とずっと一緒にいたいのに、永遠がないから、ずっと一緒にいられない。永遠がないのは、仕方がないよ。だから、生きていくとすれば、幸せになりすぎちゃいけない。幸せなときに不幸せになりに行った方がいい。せめて、不幸せになったときに受けるショックを軽くしようと思うの」

 ふと、ハンカチが私の目元を拭いていることに気づきました。私はやはり、泣いてしまっていたようです。彼女がこんなに近くにいるのに、彼女の体温がひしひしと伝わってくるのに、ぼやけて、その姿がとても遠く見えます。

 私は今幸せです。きっとこの瞬間がかつてないほど幸せです。彼女はひたすらに優しいです。最悪の私を受け入れます。私はもっと甘えたいです。もっと甘えさせてほしいです。足枷を取っ払ってしまいたいです。そうしてずっと彼女の匂いを嗅いでいたいです。

「私は君を幸せにしたいと思う、けど」

 澄んでいて聞き取りやすい彼女の声が鼓膜に張りついて、なかなか消えてくれません。

 私もあなたと幸せになりたい。

 そんな気持ちを胸に発見したとき、私は自分が既に抜けられない深みにはまってしまったことを自覚したのです。恐ろしくて仕方がありません。私自身も彼女も恐ろしくて仕方がありません。この心地よさに揺すぶられたい以上に、恐ろしくて仕方がありません。早く、早くその庇護から逃げ出さなければいけません。

 ――生きていくとすれば、幸せになりすぎちゃいけない。幸せなときに不幸せになりに行った方がいい。せめて、不幸せになったときに受けるショックを軽くしようと思うの。

 この瞬間の私はきっと幸せ者です。だから、早くこの幸せを壊さなければいけません。壊さなきゃ。全部壊して逃げなきゃ。

「そう。優しいね」

 私は口元を緩めてみました。私は笑い方を決して忘れてはいけません。笑顔とは、私はあなたを害するものではありません、と伝えるための動作です。それ以上の意味を持ってはいけないのです。

 すっと、彼女の腕の中を抜けます。肌に張りついた彼女の体温が少しずつ冷えていきます。常に冷たい私の体温になるまで熱が空気へ逃げていきます。

 ほら、やればできるじゃない。

「あなたって、優しすぎるよ」

 本当に、私なんかより、ずっとずっと優しい。

 泣き止んだばかりの弱々しい声と共に、くるりと回って彼女に笑顔を見せました。私は笑顔が最も得意です。二度と裏切られないと誓いました。自分を自分が守るしかありません。

 好き。あなたが好き。好きだと思ってしまったのですから、あと少しだけ一緒にいさせて下さい。そしたら、きちんと終わらせますから。

 揺らぐ深い瞳の中に映る私は、どんな風に笑えていますか?

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