7 あったかい
私はどうしても別れを告げることができませんでした。
あれから何ヶ月か経った冬の日、私たちは雪が積もった道路を踏みしめながらカフェの扉を開けました。冷気と共に眩しく目に差し込む白い光を背後にして、暖房の効いた建物の中に入ります。
「君は何にする?」
「ホワイトチョコのミルクレープが食べたいな」
私が答えると、彼女は控えめに微笑んで頷きました。小さく手を挙げて、彼女が二つのミルクレープを注文します。
つき合った翌日、彼女は髪をバッサリと切りました。その理由はよく分かりません。しかし、彼女なりに私の態度に思うことがあるのでしょう。さすがにあそこまで顕著に焦っていたのですから、彼女に何かしら察されない方がおかしいです。
失恋の意味で髪を切ったのでしょうか。いえ、それだと彼女は私に優しすぎます。私にはもったいないくらいに、優しいのです。失恋したと自覚している人間は、そこまで相手に優しくできないのでしょう。ううん、できるかもしれません。でも、それでは余計に罪悪感を覚えてしまいますから、そう思いたくありません。
注文のケーキと紅茶が来ました。彼女は私のために牛乳をティーカップの中に入れてくれています。私がいつも紅茶をミルクティーにして、角砂糖を二つほど入れるのを見てくれているからでしょう。
彼女は私にお礼もお返しも求めません。ただ黙って優しいことをしてくれるのです。その相手が私であることを悔やみます。
「いつもありがとうね」
彼女の手からティーカップを受け取って、笑顔でお礼を言います。返されたのは、控えめな笑みだけです。
まさか冷たい対応しかしてこなかった彼女が、私のために笑ってくれるようになるとは思いもしませんでした。いつも硬い表情でいるからこそ、彼女が少し口元を緩めただけでどうしようもなく嬉しくなります。生きた人間っぽくて、少女らしくて、暖かいです。私はきっと彼女の笑顔が好きなのでしょう。どうしてなのか、見当がつきません。
彼女はミルクレープを小さく切り分けてから、一つ一つ口に入れていきました。話していないときは大体無表情です。でも、きちんと好きでいてくれていることが動作から伝わります。それを自覚すると、どくどくと生温いものが胸の中に充満する感覚になります。
私は貪欲な人間です。決して満ち足りず、この感覚から離れることができません。だから彼女と別れられないのです。
「どうかした?」
ふいに顔を上げると、彼女は心配そうに眉をしかめていました。私は気づかないうちに自慢の笑顔が崩れ落ちたのを発見します。慌ててもう一度笑みを顔に張りつけました。
「ううん、考え事をしてただけなの」
「ならよかった。ちょっとごめんね」
突然ペーパーナプキンを取って、私の口元を軽く拭いてくれました。口にケーキがついていたみたいです。私の顔がおかしいのか、彼女はにやにや笑いながら目を細めました。恥ずかしい。私は髪を耳に掛けつつ、視線を逸らしてごまかします。
汚れたペーパーナプキンを食べ終わったお皿の上に乗せて、何事もなかったかのように無表情に戻る彼女。まだ食べている私をじっと見てきますので、
「どうしたの?」
と聞いたら、
「食べてるの綺麗だから、つい」
と言って、素直に顔を横に背けてくれました。これがずっと無表情だからすごいです。もし誰にでも無意識にこんな言葉を向けるなら、彼女は人たらしになれます。でも、それでは困りますね。
いえ、困ってはいけませんが。
私の中では常に二つの勢力がせめぎ合っています。残念なことに、彼女と出会ってから、あってはならない私の本心がどんどん領地を拡大していくのです。
食べ終わって、カフェの扉を再び開けました。寒風が吹き荒れて、地面に膜を張る雪を空へ飛ばそうとしています。扉に乗せていた手を引っ込めました。駅がすぐ近くにあっても、あの中に足を突っ込むのは少々嫌でした。
彼女はやすやすと扉の外に出ていきます。黒のオーバーコート、私のモコモコした白いボアコートより絶対に寒いはずです。体温が私より高いからでしょうか。それとも寒いと感じても外面に出さないからでしょうか。どちらか分かりませんが、まだ外に出ていない私を見て困惑気味に首を傾げていますので、私も渋々と肌を突き通る寒さへと足を伸ばします。
駅まであと少し。中に入ったらそれぞれ違った電車に乗って帰らなければいけません。
「もしかして、寒い?」
彼女は体が勝手にプルプル震える私を見下ろしました。
「さぶい」
調子に乗って寒そうな言い方をしました。
「ほら」
私が手を突っ込んだボアコートのポケットに彼女の手を入れて、ぎゅっと握ってくれました。ポケットに入れても変わらず凍りついていたのに、柔らかな熱で少しずつ溶かされていきます。すごく、温かいです。全身に熱が回りそうなくらい、温かいです。
それでいて彼女の表情は変わりません。ずるいです。
「あったかい」
そう呟いて、私もぎゅっと握り返しました。すると、彼女はやっと照れたようにぷいとそっぽを向きました。
何だか、きちんと恋人として何か彼女にしてあげられたような気分になります。何だか、幸せな気がします。幸せになりすぎてはいけないのに、駅に着いても、ずっとずっと手をぎゅっとしていてほしいです。
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